確か22日の水曜日の夜の出来事であったと記憶している。仕事を終え自宅すぐ近くのJR駅でいつものように降りる。先日の日焼けのせいで全身が燃えるように痛い以外はいつもと同じである。と、そのとき、遠くの空がわずかに明滅したような気がした。しばらくの間、空を気にしながら歩いていたが川の土手に辿り着くと「奴」がすぐ近くまで来ていることがわかった。しかも確実にこちらに向かっているようである。
歩みを進めるたびに痛む両腿をかばいながら家路を急ぐ私。自宅前のアパートの前には真北の山々に向かって伸びる一本の道があった。ちょうど、そこの前に差し掛かった時に割れたのである、空が・・・
紫を帯びた眩い光の玉が北の頭上で強烈な勢いで弾け、その刹那、その光線は矢の如く地上に向かって空を裂いたのである。このとき、私の予感は確信に変わった。
『今日は本当に来るかもしれない・・・』
急いで階段を駆け上がり、引き出しからカメラを取り出し、部屋の明かりを暗くしたまま、アルミサッシの枠に張り付いた。このとき既に、私は「皮膚の痛み」についての感覚を完全に失っていた。
東の空から低い唸り声を湛えているかのような重苦しい色の雲がやってくる。あまりに低空のせいか、こちらに進み寄るに従って雲の底面が街の街灯に照らされ白身を帯びてくるのがわかる。雲の後ろでは青白い光の柱がビリビリビリっと幾度も幾度も立ち上がっているのがわかった。そして、ちょうど頭の上を雲が通過するかしないかの瀬戸際になって、唐突に大粒の雨が一斉に街を襲った。雨は横に向かって光の帯を描きながら流れていく。私は、瞬く間に雷鳴と雷光と豪雨の渦中に曝されることになった。
全天空の至るところで常に空が光り、明滅が途切れることはなかった。それはアルプスシンフォニーで奏されるサンダーマシーンの音色よりも劇的でダイナミックで、更に相当の恐怖を含んでいた。
「どこの雷光がいつの雷鳴に呼応しているのか」ということは、とうの昔にわからなくなっていた。目の前に広がる奇異な光景は、まるで壊れた舞台装置の上でB級の外国テレビ映画でも見ているのではないかという、とてもバカげた妄想まで引き起こさせた。
三脚不在のまま窓際の壁にカラダを固定し、サッシの枠にカメラを沿わせ両手で固めたまま息を止めてはシャッタースピード3~5秒でボタンを押し続けてみる。一寸先は闇、又は雷光・・・全ては時の運なのか?
一つ上の写真は、全体がブレており、しかも右側に変なゴーストが映りこんでしまっている。実は、この写真、一度だけ眼前でとても大きな大きな光が弾け、その光圧と尋常ならぬ衝撃音に恐れおののき、ほとんど本能で後ろに跳び下がり、そのまま倒れこんでしまったときの写真なのである。映画などで爆風で吹っ飛ぶような感じ。物理的には何の負荷もかかっていないので、倒れる必要はなかったのだけど、自己防衛本能が働いたのか?謎??
壁から伝わってくる振動で、建物は常にビリビリと震えているのがわかった。そして、私の手も、いや腕や足も震えていた。近くのアパートから子供たちの悲鳴が上がり、向かいのマンションの蛍光灯は一瞬の間、光を失った。やがて、雨が落ち着いた頃、街中にはパトカーのサイレンが鳴り響き、車のクラクションが頻繁に鳴り出した。本来あるべき喧騒そのものが、何故かしらどこか遠い別の星のものであるような気がしてならなかった。空の向こうでは、まだ静かに空が光っていた。
都市における嵐の光景とは、常にカタストロフを想起させるものとして映像作品の中においては頻繁に使用されてきた光景ではあるが、何故か私はそこに、『地球創世の頃の風景とはこんなものであったのだろうか?』という想いを重ねて見ていた。
地球温暖化による異常気象が世界中で唱えられてから既に久しいが、年々その加速度は増して来ているということは人類のほとんどが感じているはずである。遠い将来・・・例えば100年後の日本。(もう私はこの時には墓の中に埋まっていると思うが)こんな夜の風景が日常の光景になることもあるのだろうか?地球が生まれた頃の情景と終末の情景は似ているのだろうか?
わずか一時間半ほどのスペクタクルではあった。
『この情景を魔法のカメラで撮ったならどんなだろう?』
とは、残念ながら思いつくところまでは至らなかった。目の前で繰り広げられる圧倒的な光景の前で、それは到底無理なことであった。