Sightsong

自縄自縛日記

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』

2017-10-29 22:57:50 | 思想・文学

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(新潮社、原著1979年)を読む。

ヨーロッパにおいて、17世紀の初頭までは、性に対する社会的な態度は明け透けなものであったという。やがて、それは隠され囁かれる対象となってゆく。

そのことは、権力による抑圧ということを単に意味するものではない。性の側は、新たな発見と増殖を繰り返していった。フーコーがこのきっかけとして挙げる装置が、キリスト教のもとでの告白である。実際に信者が告白したのかどうかは本質的な問題ではない。この装置によって、性は倒錯や変態的なものを含め新たな関係を無限に見出し、それまでにはなかったノード間を結び付け、新たなものでありながら本能そのものとして成長していった。まさに「知への意志」である。

すなわち、これは、上からの権力に抗し拒否する下のダイナミクスなどではない。このとき権力に上も下もなく、別の権力関係の創出に他ならないのだった。これは人間の認識領域も、あるいは医学的な領域も拡張した。もとの人間は変わらずとも、人間が依って立つ世界は大きく変貌したということである。

ここからの展開はきわめてフーコー的だ。性の無数のノードがつながった今、もはや生か死かが問題となるわけではない。性という「死を賭してもよい」ほどのものが、死そのものにとってかわる。これが意味することはなにかといえば、生権力であり、生政治である。

フーコーは言う。

「しかし生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち矯正的に働くメカニズムを必要とするはずだ。もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。このような権力は、殺戮者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ。」

性という欲望装置が近代になり内部化され、本能と権力の中にビルトインされてしまった。さてこの思考は、第2巻以降どう展開していくか。

●ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』


長沢哲+齋藤徹@東北沢OTOOTO

2017-10-29 09:48:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

東北沢のOTOOTOにおいて、長沢哲・齋藤徹デュオ(2017/10/28)。雨の中なのにハコが満員になった。

Tetsu Nagasawa 長沢哲 (ds)
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

まずは多数のドラムやシンバルの配置に驚かされたのだが、確かにそこから発せられる音は、楽器ひとつひとつの役割を定め集中しながらも、複数ということによって鮮やかに彩られたものとなった。

マレットの丸さと、近づいては離れるコントラバスとが間合いをはかりあうようなはじまり。長沢さんがハイハットを少し鳴らすと、それがまるで外部からの刺激のようになり音楽が動き始めた。次第に激しくなるふたりの音は、ときに、周波数の綺麗な山を破裂させるブラシと弦でもあった。長沢さんはドラムを和楽器の鼓のようにも鳴らし、コントラバスがその音の集約をまたダイヴァーシファイさせた。

長沢さんが演奏を小休止させ、サウンドが次の章に入った。マレットとシンバルの残響を何層にも重ね合わせた、大気的な音。齋藤さんは哀しみの曲を奏で始め、ドラムスの響きに刻みを入れてゆく。ブラシでの強度あるパルス、齋藤さんの口笛によって吹き込む風。齋藤さんのノイズとカズーのような音を発する笛、それに対して長沢さんはマレットにより執拗なパターンを繰り返す。お互いの音のシフトに次ぐシフト、しかし、そのふたりの音が独立に動くのではなく大きく重なる時間があきらかにあった。最後に、齋藤さんが、両手を何度も握り、振り、コントラバスから肉体への回帰をみせた。

セカンドセットは、齋藤徹さん復活を確信させられるものだった。これがテツさんだと思ってしまう、実に魅力的な倍音とノイズ。全開に向けて覚悟を決めたかのような演奏。その大きな河の流れに向かい、長沢さんは、シンバルとマレットでのドラムの残響を細やかに丁寧に合わせていった。ふたりの強度が上がりもして、そのときには、長沢さんはささらのような束を手にした。

激しい演奏で齋藤さんはちょっと疲れたのだろうか、コントラバスの後ろでしばしインターミッション。そして指に小さなパーカッションを4つ付けて、別の鳴り物も握り、力強く「歌」を奏でた。マレットがそれにシンクロした。やがて齋藤さんはパーカッション指輪を次々に投げ捨てるのだが、それまでの素晴らしい過程を祝うように、長沢さんがシンバルを鳴らしたのが印象的だった。

豊かに発散した音をまた取り戻し、糸をよりあわせるように収斂させてゆく齋藤さん、一方、それにより生まれる静かさを励起させる長沢さん。収斂させるだけでなく、その際にまわりのさまざまなフラグメンツを巻き込んでゆくような齋藤さん、スティールパンの鮮やかな金属音を想起させる音を発する長沢さん。そしてカーテンのように吊るされたベルの綺麗な鳴りと、齋藤さんの足踏みによって、演奏が収束した。

終わってから、齋藤徹さんの誕生日のお祝いがあった。愉しかった。

Nikon P7800

●齋藤徹
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
齋藤徹@バーバー富士(2017年)
齋藤徹+今井和雄@稲毛Candy(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば(2017年)
りら@七針(2017年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
明田川荘之+齋藤徹『LIFE TIME』(2005年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン 


写実(リアル)のゆくえ@姫路市立美術館

2017-10-29 08:59:30 | アート・映画

所用で姫路に泊まったついでに、喫茶店Komuffeeで名物のアーモンドバタートースト、前夜のバーSpooky Angelと、そのマスターに勧められた重絆でのランチ、もちろん姫路城。さらについでに、姫路市立美術館で「写実(リアル)のゆくえ」展。

高橋由一の鮭を観るか、という程度の気持ちだったのだが、これが面白かった。

石川寅治が19世紀と20世紀の端境期に描いた「浜辺に立つ少女たち」はぎょっとさせられた。サイズの合わない着物を着た少女7人ほどが、まぶしいのか微笑みともしかめっ面とも言えない表情で、画家に向かって立っている。それは自我をどこに持っていくか悩む個人も社会も体現しているようだった。

岸田劉生のグロテスクさ、靉光の異物感にもあらためて感じるところが多かった。そして中原實や長谷川燐二郎の奇妙なモダン感覚、木下晋の鉛筆画の不思議さ。


ラヴィ・シャンカール『In Hollywood 1971』

2017-10-25 07:24:16 | 南アジア

ラヴィ・シャンカール『In Hollywood 1971』(Northern Spy Records、1971年)を聴く。

Ravi Shankar (sitar)
Alla Rakha (tabla)
Kamala Chakravarty (tanpura)

2016年の発掘盤2枚組である。てっきりハリウッドの大ホールでのコンサートかと思ったのだが、そうではなく、ハリウッドにある自宅でのプライヴェート・コンサートだった。

ラヴィ・シャンカールのサウンドにはゆったりとたゆたう大河のような印象によって瞑想に誘うものがあるが、この演奏は大観衆のそのようなイメージに応える必要がなかったからか、テクニックをアグレッシブに繰り出しまくるセッションとなっている。

開放弦のタンプーラが意識下にもぐりこみ朦朧とさせられる中で、シタールとタブラがひたすら攻める。速度は右肩上がり、どこまで耐えられるのかというスリルはあるがかれらの演奏はまったく破綻しない。文字通りの超人である。

●ラヴィ・シャンカール
ラヴィ・シャンカールの映像『Raga』(1971年)
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』(1966年)


ファラオ・サンダース+アダム・ルドルフ+ハミッド・ドレイク『Spirits』

2017-10-22 22:45:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

ファラオ・サンダース+アダム・ルドルフ+ハミッド・ドレイク『Spirits』(Meta Records、1998年)を聴く。

Pharoah Sanders (ts, vo, wood fl, hinedewho)
Adam Rudolph (congas, djambe, udu ds, thumb p, talking ds, bendir, bamboo fl, overtone singing, gong, perc)
Hamid Drake (trap ds, frame ds, def, tabla, vo)

というかこの鼻血ブーブーがライヴ録音とはすさまじい。いやライヴでなければこのようにすべてをかなぐり捨ててスピリチュアルに突き進むのは無理か。

アフリカなのかアメリカなのか、どこの民族音楽かわからないような混沌を生み出すアダム・ルドルフとハミッド・ドレイクもケッサクだが、何しろここでは主役はファラオ・サンダースのテナー。そんなに調子に乗って吹いて叫んでぶち切れるぞおっさん。今度来日だが、どこかで単独公演をやってくれないものか。

●ファラオ・サンダース
チャーネット・モフェット『Music from Our Soul』(2014-15年)
ソニー・シャーロック『Ask the Ages』(1991年)
ファラオ・サンダースの映像『Live in San Francisco』(1981-82年)

●ハミッド・ドレイク
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
ジョージ・フリーマン+チコ・フリーマン『All in the Family』(2014-15年)
マット・ウォレリアン+マシュー・シップ+ハミッド・ドレイク(Jungle)『Live at Okuden』(2012年)
ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(2012年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
サインホ・ナムチラックの映像(2008年)
シカゴ・トリオ『Velvet Songs to Baba Fred Anderson』(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』(2008、10年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Live in Berlin』(2007年)
ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(2007年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(2006年)
フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』(2005年)
ヘンリー・グライムス『Live at the Kerava Jazz Festival』(2004年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2002年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
ペーター・ブロッツマン『Hyperion』(1995年)


山内桂+中村としまる『浴湯人』

2017-10-22 17:54:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

山内桂+中村としまる『浴湯人』(Ftarri、2012年)を聴く。

Katsura Yamauchi 山内桂 (as)
Toshimaru Nakamura 中村としまる (no-input mixing board)

山内桂のサックスは、共鳴の真ん中のところを取り去って、襞やマチエールのみを増幅したようだ。

・・・と思っていたのだが、それはこのライヴ演奏の少しの間だけ。中村としまるが無情なマシンのように四方八方にエレクトロニクスの太い剛腕を突き出しまくる、それに対して、山内桂はぶん投げられたり脱臼したりすることはまるでなく、むしろ、そのまま大巨人のようにその腕に脚をかけて力強く跳躍しおおせている。凄いエンジンだな。

今回来日しているロジャー・ターナーは大分で山内さんとも共演するはずである。興味津々。

●山内桂
山内桂+マーティン・ヴォウンスン『Spanien』(2010年)

●中村としまる
竹下勇馬+中村としまる『Occurrence, Differentiation』(2017年)
クレイグ・ペデルセン+中村としまる@Ftarri(2017年)
広瀬淳二+中村としまる+ダレン・ムーア@Ftarri(2017年)
Spontaneous Ensemble vol.7@東北沢OTOOTO(2017年)
中村としまる+沼田順『The First Album』(2017年)
内田静男+橋本孝之、中村としまる+沼田順@神保町試聴室(2017年)


The Necks『Chemist』、『The Townsville』

2017-10-22 16:23:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

雨で体調も悪いので部屋でまったりとThe Necks。

『Chemist』(ReR、2006年)には20分ほどの曲が3曲。ロック的でも室内楽的でもあり、エレクトロニカでもあり、マイルスみたいでもあり、なかなか興奮させられる。

しかし興奮度という点からは、翌年の『Townsville』(ReR、2007年)のほうが好きである。50分余1本勝負のライヴにおいて、トニー・バックのシンバルがシャープに濃淡を付けながら、ピアノトリオがスパイラルしながらも複素関数のように次の面へ次の面へとシフトしてゆき、高みへとのぼりつめる。

うう、また観たい。

Chris Abrahams (p, key)
Tony Buck (ds, g)
Lloyd Swanton (b)

●The Necks
The Necks@渋谷WWW X(2016年)


Shuta Hiraki『Unicursal』

2017-10-22 12:23:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

Shuta Hiraki『Unicursal』(きょうRecords、2017年)を聴く。

よろすずさんである。先日ご一緒した神楽坂のプチパリや大洋レコードでもよろすずさんであったので、このたびはじめて本名を知った(笑)。

1曲目はいきなり狭い湿ったハコで反響するようなピアノの音、ちょっと意表をつかれた。あとを聴いてあらためて、これは脳に起きなさいとタップするものであったのか。

さて、目を覚まさせられて2曲目以降は、さまざまな反響音や生活音や人工音が重ね合わされる。決して人をいたずらに驚かすような壮大なものではない。そのことが、身の周りを見渡したときにふと見え隠れする地霊のような感覚を生み出している。ひとつひとつの音の流れに、小さな周波数と、大きなうねりとがあって、それが複数並行して時間を形成している。そのどれかに耳を貼り付けると、それは無意識のうちに別の音の流れに取って代わられる。

ボーナスCDの様子は異なり、もう少しサウンドを形成しようとする策動があって、聴いているうちに多幸感が出てくる。このトラックが本CDの中に紛れ込んでいても面白かったのかもしれないが、いまのように淡々と並行世界が提示されているからなお良かったのかもしれない。


ロジャー・ターナー+広瀬淳二+内橋和久@公園通りクラシックス

2017-10-22 10:04:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

疲れているし休んでいようかと思ったが新宿駅前で雨に濡れた挙句、スルーできず、渋谷の公園通りクラシックスに足を運んだ(2017/10/21)。

Roger Turner (ds)
Junji Hirose 広瀬淳二 (ts)
Kazuhisa Uchihashi 内橋和久 (g, dax)

最初はロジャー・ターナー、内橋和久ともに単体の火花を試行的に点火し、広瀬淳二も抑制的なテナーを吹き始めた。しかし驚いたことに、ロジャーさんはすぐに「フリージャズ」と呼んでもよさそうな感覚のパワー&スピードにギアを変えた。前日のエアジンにおいて細い糸の上を歩いていくようなセンシティヴなプレイを展開したこととはまったく違っていた。

広瀬・内橋両氏のシンクロする揺れ動きも含め、しばらくはハードなプレイをしていたのだが、いきなり見事な転換。広瀬さんがサックス横の発泡スチロールを擦り、内橋さんはダクソフォン、ロジャーさんも擦る。さてどれが誰の声なのか、彼岸に連れてゆかれるようである。内橋さんからエマージェンシー的な音が発せられ、ロジャーさんが応えたりもする。

時間の操作はまるで異なっており、内橋さんの大きな揺らぎに対し広瀬ロジャー両氏の速度が共存し、そのありえなさにしばし呆然とする。また内橋さんのギターはときにブルースやロックでもあり、確信犯的なおそろしいミクスチャーを平然とみせつける。ロジャーさんが開陳する、シンバルの音のなかのまた別の音も素晴らしい。

しばし駆け抜けたあとに奇妙な静寂が創出され、ロジャーさんは<先端>(シーンの、ではなく、音そのもの)のサウンドを構築し、広瀬さんが金属でサックスの金属を擦り呼応する。サインホの声を思わせるダクソフォン、それをテナーが擬態する。逆にテナーによる狂った馬のいななきがドラムスとダクソフォンに飛び移ってゆく。最後に、ロジャーさんが鐘の音で実に鮮やかに演奏を完結させた。

セカンドセットはダクソフォンの甲高いうめきにより創られた感染病が、テナーのうめき、フォークによるシンバルの擦りへと移ってゆく。ダクソフォンとテナーとによる、くぐもって話すような音色は見事である。内橋さんはまた、ダクソフォンをベース的にも使う。ギターの大きな揺らぎ、テナーによる息の増幅、宇宙語の会話か。

ようやくサウンドがまとまった形になってきたかと思いきや、また、別々の文脈が同居するフラグメンテーションの面白さが目立ってきた。内橋さんはギターを叩き増幅させ、ロジャーさんはスピードにのって音域をどんどん拡張してゆく。

幾度もの音風景の過激な転換。分厚いギター、超速のシンバル。ロジャーさんが金属板を弓で擦る音は、広瀬さんの連続音、内橋さんの同一のコード連続へと感染する。この感染や移行の、追従との大きな違い。

そして力強いギター、発泡スチロールの擦音、騒乱、シンバルやマレットを使った残響、不穏なダクソフォンなどが提示され、またしても見事に演奏が着地した。

●ロジャー・ターナー
ロジャー・ターナー+今井和雄@Bar Isshee(2017年)
蓮見令麻@新宿ピットイン(2016年)
ドネダ+ラッセル+ターナー『The Cigar That Talks』(2009年)
フィル・ミントン+ロジャー・ターナー『drainage』(1998、2002年)

●内橋和久
U9(高橋悠治+内橋和久)@新宿ピットイン(2017年)

●広瀬淳二
クリス・ピッツィオコス+吉田達也+広瀬淳二+JOJO広重+スガダイロー@秋葉原GOODMAN(2017年)
広瀬淳二+今井和雄@なってるハウス(2017年)
広瀬淳二+中村としまる+ダレン・ムーア@Ftarri(2017年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
広瀬淳二『SSI-5』(2014年)
広瀬淳二+大沼志朗@七針(2012年)
広瀬淳二『the elements』(2009-10年)


マーク・ルワンドウスキ『Waller』

2017-10-21 14:14:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

マーク・ルワンドウスキ『Waller』(Whirlwind Recordings、2016年)を聴く。

Mark Lewandowski (b)
Liam Noble (p)
Paul Clarvis (ds)

マーク・ルワンドウスキはロンドン出身のベーシストであり、かのヘンリー・グライムスに師事している。先日ニューヨークで、ベン・モンダー・トリオ(Cornelias Street Cafe)、クレイグ・テイボーン(The Stone)、マタナ・ロバーツ(Roulette)と、1週間で3度も遭遇した。いつもグライムス、ご夫人のマーガレット・デイヴィスさんと一緒で、ニューヨークのハコにおける名物なのかもしれなかった。その際にこのCDをいただいた。

若くこのご時世に、なんとファッツ・ウォーラー集である。ルワンドウスキのベースは重くて粘っこく、これはグライムス仕込みに違いない。ピアノトリオで浮き立つような演奏を繰り広げており、終始ゴキゲンでリラックス。ウォーラーの当時の録音もサンプリングしてあり愉しい。「Jitterbug Waltz」や「Ain't Mishaven'」、「Honeysuckle Rose」がモダンなアレンジで演奏されているだけで嬉しいというものだ。

●ファッツ・ウォーラー
マニー・ピットソン『ミニー・ザ・ムーチャー』、ウィリアム・マイルズ『I Remember Harlem』


ベニー・グリーン『Tribute to Art Blakey』

2017-10-21 13:18:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

ベニー・グリーン『Tribute to Art Blakey』(JazzTime、2015年)を聴く。スイスのライヴ演奏2枚組。

Eddie Henderson (tp)
Donald Harrison (as)
Javon Jackson (ts)
Benny Green (p)
Peter Washington (b)
Carl Allen (ds)

ベニー・グリーンって90年代にSomethin' Elseレーベルからスタンダード集なんかを出していた人という印象しかなかったのだが、これは悪くない。ドナルド・ハリソン、ジャヴォン・ジャクソン、カール・アレンと、メンバーもちょっと前にメインストリームとしてもてはやされた人たち。しかしやはり悪くない。

ドナルド・ハリソンの魅力は、詰まったようで艶やかなアルトの音色にあって昔から好きなのだ。ここでもその音は健在。エディ・ヘンダーソンの知的なトランペットも相変わらず気持ちがいい。いまだにベニー・グリーンのピアノそのものの特徴がわからないのだが、どジャズ命の演奏をしているのだからいいのだ。

本盤はアート・ブレイキーへのトリビュート。あらためて聴くと「Along Came Betty」なんてすごく可能性が開かれた曲である。これを懐メロと言ってはダメである。


仲野麻紀『旅する音楽』、Ky『心地よい絶望』

2017-10-19 07:18:13 | アヴァンギャルド・ジャズ

仲野麻紀『旅する音楽』(せりか書房、2016年)を読んでみたところなかなか面白かった。日本、ブルキナファソ、レバノン、フランス、モロッコ、エジプト、まあさまざまな場所に旅をして音楽を創り出している人である。

それはどうやら、ジャズと「ワールドミュージック」とのコミュニケーションというようなものではない。「ワールドミュージック」という呼び方自体がコアと外部とを暗に示唆しているのであり、著者の仲野さんが実践し語る音楽はその権力構造の解体を企図しているようにみえる。楽譜としての記録とはなにか、練習とはなにか、場所とは音楽にとってなにか、理想的に音が響くハコでの音楽はほんとうに理想的なのか、他者と文化を共有することは可能なのか、そのような問いが投げかけられている。

仲野麻紀とフランス人ウード奏者ヤン・ピタールとのユニット「Ky」による『心地よい絶望』(Ottava Records、2016年)もまた妙に逸脱的で面白い。前半がエリック・サティの曲、後半がオリジナルやアラブなどの伝統音楽なのだが、雰囲気はつながっている。『旅する音楽』によれば、ウードの音は実際にナマで体感すべきものであるという。

「ウードという楽器が鳴る時、その共鳴胴となる半卵形のボディーは、同じ空間にいる者にしか響かない。録音技術が発達し、あらゆる機材を駆使して音環境を整えたとしても、そのわずかな震えはわたしたちのからだの中ではたして共振するだろうか。」

ところで、越境する人にとってのサティとはどのようなものだろう。

●エリック・サティ
安田芙充央『Erik Satie / Musique D'Entracte』(2016年)
ウィーン・アート・オーケストラ『エリック・サティのミニマリズム』(1983、84年)


クレイグ・ペデルセン+エリザベス・ミラー+徳永将豪+増渕顕史+中村ゆい@Ftarri

2017-10-17 22:04:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarri(2017/10/15)において注目のギグ。

 

Craig Pedersen (tp)
Elizabeth Millar (cl)
Masahide Tokunaga 徳永将豪 (as)
Takashi Masubuchi 増渕顕史 (g)
Yui Nakamura 中村ゆい (voice)

旅するカナダの即興演奏家のふたりも、3か月の日本滞在の終盤を迎えた。新宿ピットインでたまたま隣の客席に居合わせてから、どんどん東京のハコに馴染んでいるようにみえる。そしてこの日は、北京の即興演奏家のふたりが観に来ており、無数の神経細胞のいくつかがつながるひとコマに立ち会ったような気がした。

ファーストセット、徳永+ペデルセン+増渕。はじめは抑制という制度が暗黙のうちに制定される。3人ともに慎重に音を出し、広がりの種を探すようだ。ペデルセンはマイクに直接トランペットをかぶせ、最初から打開点の数々を提示する。静かなうちに息遣いが増幅され、やがて、徳永・ペデルセンともにその音の周波数は複数となり、多声として共存してゆく。

セカンドセット、ミラー+中村。ミラーは分解したクラリネットの一部を使い、まるで砂嵐のような音を発する。中村ゆいのヴォイスはホワイトノイズのようにも聴こえる。ミラーさんはクラの連結部をきゅっきゅっと鳴らし、次に喉と口蓋内のふたつをグロウルすることにより、クラを介したうなりへとシフトする。中村さんも呼応してうなりへと移行、しかし、体躯を折り曲げて出ない音を出す。そしてミラーさんはクラのキーを叩き、その木質の音を増幅させた。

サードセット、全員。足し算のようにシンクロするサウンドから、やがて、ひとりひとりの糸が縒り合されて分割し、並行する流れが創出されてゆく。それは分割ではあっても相互に響きあうものだった。ペデルセンさんは高周波を出すためにマウスピースを交換し、ピストンを分解してはまた戻し、音叉をトランペットでさらに共鳴させた。金属を細く削り尖らせたような増渕さんのギターのみが、連続的でない音を発し、その線香花火が、物語とただ流れる時間との間を往還しているように感じられた。そして徳永さんのアルトはひとりであるとともに共振的でもあり、他の多様性を前にしていかに抑制しいかに発散を自身に許すか、そのせめぎあいのようにもみえた。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4

●徳永将豪
Shield Reflection@Ftarri(2017年)
窓 vol.2@祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ(2017年)
徳永将豪『Bwoouunn: Fleeting Excitement』(2016、17年)
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri
(2017年)

●クレイグ・ペデルセン、エリザベス・ミラー
クレイグ・ペデルセン+中村としまる@Ftarri(2017年)
毒食@阿佐ヶ谷Yellow Vision(2017年)
クレイグ・ペデルセン、エリザベス・ミラーの3枚(2016-17年) 

●増渕顕史
杉本拓+増渕顕史@東北沢OTOOTO(2017年)
Spontaneous Ensemble vol.7@東北沢OTOOTO(2017年)

●中村ゆい
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri(2017年)


竹下勇馬+中村としまる『Occurrence, Differentiation』

2017-10-14 09:04:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

竹下勇馬+中村としまる『Occurrence, Differentiation』(きょうRecords、2017年)を聴く。

Yuma Takeshita 竹下勇馬 (electro-bass)
Toshimaru Nakamura 中村としまる (no-input mixing board)

何度も繰り返しているが、最初から意外なほどに耳に馴染み、ポップ感がある。

明後日の方向に走ろうとする音の数々をその都度取り戻し、あるいはその都度放置して飛んでゆくに任せている。ひとつひとつの音もサウンドの総体も自律的なものであるはずかもしれないし、身近な気分に落とし込むような聴き方は望まれないのかもしれないのだが、それらが放置プレイであれ制御的なものであれ、遊ぶ無数のこびとを幻視する。

●竹下勇馬
二コラ・ハイン+ヨシュア・ヴァイツェル+アルフレート・23・ハルト+竹下勇馬@Bar Isshee(2017年)
『《《》》 / Relay』(2015年)
『《《》》』(metsu)(2014年)

●中村としまる
クレイグ・ペデルセン+中村としまる@Ftarri(2017年)
広瀬淳二+中村としまる+ダレン・ムーア@Ftarri(2017年)
Spontaneous Ensemble vol.7@東北沢OTOOTO(2017年)
中村としまる+沼田順『The First Album』(2017年)
内田静男+橋本孝之、中村としまる+沼田順@神保町試聴室(2017年)


ジェイミー・ブランチ『Fly or Die』

2017-10-13 07:36:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェイミー・ブランチ『Fly or Die』(International Anthem Recording Company、-2017年)を聴く。

Jaimie Branch (tp)
Tomeka Reid (cello)
Jason Ajemian (b)
Chad Taylor (ds)
Special guests:
Matt Schneider (g)
Ben Lamar Gay (cor)
Josh Berman (cor)

先日マタナ・ロバーツのステージにおいてはじめてジェイミー・ブランチのプレイに接した。隣のピーター・エヴァンスのトランペットにまったく引けを取らず、かれよりも張りがあってファンファーレのようにも感じてしまう、新鮮な音色だった。

本盤でもその勢いや鮮やかさが炸裂している。チェロとベース、さらに活力のあるチャド・テイラーのドラムスに乗って、タイトルのように空を飛翔する。真ん中の「leaves of glass」ではコルネットが入るのだが、逆に急に無風地帯になったかのような感覚がある。そして最後の「... back at the ranch」では、おそらくジェイミー自身の「Meanwhile, back at the ranch」との囁きからギターソロで締めくくられ、余韻を残す(Branchとranchをかけたのだろうか)。

ジョアン・ランダースのレビューでは、このサウンドを色彩や絵画に見立てている。それも納得できる鮮やかさである。

この先、ジェイミーががんがん出てくる予感。

●ジョアン・ランダース
マタナ・ロバーツ「breathe...」@Roulette(2017年)
「JazzTokyo」のNY特集(2017/9/1)