いい演奏会だった。
いい演奏もさることながら、本当にいい演奏会であった。メインのショスタコービチの交響曲第10番が終わったあと何度かのカーテンコールを経て再び舞台に戻ってきた指揮者のフェドセーエフ氏は客席の方を振り向いて「ショスタコービチ ワルツ」と言って演奏を始めた。この曲にはピアノとサックスが用いられている他にミュートをつけたコルネットが滑稽な合いの手を入れる楽しい曲だった。
一回目のアンコールの後、たった一回のカーテンコールを経て二曲目のアンコールをやるそぶりをしたのち、フェドセーエフ氏は再び客席を振返って「ショスタコービチ バルド」と言って演奏を始めた。フェドセーエフ氏がまたも「ショスタコービチ」と言ったことに対して客席から軽い笑い声が聞こえ、会場の雰囲気は一気に和やかムードに。
この「バルド」という曲は少し賑やかな曲だったけど一瞬で終わり、これがまた会場の笑いをとった。そして鳴り止まぬ拍手の内に終演を迎えたのであるが、ほとんどの演奏者が舞台から去り、楽器を片付けている何人かの木管楽器奏者のいる舞台に向かって、我々の拍手は依然衰えずに鳴り続けていたのである。
そして、その時突然フェドセーエフ氏が舞台に舞い戻り、それを受けて残っている観客は全員総立ちになり、いつまでも最後の余韻を楽しむ拍手が残っていたのである。こんな感動的な演奏会は始めてである。重いテーマのショス10から、フェドセーエフ氏の演出と選曲でお口直しならぬ、お耳直しができたわけで、メインがショスタコービチだったにも関わらず会場を去る人々の表情には笑みがこぼれていたのが印象的であった。
さて、今回の演奏会は「オール・ロシア・プログラム!」という謳い文句でチラシが刷られていて、オープニングとサブメインが共にチャイコフスキーの作品で大序曲「1812年」と弦楽セレナーデであった。
「1812年」の冒頭のコラール部分はものすごく分厚い弦楽のtuttiになっていてしびれたのだが、フィナーレ部分はちょっと冗長的に引き伸ばされ、今まで聴いたことの無いお囃子のような「チンチキチン」というパーカッションが入り曲を終えたのだけど、正直言って「こんなのアリ?」って思った。でもパーカッションの鐘の音を出すタイミングの手捌きにグッときたので、まあいいとしよう。
続く「弦楽セレナーデ」は有名な曲である。特に冒頭部分はテレビCMなどにも良く使われていて、特に印象的に使われていたのが「オー人事、オー人事」というCM。あとはTBSドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の中でも効果的に用いられていた。それなのに、個人的にはちょっと苦手な曲で、今までじっと我慢しても最後まで聴き続ける事ができた試しがないのである。案の定、第1楽章の中盤辺りから睡魔に襲われ、ウトウトしながらも「これが済んだらショスタコだから・・・」と自分に言い聞かせて、その場を凌いだのであった。
20分間の休憩を挟んで、待ちに待ったショスタコービチの交響曲第10番である。いやあ、良かったっすよ、本当に!細かい感想は敢えて避けよう。この感動は書いても書いてもきっと表現したり無くなると思うので・・・。
~本日の演目~
・チャイコフスキー:大序曲「1812年」
・チャイコフスキー:弦楽セレナード
・ショスタコービチ:交響曲第10番
(アンコール)
・ショスタコービチ:付随音楽「条件付きの死者」よりワルツ
・ショスタコービチ:映画音楽「司祭と下男バルドの物語」より
バルドの行進
会場を出たのち楽屋出入り口には楽団員の送迎用の観光バスが3台止まっていて、早めに着替えを済ませた何人かの楽団員たちがボール遊びをしていた。日本のオーケストラの感覚から言わせると「なんとラフな」という感じで、それが逆に新鮮で駅に向かおうとする観客たちの目を奪っていたので記事の画像として掲載してみた。
ちなみに、次回のショスタコービチ演奏会のレポートは下記の予定。
2006年11月24日(金)
東京サントリーホール 大ホール
ショスタコービチ:交響曲第13番「バビ・ヤール」
指揮:テミルカーノフ
演奏:サンクトペテルブルグ フィルハーモニー交響楽団
ぴあでネット予約したら、なんと1階11列という良席をゲットできた♪何としてでも休暇を取って上京せねば!
昨日、2人の友人が共同で経営する藤原・室建築設計事務所のオープンハウスに行ってきた。
白を基調とした現代建築家風のシンプルなデザインでなかなかよかった。
限られたスペースの中で如何に住居部分としての床を確保し、いかに構造部分としての床や壁を薄くするかというところに血と汗と涙の結晶を見たような気がした・・・って大袈裟かな??
両隣3方とも隣家が立ち並んでいるのに採光や通風がしっかりと確保されていて、まだまだしばらくは1人身の私ではあるが、マイホームっていいなと不覚にも思ってしまった。
大阪市環境事業局の舞洲工場の内部見学を果たしてきた。これは全て隊長のかさはら氏の御尽力に拠るものである。
手前のエントランス塔から空中廊下を渡って本館へ案内された我々は、研修室で15分程度の施設紹介のレクチャーを受けてから市職員に誘導されながら各所を巡るのである。
設計者の故フンデルト・ヴァッサー氏の設計思想は他の様々なサイトで紹介されているのでここでは書かないが、あえて書かなくても視覚的に何を言わんとしているのかが誰の目にも一目瞭然であることが、彼の作風なのであろう。
この施設の回収エリアは福島区と此花区のたった2区だけなのであるが、これがまた尋常ではないゴミの量で24時間フル稼働しているらしいのである。アームは職員が遠隔操作でモニターを見ながらオペレーションしている。
なんだか愛僑のあるアーム。何気にタチコマみたいだなあと思った。誰も見ていないところで独りでチョコマカと動いていそうな感じがする。
小学校4~5年生の社会見学を想定したカリキュラムで全体の構成がなされていてマスコットキャラクターの某ちゃん(←名前忘れたm(_ _)m)が工程毎に登場して説明をしてくれる。
見学通路と作業スペースとは巨大なガラスで仕切られていて臭気は入ってこない。設計段階から見学動線が計画されているみたいで、よく出来ている。さらにマスコットキャラの某ちゃんも立体的で表情まで有り、かなりカワイイと個人的には思う。
小学生が興味を持てるように工程毎にドラクエチックなネーミングの説明版が立てられていてそれぞれに、「灰の砂漠」だとか「ガレキの谷」だとかいう印象的な名称が付されている。
この施設の設計料は6000万円。施工は竹中組・大成建設・銭高組などによる共同事業体で総工費は600億円。設備は日立によるものであるらしい。さすがに近代的な施設で事故防止のために様々な工夫が施されているらしい。
お金の話だけをすると、ちょっと金掛け過ぎにも思えなくはないが、環境に配慮しつつ、職員の事故を最小限に抑え、更には見られることにより施設内を常に清潔に使うことができるのであれば、長い目で見たときにそれは決して無駄金ではないのかなあ・・・と思わせるような施設になっていけばいいなと私は思うのである。
最後に、今回の企画をして頂いた隊長のかさはら氏、今回もいろいろとお世話になりありがとうございました。
「喫茶店かなんかだと思ってた」
案の定、開店当初はいつ行っても私1人の他にあと一名程度の客しかおらず、私が牛丼ランチ(牛丼+味噌汁:550円)を食べる間、手持ち無沙汰なご主人は、1人カウンター越しに立ち尽くしているのであった。ご主人は真面目で誠実そうな人柄がその風体から滲み出ており、その風貌からはとても想像も出来ないほどに、いつの日も牛丼は限りなく甘く、そして味噌汁は限りなく辛いのである。
そしてそれら両者が口の中へ交互に含まれ行くその先ににこそ、マイナスとプラスはゼロに還元されていき、味覚としての起点はいつしか満腹という終点に導かれていくのである。そんな状況の店であるにも関わらず、ほぼ七日ごとにそちらを向いて歩くという行為を習慣とすることに、私の足はいつしか快感を覚えるようになってしまっていたのであった。
映画「アンジェラ」を見たのは、この前の日曜日。世界的大ヒット映画の「ダ・ヴィンチ・コード」にしなかったのは「アンジェラ」の興行期間が短いと思っているからなのだ。なにしろ、本国フランスでは総スカンを喰らったらしいのだから、早期興行終了の可能性は大きいのである。
そんなこともあってか、イメージソングや応援ソングとしてエンヤや山崎まさよしとのタイアップをするも、もちろん劇中で用いられることは一切無く、本当に集客出来ているのかと心配して訪れたのであるが、意外にも梅田ピカデリーの大きなシアターのおよそ3割程度の座席が埋まっていたのがせめてもの救いであった。
で、前置きはこのくらいにしておいて、作品の内容はというと「悪くはないけど、大して良くもない」といったところで「可もアリ、不可もアリ」という表現が適切なのではないかと思っている。
「可もアリ」という部分に於いては、私が美しいと思うパリの情景がロケ地として多く起用されていて、それはもちろんGW中に私が赴いたパリの一部分であり、そのほとんどの映像が私の良き想い出とマッチングしたこと、そして、まるでファンタジー映画を観ているかのような「切なく、強く、激しく、そして儚い愛のカタチ」が描かれていることかなと思う。
逆に「不可もアリ」というのは、ストーリーがシンプル過ぎて物語の途中から若干の気だるさを覚えたり、従来のリュック・ベッソンの作品から考えるとあまりにも拙いカメラワークに「え?」っと驚かされてしまうところなのかなあと感じた。
更に、今何故モノクロ映画なのかということを考えると、それは取りも直さずヒロインのアンジェラの肌の白さ(神秘さ)を表現するための手段であり、同時にアンドレの黒さ(醜さ)を演出するための技法でしかないのだが、そのメッセージだけは強烈に伝わってくるので、まあまあそれは正しい選択肢だったのかなあと思ったりもする。
今月28日に催されるフェドセーエフ氏の指揮によるショスタコービチの交響曲第10番を聴くにあたり、久々に同曲のCD(マリス・ヤンソンス指揮)を購入し、聴き処のオサライをすべく自宅のオーディオで再生してみた。
この曲はウラジーミル・レーニンの死後に書かれ、一般的にはレーニンへの批判が込められていると言う曰く付きの曲で、さらにはショスタコービチ自身のイニシャルを表した「D Es C H」というモチーフが挿入されている、とても意味深な曲なのである。
しかし、私はモノノ5分と経たないうちにオーディオを消してしまったのである。なぜならば、もう何年も聴いていない曲なのに最初の音から、すでに私のカラダは全身鳥肌が立ち、それはもうフレーズ毎に心がトキメキっぱなしなのだから、もうこれは「やヴぁ~い音楽」と言わざるを得ないのであった。
なので、全身鳥肌体験は来週の日曜日までお預けとした次第なのである。
ちなみに11月に東京・サントリーホールで交響曲第13番「バビ・ヤール」の公演があるので、こちらもチケット購入しようかどうか思案中。滅多に演奏されない曲だけに聴かなければ悔いが残るかもしれないし・・・こうなってくるとショスタコービッチ生誕100年記念サマサマですなぁ。