Sightsong

自縄自縛日記

シルヴィ・ブシャールの仲間は誰だろう

2007-07-31 23:37:38 | 北米

一昨年末(2005年)、カナダのモントリオールで、空いた時間にモントリオール現代美術館に入った。ケベックで活動している、シルヴィ・ブシャール(Sylvie Bouchard)という人の個展だった。ミニマルなつくり、透明感も材質感もある描写、少し不気味な孤独感が気に入って、画集を買って帰った。

写真でいえば、ホンマタカシや佐内正史など露出オーバー目で被写体との距離感が微妙な人たちの作品と、あっけらかんと牢獄に閉じ込められているような感覚が似ているような気がする。

ときどき取り出して眺めているが、インターネットで調べる限り、日本ではあまり紹介されていないのだろうか。解説を読むと、80年代からの新たな具象画、ニュー・フィギュラティブ・ペインティングの文脈に位置づけられているようだ。『美術手帖』第763号(1998年)に、「新しい具象 90年代のニュー・フィギュラティブ・ペインティング」が特集されている。当時読んだが、このあたりは勘所がなく誰が誰だか忘れてしまったし、この号も既に手元にはない。彼女の仲間にはどんな人たちがいるのか、もう少し調べてみよう。


二大政党がよいのか

2007-07-30 23:59:43 | 政治

参院選で、山内徳信さん(比例区)、糸数慶子さん(沖縄選挙区)がそれぞれ議席を獲得した。これからの日本の縮図とも言うべき沖縄の諸問題に関して言えば、正直、嬉しい結果。

しかし、選挙区は当然として、比例区でも自民党、民主党以外の票がほとんど伸びていない。

「保守対リベラル」とは言えず、また、如何に各党内にさまざまな意見を持つ議員が居ようとも議決時にはマシーンになってしまうような状況では、第三党、第四党の声が反映されるような方法が良い気がする。

それとも、私たち有権者が、自民党がイヤなら民主党、程度の判断能力しか持たなくなっているのだろうか。


「けーし風」読者の集い(2)

2007-07-29 08:56:59 | 沖縄
神保町の「書肆アクセス」が、2007年11月にお店をたたむそうだ。地方出版の本を専ら扱う書店は他にない。お店の方も残念がっていた。私も残念。

==========

『けーし風』読者の会に参加してきた(2007/7/28、千代田パークサイドプラザ)。参加者は10人くらい。

第55号の特集は「沖縄がつながる」。エクアドル、フィリピン、グアム、韓国など、米軍や自国の基地に関して撤廃を目指す動きがあるところの声をまとめたものになっている。

このような個々の動きは、一部を除き、おそらくあまり知られていない。つまり、マスメディアが「マス」に提供する情報の拾い方が「マス」となっていないということができる。

このことは、各地の声として挙げられている。

もっとも深刻なのは、フィリピンのメディアがこの問題を報道しないことです。ミンダナオは首都マニラとはとても離れています。ミンダナオで実際に起こっていることは、そこに住んでいる人たちに直接聞かない限りわかりません。中央の新聞やテレビにはほとんど出てきません。そこは沖縄と共通しているように感じます。沖縄のことも、中央のメディアでは報道されていませんね。」(アジア平和連合のコラソン・ファブロス氏、30頁)

さらに、中南米ではエクアドルでの動きだけでなく、ヴェネズエラ、ボリビア、コスタリカ、ニカラグア、ブラジル、チリ、アルゼンチンなど、程度の差こそあれ、米国の介入を否定する政権が次々と誕生している。これが日本で報道される場合には(報道そのものが少ないのだが)、「反米」「左翼政権」との強調がなされる。当事国の中だけでなく、クロスボーダーの課題についてもメディアに問題が見られると思う。

というような、メディアの問題を提起した。それに関して、「ねじれ」の問題として、座間で活動されている方からは、「座間と相模原はお隣ながら温度差がある。さらに岩国など国内と連携すべきだが、なかなかうまくはいかない。それよりは海外の話になってしまう」との発言があった。シーズのゆるやかな連携は、顔がどれだけ見えるか、そのお互いの距離感によって難しい点もあるということだった。

後半は、上原信夫さんのお話。今号でも、「荒廃した沖縄で政治活動に奔走」というインタビュー記事になっている。上官から反軍行為を理由に「死刑」を宣告されるものの難を逃れ、戦後沖縄に戻って沖縄民主同盟などの活動をしてきたころの話であり、実にもう凄い話が出てくる。記事もごく一部のピックアップだそうだが、このあたりはまずは記事を読んでいただくほかはない。

その他

●出たばかりの『基地の島・沖縄からの問い―日米同盟の現在とこれから』(新崎盛暉、創史社)を持ってこられた方がいたので一部購入した。→感想

●8月3日(金)18:30より、『消えた鎮守の森』上映会と井原勝介・岩国市長のお話が、三鷹市市民協働センターで行われるそうだ。時間が許せば足を運びたい。→行けなかった

●出席者のご好意で、ドキュ『ナツコ・沖縄密貿易の女王』を貸していただいた。後日、奥野修司氏の著作とあわせて感想を書くつもり。



旧江戸川でJupiter-12、ヘンな色

2007-07-28 08:57:47 | 関東

晴れたり曇ったりのヘンな天気だったが、ライカM4に旧ソ連製のレンズ、Jupiter-12(35mm/f2.8)を付けて散歩。

あがってきた写真はまるで曇天。ダイナミックレンジは狭い。絞りの表示はあてにならない。リバーサルだとこのように振り回されるが、ネガカラーを使ったら独特の発色が楽しめ、ダイナミックレンジの狭さも気にならない。

このレンズは実は3本目。2本目に使ったものはピントが甘かったので手放した。また、これに限らず、旧ソ連製のレンズは距離計との連動がかなりアバウトだ。だからボディとの相性があるし、実際に使ってみるまではなんともいえない。いまの手持ちはシャープで気に入っている。でも、ネガカラーを使うことにしよう。


ライカM4につけたJupiter-12。レンズの後玉は盛り上がっている。


このあたりは自然排水ができないので排水機場が多い Leica M4、Jupiter-12、コダックエリートクローム400、ダイレクトプリント


夜に備える屋形船 Leica M4、Jupiter-12、コダックエリートクローム400、ダイレクトプリント


新井川の猫 Leica M4、Jupiter-12、コダックエリートクローム400、ダイレクトプリント


ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー

2007-07-27 23:52:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

自由人、無国籍人、ドン・チェリーの1966年の録音『Live at the Cafe Monmartre 1966』(ESP)が出た。ブルーノートの『Complete Communion』のあと、欧州に渡って、カール・ベルガー(vib)、アルド・ロマーノ(ds)と組んだものだ。

フロントはアルゼンチン出身のテナーサックス奏者、ガトー・バルビエリと組んでいる。演奏の完成度じたいは、さほどレコードとして評価されるものでもない気がする。しかしそれよりも、各人がまるで「音楽の力」を信じてぶつかり絡み合う様は、文字通り感動的で、聴いていると後頭部が熱くなってくる。 ドン・チェリーは、『ダウンビート』誌の取材で、リロイ・ジョーンズ(のちのアミリ・バラカ)にこう言ったという。「グループを組むには2人いれば十分だ。もしその2人が、強く、そして独自であれば・・・。」もちろん、この独自性はバルビエリに見出しているのである。(ジャズ評論家のRuss Mustoによる)

このCDにはもうひとつの目玉がある。おまけ(目立たない!)として、ESPレーベルのサンプラーDVDがついているのだ。これが凄い。ESPレーベルで作品を発表した音楽家別に、レコード1枚につき2曲程度がおさめられている(長い曲は一部分)。画面には、そのレコードジャケットと解説が表示される。ESPのレコードやCDは大分持っているが、知らないものも随分ある。

ESPだから、アルバート・アイラーの数がとても多い。他にも、オーネット・コールマン、ファラオ・サンダース、サン・ラ、マリオン・ブラウン、ジュゼッピ・ローガン、ポール・ブレイ、スティーブ・レイシー、ガトー・バルビエリ、バイロン・アレン、フランク・ロウ、ソニー・シモンズ、サニー・マレイ、ノア・ハワード、チャールス・タイラー、フランク・ライト、ミルフォード・グレイブス、バートン・グリーン、ギュンター・ハンペル、・・・書ききれないほどの猛者たち。ビリー・ホリデイやバード、バド・パウエルといった巨人の録音もある。溶けそうだ。

あらためて、マリオン・ブラウンの叙情的なアルト(いまは引退してハリウッドに住んでいるそうだ!)、ポール・ブレイの危ういピアノ、バド・パウエル晩年の酔っているようで恐ろしいほどの力をもつピアノ、ノア・ハワードの人間くさいアルトなどに心を奪われる。

そういえば私のレコード棚に、『The ESP Sampler』というレコードがあるが、こういうつまみ食い的集約ではDVDに敵わない。


『Live at the Cafe Monmartre 1966』(ESP)


マリオン・ブラウン


バド・パウエル


『The ESP Sampler』と、CD発売時から大事にとってあったESPのブックレット


参院選に行こう

2007-07-26 00:55:25 | 沖縄
こんどの日曜日、2007年7月29日は、参院選である。通常選挙だから、定数の半分の議員が改選されるわけだ。

ここで「おさらい」をする。(わかっている方はとばしてください)

現在、参院選は選挙区(都道府県)と比例代表とに分けられている。比例代表は、いわゆる「非拘束名簿式」になっている―――つまり、政党が候補者の順位を決めているわけではない。そして、比例代表については、政党の名前でも、候補者の名前でもよい。候補者名は、地域に限らない。

比例代表の枠で、政党が得る議席は、政党名+候補者名、によって決まる。その議席を、政党ごとで誰に与えるか―――これが、候補者名で投票された数によって順位付けされる

だから、比例代表の議席についても、○○さんに入れたい、という意志が反映されるわけだ。

選挙に行くと、その2つについて記入する。たとえば

選挙区 Aさん(地域にポスターが貼ってある人)
比例  Bさん または ホニャホニャ党


「ホニャホニャ党であれば誰でもいいや」なら政党名、「特にBさんがいい」なら個人名。



沖縄はこれからの日本の縮図である。端的にいえば、良心ある人の意見を無視して強権的に政策を進める国、米国に追従して正義なく他国の人々を殺す国、環境を平気で破壊する国、こうした国がイヤならば、沖縄の諸問題に関して意見を発信している方に投票すべきだと強く思う。

仮に首都圏の市民でも、東北地方の市民でも、山口県の市民でも、地域にこだわらず、そのような候補者の名前を書けばよい。

参議院が、衆議院で議決されたことをそのまま議決する下請機関では問題がある。少なくとも、いろいろな声を反映し、問題があれば抑止力となってもらわないと存在意義がないではないか。

以下、是非読むべき記事

●全国区のテレビや新聞だけでは不十分ということ → 「JANJAN」『TVから消えた「ご意見番」 森田実氏』
●殺人までして基地建設や環境破壊が進めようとされていること → 「「癒しの島」から「冷やしの島」へ」『辺野古殺人未遂事件を明るみに!』

渡部さとる写真展「traverse」、上本ひとし「OIL 2006」

2007-07-25 23:20:54 | 写真
仕事のついで(?)に、中野のギャラリー冬青で、渡部さとる写真展「traverse」を観た。

『旅するカメラ』、『旅するカメラ2』、『旅するカメラ3』(えい文庫)に掲載されていた写真がいくつもあった。ハッセルSWCで撮られたNY、ライカM3+ズマロン35mm/f3.5で撮られた江古田、ローライ2.8Fクセノタールで撮られたバリ島、ローライ2.8Eプラナーで撮られた米沢、タムロンの500ミリミラーレンズで撮られたモンゴル。2点以外は全部モノクロだ。

『旅するカメラ』では、モノクロはトーンの美しさだと言っていた渡部氏だが、『旅するカメラ3』では、「写らないこと」「甘さ」が良いと表現を変えている。後者についてはいまひとつ納得できない―――デジタルの、ヘンなエッジのシャープさがないことをこう表現すると勘違いしてしまいそうだ。エッジも連続性があり、それは尖っていないで鋭角でもシャープでも甘い、ということじゃないか?

この本の3部作は、カメラマンの生活や考えや失敗談を、等身大で語ってくれて、とても親しみやすい。カメラが大好き、ということも、斜に構えた某有名カメラライターとは違って、素直に読むことができる。

『旅するカメラ3』の表紙の、ライカの引き伸ばし機フォコマートもいいなあ。中古カメラ屋で見ても古いものにしか感じられなかったが、これはみるからに精密機械だ。私の安物とはえらい違いだ。

ただ、ギャラリーに展示された写真も、やはり「等身大」に感じられた。それが魅力なのかもしれないが。

そのなかでは、本には掲載されていなかったカラー写真(今回のDMや同時に出版された写真集『traverse』の表紙になっている、中国の船の写真)や、スクエアのモノクロで撮られた、木々の枝や葉から蔦が川に垂れ下がっている写真(どこだろう?)が、とても良かった。後者は、水の水平と、蔦とそれが水に映った垂直とが優しい構造を成していて、「トーン」も美しいものだった。

帰宅したら、同じ冬青社から写真集を出している上本ひとし氏より、先日のニコンサロンでの写真展「OIL2006」訪問者への葉書が届いていた。染みの写真以外も、存在感が凄くあっていいなあと改めて感じた。








戦争被害と相容れない国際政治

2007-07-22 22:19:41 | 政治

報道される範囲が一面的にグローバルになり、またさまざまなことが次々に起きていくので、私たちは、「ちょっと前」以前に何があったか忘れがちになっている。たとえば湾岸戦争ですらそうなのだから、ヴェトナム、世界大戦などの爪痕を隠そうとする動き―沖縄で枯葉剤を使っていたことを報道しないとか、日本軍が国民を殺したことを教科書から消そうとするとか―については、歴史、社会、教育、個人などいろいろなレベルで記録と記憶に刻み込み続けることが必要なのだろうとおもう。

『現代の戦争被害―ソマリアからイラクへ―』(小池政行、岩波新書、2004)は、この10年そこらの戦争―ソマリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、アフガニスタン、イランについて、それを改めて行ってくれる本だ。

大きなメッセージとしては、大国の介入がいかに各国にひずみをもたらしたか、米国の一方通行的正義がいかに間違ったものか、国際人道法に違反する残虐行為がどれほど行われ隠されているか、米国のピンポイント攻撃の精度は甘く(それゆえ確信犯的に)民間人をどれだけ殺し続けてきたか、といったところである。これは、さらには、「そのようなもの」に過ぎない大国の介入(=戦争)に、「国際協力」の美名の下に追随する日本への批判ともなっている。

○ソマリアでの米国軍への反撃(93年)により、米国の非国連主義ともいうべき独善性がエスカレートしていく。そしてコソボでの空爆強行以来、米国は、軍事力行使を正当化する決議を国連から得ることを放棄している。
○米国が派兵すべきかどうかについては、世論が最大の要因だった(広告代理店までがイメージ形成に関わる)。裏を返せば、誰かにとって都合の悪い情報は、報道しないことがもっとも効果的となる。
○ユーゴ、イラク(米国は対イランのためイラクを援助していた)、アフガニスタン(米国は対ソ連のためビン・ラディンをも援助していた)、コソボなど、米国が武器支援などの介入を行ったことにより、問題が複雑化している。
○かつて「自衛だけが軍事行動の根拠となる」と公言していた英国ブレア首相は、コソボ紛争時に「人類的価値と新しい国際主義」のためとしてセルビアを爆撃する(99年)。このときに、自衛以外を目的とする戦争の大義名分が拡張した。
○コソボでは、米軍は空爆にあたって合意など目指しておらず、NATOの信頼性強化に真の狙いがあった。
○コソボでは、NATOの空爆により、住民の半分近くを難民化させた。平和などもたらさなかった他方で、米国企業は多くの難民キャンプや軍事基地の設営により大儲けしている。
○国連におけるテロリズムの議論にあたって、米国やイスラエルの態度は、自分たちに向けられたもののみテロリズムと見なすものだ。(自らは決して裁かれないが、他者は裁かれる)
○米国の宣伝するピンポイント爆撃は実態に程遠く、多くの民間人を確信犯的に殺している。それだけでなく、クラスター爆弾や劣化ウラン弾など、殺傷力の強い武器さえ使っている。 このような事実を背景に、小池氏は、米国が敵に対する攻撃を、「やたらに」、自らは安全な位置から行う感情のなかに、敵であるヴェトナム人、イラク人、イスラム教徒の命の重みに対する偏見や軽視の気持ちを見出している。

小泉首相以降の、自衛隊の多国籍軍への参加はどう考えるべきなのか、その答えは明らかだ。

とにかく自衛隊を多国籍軍に参加させたい、という気持ちのみが先走りしていないか。非軍事活動のみを行う自衛隊というのは虚構である。国民の納得を得るために、このような虚構を維持するのは、誠実な政府がやることではない。国民には本当の問いかけを行わず、現場では自衛隊員に生命を危険に晒す無理を強いることになる。

そして、見せかけだけ視野がグローバルになっている私たちが考えなければならない命は、当然ながら、爆弾や銃弾が向けられる人々のものだ。『イラクの小さな橋を渡って』(池澤夏樹・文、本橋成一・写真、光文社文庫、2006)は、戦争で直接的な危険に晒されているイラクの人々と触れ合い、人間味のある姿を十分に伝えている。「個」の集まりは、「国」や「攻撃対象」に一元化されるものではない。それを差し置いて安全保障を考えてはならないと思う。

戦争というのは結局、この子供たちの歌声を空襲警報のサイレンが押し殺すことだ。恥ずかしそうな笑みを恐怖の表情に変えることだ。 それを正当化する理屈をぼくは知らない。

感情論だけでなく、沖縄の米軍基地は、そのような戦争遂行のために次々と使われてきている(ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、イラク攻撃、フィリピン南部攻撃)。

つまり、私たちがしわ寄せ的に沖縄に押し付け見ないようにしているだけで、私たちは明らかに戦争に加担している。ということは、私たちは無意識または意識的に、罪のない子どもたちを残虐に殺しているということだ。

『沖縄基地とイラク戦争 米軍ヘリ墜落事故の深層』(伊波洋一・永井浩、岩波ブックレット、2005)は、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落を機に、そのような構造を説いている。ここでは、さらに米軍基地周辺の安全性もクローズアップされている。普天間も高江も、住民の暮らす隣であり、事故が0%になりえない以上、命の軽視といわれても仕方がないだろう。

このような沖縄と本土との「温度差」をなくすような報道をするのが、ジャーナリストの本来の役割のはずである。だが中央の権力に寄り添い、その目線でしか沖縄の問題をとらえようとしない本土メディアには、米軍ヘリ墜落事故が突きつけた深刻な問題を沖縄市民の視点から解明していこうという姿勢はみられない。そのひとつが、米国の戦争と直結した沖縄基地の実情についてである。

最近についても、辺野古で自衛隊が自国民を威嚇したこと、やんばるで枯葉剤が使われていたこと、辺野古でも高江でも明らかな環境破壊を行っていること、辺野古で反対する住民に対し那覇防衛施設局に雇われた業者が暴力行為を繰り返していることなど、いちいち本土の大手メディアではろくに報道されていない。「ニュースバリューがない」「読者の興味がない」「報道が偏っている」ではなく、報道の自主規制としか思えない。メディアは死んでいるのだろうか?


『現代の戦争被害―ソマリアからイラクへ―』(小池政行、岩波新書、2004)


『イラクの小さな橋を渡って』(池澤夏樹・文、本橋成一・写真、光文社文庫、2006)


『沖縄基地とイラク戦争 米軍ヘリ墜落事故の深層』(伊波洋一・永井浩、岩波ブックレット、2005)


浦安魚市場(10) 枝豆、あさり

2007-07-22 20:29:48 | 関東

土曜日は浦安魚市場の「夏の大感謝祭 抽選大売り出し」ということなので、張り切って出かけた。福引の結果、「浦安ブライトンホテル宿泊券」とか「ロシア産ズワイガニ」などにはかすりもせず、麦茶パックだった。

しかし、息子は小学校の夏休みの宿題をひとつ片付けた。何かの仕事のひとにインタビューをするという課題だったので、「泉銀商店」に連れて行った。快く協力して下さった・・・ありがとうございます。オヤジが居ないほうがいいだろうと思い、その間野菜を買っていた。いまの旬の魚(スズキ、ミズダコなど)は、温暖化の影響か時期がずれて漁獲量が少なくなっているそうだ。(あとでこっそり聞いた。)

暑いので、「丸善青果」で、船橋産の枝豆を買って帰った。なんでも浦安は枝豆大消費地域らしい(『市場で働くマーケッ娘のぼやき』枝豆LOVE)。どこまでそうなのかよくわからないが何となく嬉しい。

以前は、居酒屋とかビアガーデンで出てくる枝豆が嫌いだったが、あれは冷凍だからなんだと気が付いたのは比較的最近のことだ。これも塩もみして5-6分茹でて、最後に塩をふったらとても旨かった。

主食は夏らしく冷たいうどん(妻と息子が作ったのだが)。打ち立てはぴかぴかつるつるで信じられないほど旨い。以前、これに柚子の皮を練りこんだらとてもさっぱりして、なんちゃって「くがにめん」(沖縄県大宜味村の「笑味の店」・・・まだ行ったことがないが)になった。「くがにめん」はシークワーサーの絞り粕を使っているそうだが、ここではちょっとできないなあ。

ところで東京湾のあさりで、あさりバターを作ったが、もう旬が過ぎているせいか以前ほど旨くなかった(旨いんだけど)。


船橋の枝豆 旨い旨すぎる


うちたてのうどん 旨い旨すぎる


大島渚の「少年」 神保町シアターではなく自宅で(笑)

2007-07-19 23:29:10 | アート・映画
大島渚の1969年作品『少年』を観た。

10年くらい前に、池袋にあったACTセイゲイ・シアターのオールナイト(大島渚特集)で観てから、ヴィデオを含め何度も観ている。今回、神保町の三省堂裏に「神保町シアター」ができて、『川本三郎編 映画の昭和雑貨店 こどもたちのいた風景』という企画の1本で『少年』をやっていたので、会社帰りに立ち寄った。ところが、前日で終わっていた(笑)。悔しいので、自宅でヴィデオを観た。本当は大画面がよかった。

何度観ても、逃げ場のない世界での少年の言動に動揺する。

各地を転々とし、両親に当たり屋を強いられている少年。ひとりで隠れん坊をしたり、家出をしてひとり海辺で「祖母の家に帰った」ふりをしたりするが、逃げ場はない。少年を囲っているのは、家族、さらには国家という「装置」である。

この奇妙な映画が何故まだ力を持つのか。手持ちの、大島渚についての本では

○『ナギサ・オオシマ』(ルイ・ダンヴェール、シャルル・タトムJr.、風媒社): 映画形式の向こうに現れる直接的な感情の領域、日本社会から離れるがゆえに日本社会の典型である「家族」、父親・社会・政治・軍隊・警察組織・天皇・教育という権力範囲への監禁と国境の存在、判断ではなく提示、少年の想像界での救済
○『大島渚のすべて』(樋口尚文、キネマ旬報): 映画イメージの具現化という恩寵、日の丸と家族制度の腐った墓場とのアナロジイ、日の丸と血とのアナロジイ
○『大島渚2000』(ユリイカ2000/1、青土社): 国家の被害者(傷痍軍人である父親)の自らの国家化(齊藤綾子)、素直に見るべき抑圧された少年のドラマ(森直人)
○『フィルムメーカーズ9 大島渚』(田中千世子編、キネマ旬報): 戦後の日本を象徴する奉仕と憐憫という父母像、情緒を排した孤独の悲哀感(品田雄吉)

といったところ。国家論とミニ国家論、純化されたセンチメンタリズムといった論旨が中心であるが、どれも十分でないような気がする。

その中で、前出の品田雄吉による指摘、感情の振幅に中間項がない大島渚の特色、ということが、個人的にはヒントになりそうだ。実際、中学生が極端で奇妙な言動をする違和感、それが国家と家族という監禁状態において現れることへの哀れみと怒り、こういったことが映画の隅々から観る者を刺激し続け、宙ぶらりんにさせるのではないか。

田村孟による脚本、戸田重昌による美術(なんで旅館の室内に大きな日の丸があるのか?)が素晴らしいと思う。



ジュゴンのレッドデータブック入り、「首都圏の水があぶない」

2007-07-18 23:35:42 | 環境・自然
環境省がまとめている『レッドデータブック』(絶滅のおそれがある野生生物の種についての生息状況)は、IUCN(国際自然保護連合)の方針に沿って作られている。

哺乳類、昆虫類、鳥類など分類別に分けられており、まずは『レッドリスト』(レッドデータブックに揚げるべき日本の絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)が作成され、次に『レッドデータブック』が編纂されるという流れである。

現在、哺乳類についての見直しがなされている。その中に、ジュゴンが含まれる方針のようだ。法的拘束力はないが、ジュゴンの生息域すなわち辺野古に基地建設を進めることへの反対根拠にはなる

○琉球新報「ジュゴン絶滅危惧種に レッドリスト入り準備」(2007/4/21)

一坪反戦地主会関東ブロックの方に教えていただいた話。当初は3月決定の予定、次に6月決定の予定、と、何故か延期されているようだ。官公庁の決定が遅れるのはよくあることだが、今回は国策と関連性が強いだけに、疑念を抱くことは不自然でない。動向を見ておきたい。

==========

『首都圏の水があぶない 利根川の治水・利水・環境はいま』(大熊孝・嶋津暉之・吉田正人、岩波ブックレット、2007)を読んだ。利根川水系といっても利根川だけではなく、荒川や江戸川なども含まれている。

利根川水系の治水計画が、いかに現実から乖離した想定をもとに作られつづけ、それが上流でのダム建設必要性のストーリーに結び付けられてきたかがよくわかるものとなっている。これによると、もう治水は河川改修だけで十分対応可能である。ただ、上下流の生態系の連続性だけでなく、住民の親水性などにも気をつかってほしいと思うが。

また、時折報道される渇水も、農業用水の融通などによって十分対応できるとしている。

いかにもありそうな話だ。 すぐ煽るマスコミへの批判でもある。

ただ、これまで同様の話はダムについて多くあったわけだが、実際の自分の生活圏との関連は、無意識的に考えていなかったのが正直なところだ。首都圏は下流で断絶しているし・・・。騙されないためにもおすすめの本である。あとは、なかなか見ることのない水道用水の出所を、周辺地域について整理したいと思っている。


旧江戸川 Pentax MX、M28mm/f2.0、コダックエリートクローム、ダイレクトプリント



三番瀬(3) 何だか不公平なブックレット

2007-07-17 23:30:36 | 環境・自然

つい先日出たばかりの、『公共事業は変われるか 千葉県三番瀬円卓・再生会議を追って』(永尾俊彦、岩波ブックレット)を読んだ。

埋め立ての危機にあった三番瀬だが、堂本千葉県知事の就任により埋め立てが白紙撤回され、また、三番瀬の保全などを目的に設置された三番瀬円卓会議でこれまでどのような議論がなされてきたのかが、整理されている。

論点のひとつは、「ヘドロの海」と化している猫実川河口あたりに人工的な干潟を造成するか、自然の力によって回復するのを手助けするか、の選択にあるようだ。もともと人間活動込みの生態系であり、特に浦安市側の不自然な埋め立てがこの現象を引き起こしたらしいので、人工的な改変が必ずしも悪ということにはならないのだろう。

この著者は、不可逆的な人口干潟には反対のスタンスを取っている。また、それが、未だ蠢いている「第二湾岸道路」のステップになってしまうことを危惧している。さらには、その、県や土建業界が喜ぶ従来型の環境破壊と、人口干潟造成を推すNGOとの関係について、まことしやかに説明している。

この説明が、いかにも胡散臭い。そのNGOに県の予算が充てられたからといって不公平だと決め付けたり(予算のパフォーマンスを評価しているわけでは決してない)、NGOを代表する方の行動について「怪しい」印象を与えるよう記述したりしているのだ。確かに第二湾岸などを造らせてはならないし、それに関する国や県や(たぶん)利権構造の動きは怪しいのだろうと思うが、それとこれとは別である。岩波の見識が問われるのではないかとさえ思える。

そのNGOが三番瀬円卓会議から離脱したことについては、いろいろな意見や事態収拾の努力や(たぶん)誤魔化しがあったようだ。

千葉県の資料(円卓会議の経緯)
円卓会議の他の委員の見解
NGOの見解(この本についても批判している)

「まっとうな組織として、県と建設的な議論をする」といったことを公言していたNGOがいまでは県への憎まれ口を公表していることも含め、ちょっと嫌な気分になる。いろいろ経緯があるのだろうが、少なくとも部外者にはそう感じられる。そして、その「諍い」を一面からのみ不公平に書いたこの本についても、決して評価できない。


ロシア・ジャズ再考―セルゲイ・クリョーヒン特集

2007-07-16 22:27:57 | アヴァンギャルド・ジャズ
前回は行けなかった「ロシア・ジャズ再考」イベント。第2回はセルゲイ・クリョーヒン特集ということで、これは行かないわけにはいかない。2007/7/15、渋谷のUPLINK FACTORY。鈴木正美さん(新潟大学)がナビゲータ、岡島豊樹さん(東欧~スラヴ音楽リサーチ・センター長/『ジャズ批評』元編集長)がゲスト、さらにクリョーヒンのステージ姿を撮影された横井一江さん(音楽ジャーナリスト)がその様子を解説。

というと固く聴こえるが、これがもういちいち面白く、脳内麻薬出まくり(笑)。

開演前は、イタリアでのポップ・メハニカ演奏のライヴヴィデオ(1990年)を流していた。ここではけれん味のあるハプニングは余りみられないが、パッチワークのようなサーカス音楽のようなもの。クリョーヒンは痙攣するように動き回り、演奏家を鼓舞していた。

さて前半は、鈴木さんのパワーポイントにより、クリョーヒンの足跡(1954-96)がクロノロジカルに辿られつつ、裏話が披露された。

●クリョーヒンは、生前、2度来日している。最初は「開かれた地平」というイベント(1989年)で、ロシア側がヴァレンチーナ・ポノマリョーワ(vo)、ウラジーミル・タラソフ(ds)、ウラジーミル・チェカシン(sax)、日本側が高橋悠治(p)、三宅榛名(p)、梅津和時(sax)などという凄い布陣。このときの様子は、NHK-BSで放映されたそうだ(誰か見せてください)。

●2度目の来日は1995年、ケシャバン・マスラク(sax)とのデュオ。岡島さんは、横浜エアジンでその恐るべきピアノのテクニックと奇妙な展開を目の当たりにされたそうで、その雰囲気を感じられる同時期のライヴヴィデオが後で上映された。いい映像で見ると、立ち会うことができた人を羨んでしまう。

●デビュー作『自由への道』(Leo、1981年)は、ピアノのあまりのテクニック振りに、米国では「テープの早回しではないか?」との疑惑があったとのことだ。実際に疑わしく聴こえる箇所があったが、それはテープの特性によるもので、あとで疑惑は払拭されたという。

『雀オラトリオ』(SPI、1992-93年)は、ヴォーカルがすべて「雀語」になっている。これが何か裏付けや何かが設定されたものかどうかは、結局、インタビューを通じても曖昧なまま(笑)だったらしい。ちなみに、私が初めて聴いたクリョーヒンのアルバムはこれであり、記憶を辿ると、『ジャズ批評』のキース・ジャレット特集号(1996年)における岡島さんの記事を読んだことがきっかけだった。この年に予定されていた来日は叶わなかったわけだが、もしクリョーヒンの死が1年でも遅かったなら、私も観ることができたのだろうか。

●クリョーヒンは20本の映画音楽を手がけ、男前だったので、2本の映画に主演している。両方ともサントラが出ているが、『ミスター・デザイナー』のものはExtra CDになっていて、少し映像が含まれている。そこでも、『雀オラトリオ』の1曲目、「Winter」が流れている。

●95年来日時、クリョーヒンは三島由紀夫の本と、100枚以上のCDを買い込んでいる。それは日本のパンク・ミュージックで、1枚は「ゲロゲリゲゲゲ」らしい。私はまったく聴いたことがないが、クリョーヒンは「僕はラジオ・ショーに呼ばれて音楽のことを喋る機会が多いんだけど、そんな時よくゲロゲリゲゲゲのCDを持って行って「こいつはすごいぜ!」といってかけると、皆んな「おっ!」「すげー!」てなもので、仰天する。「こんなのありかよ」って(笑)。 (略) これって三島由紀夫スタイルだと僕はいうわけです(笑)」。」とインタビューに答えている(前出『ジャズ批評』)。

●クリョーヒンはテレビ番組も手がけていたそうで、そこでは「ルイ・アームストロングはヴードゥー教徒だった」とか「チャイコフスキーとチベット仏教の関係」とか「レーニンはキノコである」とか、訳のわからない世界が展開されていたらしい。実際、「雀語」といい、三島とパンクといい、他人には理解不能なカオスを抱えていた。しかし、カオスが音楽世界にも展開されていた、これが冗談抜きでもの凄いところだ。

それから横井一江さんによる、1989年のメールス・ジャズ祭におけるポップ・メハニカの写真の上映があった。ステージ上で跳躍するクリョーヒンやうろうろするアヒルなど、「シアター的なパフォーマンス」の迫力が伝わってくる。観客の興奮は凄いものだったそうで、カメラマンも身動きがとれなかったそうだ。

横井さんは、旧ソ連のペレストロイカにより文化の蓋が取り払われ、さらにこの後の天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊を控える時期にあって、制度の瓦解と大衆文化のエネルギー噴出とが重なった稀有な瞬間の連続であったのだと指摘していた。

後半は1988年、ストックホルムでのポップ・メハニカ公演の貴重極まるライヴ・ヴィデオ上映。こんな破天荒なライヴ、羨ましいぞ(笑)。

●クリョーヒンと、頭に包帯を巻いて猫を抱いた人が喉歌を歌う(そういえば、トゥヴァもハカスもロシアにある)。●バグパイプの楽団が出てくる。●ジャズ。●花を活けたバケツを載せた猫車が登場。●クラシカルな弦楽器6人。●ピンク色の頭のパフォーマー。●ステージ下で絵を描く人。●詩の朗読。●散髪。●山羊の毛を刈る。白衣の人たちが廻りを踊る。●トラクターが会場外から登場。●ガチョウが8羽くらい登場。●オペラ歌手の見事な詠唱(『雀オラトリオ』のオリガ・コンディナ)。●フラフープ。●脚立に乗って火炎放射器を使う。●白い制服の海兵の軍楽隊がマーチで登場、ふざける。

皆、確信を持って真剣にふざけていることがわかる。途轍もないエネルギーが必要だろうし、すぐに「おふざけ」に走ってしまう日本の現在の文化にはここまでの強靭さがあるのだろうか。

それに、クリョーヒンのもの悲しい甘いメロディー、何度聴いても魅力的だと感じる。

以前、ひとしきり集めて聴いたクリョーヒンだが、頭蓋を揺さぶられたいい機会に、あらためて順に聴いてみようと思っている。

次回は、10/27、ウラジーミル・レジツキイ特集だそうだ。98年に横浜ジャズ・プロムナードで観たが(ウラジーミル・トリオ)、2001年に亡くなっていたのだ。知らなかった。


『雀オラトリオ』(SPI、1992-93年)


『金持ちのオペラ』(1987-91年)でも、雀オラトリオの習作が聴ける


『ミスター・デザイナー』(1989年)にも、雀オラトリオをバックに変な映像が!(別の映画での、ポップ・メハニカの演奏風景もある)


私の秘蔵(笑)、1995年来日時の映像 ケシャバン・マスラクとのデュオ





燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展

2007-07-16 20:39:42 | アート・映画
銀座の資生堂ギャラリーで、「時光 - 蔡國強と資生堂」展を観た。

蔡國強(ツァイ・グオチャン)は、廃木や金、そして火といった極めて原初的な素材を用いたインスタレーションやパフォーマンスが印象深い。今回は、蔡の火薬ドローイングの新作が出品されるというので、足を運んだわけである。

その、ドローイングは5点のみ。中二階にある小品を覗けば、春夏秋冬それぞれをモチーフとした巨大な作品である。作品はもうひとつ、空中に無数の黄金船が曳航している。

これは和紙だろうか―――その上に、墨とも焼け焦げとも見える痕跡がある。実際、焦げて孔が開いた箇所もある。その上に、蔡自身によるメモ書き、それからわずかに金色のような色もあしらってある。燃えて焦げた水墨画、ワビサビだ。痕跡とメモを凝視していると、いろいろな焼け焦げ=生命が、網膜にも痕跡を残していくような気がする。

春は、花からの流れにある魚が夜と被る。夏は、枝垂れ柳のようなフォルムの周囲に、亀や赤トンボが居る。秋は、落葉、菊、夕陽。冬は、松、梅、それからカラス。

ゲルハルト・リヒターやマーク・ロスコのように、作品の皮膚上で眼が蠢くので、数はこれくらい少なくてよかったと思った。

出品作品と同様に、これまでの蔡の活動を振り返るヴィデオがとても面白い。1995年に、東京都現代美術館に出品された「三丈塔」(廃船の朽ちた木を使った塔)は、その後、ヴェネチアビエンナーレでは、ロケットのように斜めに設置され、噴射口では中国の旗がいくつもはためいていたことを知った。それから、米国の各地で小さな「キノコ雲」を作るパフォーマンスも、実際の映像を観ることができた。

火薬に集約される人間の一面にある暴力的本性が偏在するとき、戦争が発生する。芸術やスポーツは、そうした人類の根源にある衝動を浄化する役割を担うものだ」(1986年の蔡の発言、『美術手帖』1999/3)

木や紙、建物といった、火という暴力に弱いものを使うことも、そのヴァルネラブルな特性ゆえに、何か精神性のオーラをまとってみえる。決して不快ではないしこりが残る。


「ART IN JAPAN TODAY」(東京都現代美術館、1995)より、「三丈塔」。私はこれで蔡の存在を知った


「キノコ雲のある世紀―Projects for 20th Century」(米国各地、1996)。『美術手帖』(1999/3)より


記念に、角度によって画像が変わるポストカードを買った。ポーランドで赤い旗(!)を燃やすパフォーマンス「Red Flag」(2005)。天安門事件により故郷喪失に直面した蔡の作品には、きわめて政治的な側面もある



沖縄「集団自決」問題(6) 軍命を認めたが認めないという実にヘンな話

2007-07-14 23:46:45 | 沖縄
『週刊金曜日』(2007/7/13)に、この間までの国会における答弁について報告されている。「集団自決」における、軍命の有無に関する鈴木宗男議員の質問に対する答弁である。

あらためて調べてみると(以下、衆議院ウェブサイトより転載、但し下線は私が引いた)

【質問】

平成十九年六月二十五日提出
質問第四一九号

沖縄戦における集団自決をめぐる教科書検定に関する質問主意書

提出者  鈴木宗男

---------------------------

沖縄戦における集団自決をめぐる教科書検定に関する質問主意書

一 第二次世界大戦末期に、沖縄県にて当時の日本軍から沖縄の住民に対して自決の軍命令が下されたか否かについての論争が活発化しているが、沖縄戦において、当時の日本軍から沖縄の住民に対して自決の軍命令が下されたか否かの事実について、政府の認識を明らかにされたい。
二 沖縄戦において、当時の日本軍から沖縄の住民に対して自決の軍命令がなされたとの記述が教科書から削除される検定(以下、「教科書検定」という。)が下されたが、「教科書検定」に対する政府の認識如何。
三 「教科書検定」に対して、沖縄では県議会で撤回を要求する意見書が可決され、憤りの声を上げる沖縄の住民も多いと思料するが、このことに対する政府の認識如何。


【答弁】

平成十九年七月三日受領
答弁第四一九号

  内閣衆質一六六第四一九号
  平成十九年七月三日

内閣総理大臣 安倍晋三

       衆議院議長 河野洋平 殿

衆議院議員鈴木宗男君提出沖縄戦における集団自決をめぐる教科書検定に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

---------------------------

衆議院議員鈴木宗男君提出沖縄戦における集団自決をめぐる教科書検定に関する質問に対する答弁書

一について

 先の大戦において、沖縄は国内最大の地上戦を経験し、多くの方々が、犠牲となり、筆舌に尽くし難い苦難を経験されたことは承知している。お尋ねの沖縄戦において不幸にも自決された沖縄の住民のすべてに対して、自決の軍命令が下されたか否かについて、政府としては現時点においてその詳細を承知していない。
 なお、沖縄戦における住民の犠牲者のうち、戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二十七年法律第百二十七号)の適用上、過去に戦闘参加者と認定されたものについて、その過程で軍命令があったとされた事例がある

二及び三について

 沖縄戦におけるいわゆる集団自決については、種々の議論や意見等があることは承知している。しかし、歴史教科書の検定は、国が特定の歴史認識を確定するという立場に立って行われるものではなく、学習指導要領や教科用図書検定基準により、教科用図書検定調査審議会の専門的な審議の結果に基づき行われるものであり、御指摘の検定についても、沖縄戦の実態について誤解を生ずるおそれのある表現に関して、適切に検定意見を付したものと認識している。


==========

要は、軍命があったことを、旧厚生省は「援護法」の適用にあたって認定はしたが、それと教科書とは関係ないということである。これ自体が自己矛盾だが、他に気になること。

●「不幸にも自決された沖縄の住民のすべてに対して」と表現している。これは、軍命が「一部」しか証明されない、というストーリーにしたいということではないか。
●直接的な軍命の有無、だけではなく、教育や世論形成、それまでの軍隊の言動、などを通じたマインドコントロールにより、この悲惨な事件が起きたことが、既に多くの方の証言により見えてきている。この質問と答弁の過程は、問題を直接的な軍命の有無だけに閉じ込めてしまう危険があるのではないか。
●「援護法」により既に年金や弔慰金などを受け取っている遺族や犠牲者の方々にとってみれば、オカネ(靖国的名誉を含む)を返還しなければならないのではないか、との不安が生じるのではないか。(→石原昌家氏によるご指摘:「沖縄「集団自決」問題(3) 大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会(沖縄戦首都圏の会)」参照)