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「アベノミクスのモデルになった男、高橋是清 ①」

2013-09-18 07:23:24 | 日本

昨今の金融緩和政策で日本経済に明るい兆しが見え始めるにつれ、高橋是清の経済政策を再評価する向きが強まっている。作家・幸田真音氏は、彼を「人望と人脈をもち、現場感覚に優れていた人」と評する。その優れた人間性はいかにして形づくられ、どのように経済政策につながっていったのか。そしてなぜ、2・26事件で凶弾に倒れなければならなかったのかについて、語った文章があった。
以下、要約し2回にわたり高橋是清の人間像を学ぶ。




◎すごい数の失敗

是清という人物はものすごい数の失敗をして、そのたびに学びを得て乗り越えていった。13歳で渡米した際も、よくわからないまま契約書にサインをしたため、奴隷として売られてしまうのはその筆頭である。それでも、そこで契約書やサインがどれほど重要かを身にしみて理解し、その経験は成長して実業の世界に身を投じるときに生かされる。そもそも生後数日で養子に出され、義祖母のもとで足軽の子として育てられたことで「したたかさがないと生きていけない」と本能的に感じ取り、それが自助自立、不屈の精神につながったのである。


◎転職を重ねた人

是清ほど転職を重ねた人はそうそういない。生涯で優に30を超える職業を経験しており、東京英語学校や文部省の通訳など世間から立派と思われる職業に就いても、信念が曲げられたと感じたら、いくら慰留されても簡単に辞職願を出してしまう人物だった。

たとえば、日本の近代化のため知的所有権の確立が不可欠だと法制定に尽力し、1887年、33歳で特許局の初代局長となる。その業績だけでも晩年まで悠々たる人生が送れたはずだが、その直後、是清は世話になった官僚仲間に請われ、役人を辞職してペルーの銀山経営に向かった。ところが事前調査をした技師がいい加減で、結果的に事業は大失敗。帰国後は坑夫たちのため私財を全部処分して無一文になった。それでも「銀山採掘は日本のためだった」と自分に言い聞かせて、困窮の時期を甘んじて受け入れる。

一方、ペルーから帰国するときは、大打撃を被ったにもかかわらず、懲りずに船中で次の事業の企画書を書いている。「最後にはなんとかなる」という、いい意味での楽観主義、打たれ強さをもっている。


◎現場を真に理解していた人

現場を真に理解していた人という点も凄い。
たとえば、彼は10代のころ、書生として森有礼(初代文部大臣)のもとに身を寄せたが、その後、今度は自分が若者を養う番だと考え、費用を工面するため投資に目覚め、ついには株屋まで立ち上げる。結果、大損を出してしまうのだが、そこから市場のメカニズムや市場参加者の心理を肌で学ぶ。机上の理論を越えたマーケットの動きを実体験から理解していく。
市場には資金を調達したい人と資金を運用したい人がいる。前者はいかに低い金利で資金を確保するか、後者はいかに有利な利回りで投資するかを考える。そして両者のバランスが取れたとき、債券が発行できる。この構造は現代もまったく不変だが、当時、欧州の起債現場の実態を理解していた数少ない日本人が是清だったのである。

1904年、49歳の是清は、日露戦争の戦費調達のために、ロンドンのマーケットでポンド建て日本国債の募集に挑戦する。もし失敗すれば日本の外貨は底を突き、財政も破綻、戦争の敗北も必至という、まさに危機的な状況であった。しかし是清はそのような内実をおくびにも出さず、現地の新聞記者の前で平然と「わが国の財政は盤石」と言い切っている。服装や滞在先のホテルは一流のものを使うなど、「相手にどう見られるか」にも配慮した。当時、まだ極東の新興国だった日本の国債を買うということは、日露戦争において日本の勝利に賭けるのと同義だから、少しでも隙を見せれば、誰も日本国債など買わないとわかっていたからである。

また、市場には長期保有を基本とする投資家と短期的な売買を行なうスペキュレーター(投機家)がいるが、金融の常道として投資家に国債を買わせるのが望ましく、周囲もそうアドバイスするのだが、是清は「最初はスペキュレーターを狙う」と主張。利に敏いスペキュレーターに「日本国債は儲かる」と思わせれば、評判が口コミで広がり、日本国債の人気が高まると考えたからである。彼の目論見は大当たりし、第一回の国債募集開始直前には、ロンドンで3%ものプレミアムが、ニューヨークではさらに高く3と8分の3%がついた。これも市場心理を知り尽くしていた是清だからこそできたことである。


◎掟破りの経済学

高橋是清が大蔵大臣として1932年に行なった日銀による国債の直接引き受けは、まさに当時の経済学でも掟破りであった。

ここでもやはり、外貨調達の経験が生かされている。一時的にロンドンでの募集に成功したものの、日本の正貨準備率はわずか21%。2回目の募集で得られる金額を加えても28%に満たず、日本の金本位制自体が際どい自転車操業だった。一方で昭和初期の日本は財政支出がどんどん拡大していたため、赤字国債を継続的に発行していく必要がある。しかし市場で売却した国債が値下がりしてしまえば、投資家は二度と買ってくれない。国債市場が未成熟だった当時、両方の問題を解決する苦肉の策として、是清は国債を、市場を通さず日銀に直接引き受けさせる案を思いつく。

ただ、これは政府のモラルハザードと悪性インフレを起こす可能性があるため(現在は財政法で禁止)是清は、いずれは日銀から民間の銀行などに転売することを想定していた。事実、日銀が引き受けた国債のうち、93%は転売された。そして、民間の買い余力が7割台まで落ちたら国債発行自体を縮小していく、という「出口戦略」もきちんと描いていた。この方針のもと、当時の政府は軍事予算の削減に舵を切った。

しかし、一度広げてしまった風呂敷を畳むのはとても難しい。当然、軍部からは猛烈な反発を受ける。国会で陸軍大臣など軍関係者と丁々発止の激論を繰り広げるのであるが、最後は2・26事件で青年将校の凶弾に倒れてしまう。つまり、是清の人生そのものが「出口戦略」の難しさを体現しているわけである。金融政策や財政政策は、過激なものであればあるほど、強烈な副作用も伴うものである。