まっしゅ★たわごと

街歩き、建築、音楽、フランス、それに写真の話題を少々

想像力を超える嵐に創世の情景を見た

2007年08月25日 21時51分32秒 | 夙川

確か22日の水曜日の夜の出来事であったと記憶している。仕事を終え自宅すぐ近くのJR駅でいつものように降りる。先日の日焼けのせいで全身が燃えるように痛い以外はいつもと同じである。と、そのとき、遠くの空がわずかに明滅したような気がした。しばらくの間、空を気にしながら歩いていたが川の土手に辿り着くと「奴」がすぐ近くまで来ていることがわかった。しかも確実にこちらに向かっているようである。

 

歩みを進めるたびに痛む両腿をかばいながら家路を急ぐ私。自宅前のアパートの前には真北の山々に向かって伸びる一本の道があった。ちょうど、そこの前に差し掛かった時に割れたのである、空が・・・

 

 

紫を帯びた眩い光の玉が北の頭上で強烈な勢いで弾け、その刹那、その光線は矢の如く地上に向かって空を裂いたのである。このとき、私の予感は確信に変わった。

 

『今日は本当に来るかもしれない・・・』

 

急いで階段を駆け上がり、引き出しからカメラを取り出し、部屋の明かりを暗くしたまま、アルミサッシの枠に張り付いた。このとき既に、私は「皮膚の痛み」についての感覚を完全に失っていた。

 

東の空から低い唸り声を湛えているかのような重苦しい色の雲がやってくる。あまりに低空のせいか、こちらに進み寄るに従って雲の底面が街の街灯に照らされ白身を帯びてくるのがわかる。雲の後ろでは青白い光の柱がビリビリビリっと幾度も幾度も立ち上がっているのがわかった。そして、ちょうど頭の上を雲が通過するかしないかの瀬戸際になって、唐突に大粒の雨が一斉に街を襲った。雨は横に向かって光の帯を描きながら流れていく。私は、瞬く間に雷鳴と雷光と豪雨の渦中に曝されることになった。

 

 

全天空の至るところで常に空が光り、明滅が途切れることはなかった。それはアルプスシンフォニーで奏されるサンダーマシーンの音色よりも劇的でダイナミックで、更に相当の恐怖を含んでいた。

 

 

「どこの雷光がいつの雷鳴に呼応しているのか」ということは、とうの昔にわからなくなっていた。目の前に広がる奇異な光景は、まるで壊れた舞台装置の上でB級の外国テレビ映画でも見ているのではないかという、とてもバカげた妄想まで引き起こさせた。

 

 

 

三脚不在のまま窓際の壁にカラダを固定し、サッシの枠にカメラを沿わせ両手で固めたまま息を止めてはシャッタースピード3~5秒でボタンを押し続けてみる。一寸先は闇、又は雷光・・・全ては時の運なのか?

 

 

 

一つ上の写真は、全体がブレており、しかも右側に変なゴーストが映りこんでしまっている。実は、この写真、一度だけ眼前でとても大きな大きな光が弾け、その光圧と尋常ならぬ衝撃音に恐れおののき、ほとんど本能で後ろに跳び下がり、そのまま倒れこんでしまったときの写真なのである。映画などで爆風で吹っ飛ぶような感じ。物理的には何の負荷もかかっていないので、倒れる必要はなかったのだけど、自己防衛本能が働いたのか?謎??

 

 

壁から伝わってくる振動で、建物は常にビリビリと震えているのがわかった。そして、私の手も、いや腕や足も震えていた。近くのアパートから子供たちの悲鳴が上がり、向かいのマンションの蛍光灯は一瞬の間、光を失った。やがて、雨が落ち着いた頃、街中にはパトカーのサイレンが鳴り響き、車のクラクションが頻繁に鳴り出した。本来あるべき喧騒そのものが、何故かしらどこか遠い別の星のものであるような気がしてならなかった。空の向こうでは、まだ静かに空が光っていた。

 

 

 

都市における嵐の光景とは、常にカタストロフを想起させるものとして映像作品の中においては頻繁に使用されてきた光景ではあるが、何故か私はそこに、『地球創世の頃の風景とはこんなものであったのだろうか?』という想いを重ねて見ていた。

 

 

 

地球温暖化による異常気象が世界中で唱えられてから既に久しいが、年々その加速度は増して来ているということは人類のほとんどが感じているはずである。遠い将来・・・例えば100年後の日本。(もう私はこの時には墓の中に埋まっていると思うが)こんな夜の風景が日常の光景になることもあるのだろうか?地球が生まれた頃の情景と終末の情景は似ているのだろうか?

 

 

 

わずか一時間半ほどのスペクタクルではあった。

 

『この情景を魔法のカメラで撮ったならどんなだろう?』

 

とは、残念ながら思いつくところまでは至らなかった。目の前で繰り広げられる圧倒的な光景の前で、それは到底無理なことであった。

 

 

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私だけの夏休み【須磨海岸編】

2007年08月20日 21時26分21秒 | 自然

今日はお盆出勤の代休を取得して1人ぶらぶら歩きを敢行。

向かった先は今季2回目となる須磨海岸である。

駅前すぐのところは、若い熱気と音楽と欲望でムンムンだけど、

少し歩いて、西や東の端に行けば何とものどかな時間が流れているのだ。

波が砂浜を走る音に耳を傾けているうち、いつのまにか眠ってしまっている。

そして、帰り際に何と!!

地球に飛来した謎の円盤と遭遇!!

 

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大人たちの夏休み3【ちん電宴会編】

2007年08月20日 21時12分35秒 | 都市

西成界隈を二日連続で訪れたのはこれが初めてかもしれない。

今回は、第3回町歩き探検隊の「ちん電宴会」である。

 

 

かっさん隊長の乾杯の音頭と同時に電車は動き出す。

 

 

ビールと我々を乗せたちん電は一路、浜寺公園を目指す。

 

 

午後五時に通天閣の近くから出発し二時間の行程で宴会は行われる。

途中、折り返し地点兼トイレ休憩場所の浜寺公園に着く少し前に、

日は落ちようとしていた。

 

 

 

 

貸切電車の中でビールやら焼き鳥やら飲食している光景を見入る町の人たちの反応がこれまた面白かったりする。

 

 

 

 

折り返し後、二回目のトイレ休憩を兼ねて車庫見学をさせてもらえる。

やはり、男たちは永遠の少年なのか?電車を見る表情がキラキラ

している。

 

 

 

 

 

気がつけば、いつの間にか終点の天王寺駅が近づいていた。

楽しい時間はすぐに終わってしまうものなのである。

 

 

かっさん隊長お疲れ様でした。

そして、皆さんお疲れ様でした。

 

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大人たちの夏休み2【無心庵編】

2007年08月20日 20時47分10秒 | 都市

無心庵。西成区某所の大人の隠れ家。

ここで我々は、まったりとした、ゆったりな時間をかみしめる。

懐かしい光、そして影たち。

遠き日に見たであろう光景が

実態として我々を無言で包んでいる。

お金を掛ける贅沢よりもお金を掛けない贅沢

手間を掛け、時間を掛け、無駄を掛ける贅沢

店主は言った。

「ザリガニはバルタン星人のモデルとなったんやで」

「へぇ~」

客たちの返事は若干の渇きを含んでいた。

 

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大人たちの夏休み1【西成街歩き編】

2007年08月20日 20時35分42秒 | 都市

池ぴょんさんの企画で西成区の街歩きに参加

町中に溢れカエル正体不明の掲示板

日本で唯一となってしまった「かたぬき」製造工場の前で

池ぴょんさんたちの説明を聞いていると、そこへ何と・・・

社長さんとバッタリ!

そして、御好意により工場見学をさせてもらう。

ヤスイは「ぬきにやすい」

ニクイは「ぬきにくい」

ちなみに社長さん曰く「作るのは上手いけど

抜くのは下手くそ」であるらしい。

この熱気の中の町歩き敢行。さすがにカラダがトロケソウやった。

つ、ツルかいっ!!

昼飯後、集合時間に間に合っていないにも関わらず、遅刻組一同で

アイスモナカ屋に立ち寄り、アレを食す。そして目指すは飛田百番!

夜の宴会としては立ち寄ったことがあるが、昼間に店の方より詳細

な説明を受けたのは初めて。

いろいろなモノが寄せ集められただけの建物だと思い気や、意外と

全ての意匠に意味が込められていたというのがわかった。

なかなかいい感じの長屋

でも、かなり暑くてヘトヘト感アリ・・・その後、我々は無心庵へ・・・

 

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協創LLP設立記念パーティーに参加して思ったこと

2007年08月11日 23時10分10秒 | ぶつぶつ

先日、協創LLP設立記念パーティーというイベントがあって、メンバーの何人かも方からお誘いを受けたので出席してみた。協創LLPとは何かと言えば、なかなか私の言葉では説明しにくいので、興味のある人は下記サイトを見て欲しい。

http://kyosou.jp/

一言で言えば一人一人の技能を互いに交えることで新しいビジネスに転化展開させていこうというもので、皆、希望と活力に満ち満ちていた。私はと言えば、ただのギャラリーで客席側で座っていたのであるが、何となく心中穏やかではなかった。

何故だろう?

そういえば、今の職業に転職してからかなり生活の自由度が上がったが、そんな自由気ままな生活と引き換えに「野心」とか「野望」みたいな情念を忘れてしまっている自分に気がついてしまったのである。そして、私の中にある抽象的な想いがフツフツと湧き上がってきた。

「物を書いて不特定多数の人たちに読んでもらいたい」という欲求

そう、それはモノ書きという作業への羨望である。そして、ブログというバーチャルな活字ではなく、印刷物としてのリアルな活字への眼差しでもある。昔は、いろいろと小説の断片みたいなものを大学ノートに書き殴っていて「いずれは・・・」とか青臭いことを考えていたものであるが、「いつの日か」は何もしなければ「いつまでも」やって来ないのだ。この先、私は何もしないままに老化を迎えるのだろうか?

協創LLPの一つのコンセプト「楽しいことは正しいこと」

私には商魂はないので、少なくとも実質的にこのプロジェクトに近々のうちに自ら参加することはないだろうけれど、私の身近なところで私の身近な人たちがそうやって立身を企んでいる姿を見ると、私の心の灯もまだまだ消すわけにはいかないなと思わずにはいられないのである。

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羊たちの沈黙した誘惑

2007年08月11日 18時12分14秒 | ぶつぶつ
『スタミナのつく飴があったらな・・・』

                                    

ふと思い立ち、職場の引き出しをモゾモゾやっていると「あったー!」2年まえのフランス旅行のときに自分用に買っていたコニャックボンボン(こんにゃくボソボソではないよ)が出てきたのである。この飴ちゃん、あんまり美味しくないのだけれど、包装が綺麗なのでついつい油断して舐めて後悔して、また引き出しの奥深くに隠蔽してしまうのである。

しかし、これがまた体調の悪い時に舐めるとコトサラ大変なもので、コニャックシロップ(こんにゃくシロップじゃないよ)口内へ滲み出てくるときの衝撃的破壊力は絶大で、しばらく口の中でコロコロとやっているも、とうとう我慢がナラズ吐き出してしまった。

『昨夜の羊たちのせいなのだろうか?』

現代の文明生活において「羊」とふれあう機会なんて、そう多いわけではなくテレビや映画の中か、レストランか、はたまた或る境遇に陥った時の古典的手法くらいでしかないのではなかろうか?

                                    

そう!私は数えたのである。久しぶりに奴等を・・・。

結局は、43くらいまで数えたのであるが、そこで突如私を襲ったのがある一つのおバカな疑問である。羊は『匹』か『頭』か?私はモーローとする意識の中で、羊を数えることを辞め、目の前にある大きな壁に立ち挑んだのであった。幸いにしても壁の向こう側には熟睡という闇が待っていてくれていたので、私の不眠は救われたのである。

しかし、深夜2時過ぎに呼び出され、しかも主に放置されたまま救われなかった羊たちは、沈黙するどころか昼になって仕事中の私の脳内に這い出てきて、私の仕事脳を再び崩れた壁の向こうに連れ出そうと試みるのである。こうなったら羊と私の私的な問題で、そこには書類も上司も客もなくトイレに行くフリをして、ただひたすら避難階段の踊り場でやつらと格闘を繰り返していたのである。

終業までの制限時間いっぱいいっぱいの大乱闘の末の勝者は・・・どちらが勝ったかはご想像にお任せするとしよう。

                                    

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魔法のカメラで中津界隈を撮る

2007年08月05日 00時09分10秒 | 写真

 

<第一部>

 

 

阪急中津駅を降りて

高架沿いにしばらく歩いた先に不思議な空間がある

 

 

 

まるで現実世界から幽閉されたかのような通路

 

 

三途の川というのは

21世紀においては無機質な辻なのだろうか?

 

 

現世の光を映す窓

 

 

現世もまた透明ではなく混濁している

 

 

これは現世に繋がる扉か?

 

 

これは現世に繋がる窓か?

 

 

これは現世に繋がる階段か?

 

<第二部>

 

 

平行世界もまた虚ろな現実であって

 

 

 

また、どこかに繋がる扉を備えているのだが

それどころか、普段の風景の中にも・・・

 

 

 

 

きっとそれは

さして奇異な出来事ではないのかもしれない

 

 

全ては、どこにでも潜んでいる悪夢の断片なのか?

 

 

きっとそうに違いない

 

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りくろーおじさんの事件簿

2007年08月04日 22時35分47秒 | ぶつぶつ

 

カラーン!コローン!カラーン!コローン!

梅田で軽く用事を済ませた私は、柱の陰から聞こえてきた鐘の音に気がついた。

カラーン!コローン!カラーン!コローン!

必要以上に長いハイテンションな鐘の音に、私は、いつの間にか鐘の音源に向かって歩き出していた。その先には柱の陰を先頭にして3~4人の人が行列を作っていた。生来、私は行列の一部になることはあまり好きではないのであるが、行列の根源を知るということに関しては興味があった。とうとう目の前まで歩み寄ってしまった私の前に現れたのが、他の何者でもない「りくろーおじさんの店」であった。

焼きたてでーす!!

女性の店員さんが声を張り上げて「焼きたて」であることをアピールしていた。カウンターの後ろには焼きたてのチーズケーキが、たんまりと置かれていた。ホールで500円かぁ・・・土曜日の今日のお昼は駅前のパン屋でバゲットサンドを食べるつもりにしていたはずなのに、私の心はすでに「このチーズケーキをたらふく喰らう」というモーソーに侵されているのであった。

家に戻り、窓を開け放ち、ペーパーに盛った豆に熱湯を注ぎ入れる。コーヒーが出来るまでの間に箱を開封するも、出現したケーキの存在感に一瞬たじろいでしまった。思ってた以上に大きい??不思議なことに都会の真ん中で見たソレと自宅のテーブルの上で見たコレでは、全く同じモノを見ていてもスケール感が全く違うのである。

大き過ぎるという誤算は、やがては「これからしばらくの間、毎食後にコレを喰らわなければならない」という哀しい現実への諦めへと変わっていった。そして、いつもの様に記念撮影を終えた私は、ホールを真っ二つに切り分け、残った手前の半月を皿に盛り替えて、かぶりついた。

ふわふわぁ・・・

この大きさで500円。それなりの利益を梅田の主要な地下街で得ようものなら原材料に記載のないものを混ぜなければやっていけない。しかも、合法的にである。巷で売られているソフトクリームは、その構造上ヴォリュームのおよそ半分が空気で出来ているという。綿菓子などは誰が見ても9割以上が空気である。しかし、このチーズケーキ・・・たくさんの空気が封入されているような食感でありながら、半分も食べると結構むせてくるもので、やはり空気以外の原材料には、かなりチカラを入れているのが感じられた。

←りくろーおじさん

素材の活かし方が濃密な分、味が単調になり過ぎて、食べながらにして味覚が飽きてくるのであるが、ここはまたキチンと計算されていて、おそらく最後の一口になるであろうホール底の外周部分に干しブドウが仕込まれているのである。そして、その干しブドウから醸し出される僅かな酸味が、この一連の出来事を完成された結末に導いてくれるのである。このようなケーキが、かつての流行の日々を終えてしまった今でも、未だ生き続けてきた訳を垣間見たような気がした。

チーズケーキを喰らったつもりが、りくろーおじさんにイッパイ喰わされた気分である。・・・これがこのタイトルの事の顛末でもある。

 

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