まっしゅ★たわごと

街歩き、建築、音楽、フランス、それに写真の話題を少々

摩耶山春山開きへ行ってきた(後編)【摩耶山探訪12回目】

2012年03月20日 22時28分13秒 | 六甲・まや



どこから火を入れるのかと思っていたら、ズボッ!!
(仮称)モリゾーのお尻の下に松明を突っ込んでから、上から大きな柄杓で水を振りかけた。





しばらくすると中で燻されたような白い煙が(仮称)モリゾーの頭から黙々と湧いてきて





あとはもう「これでもかぁ!」というほどモクモクモクモクと白煙が立ち上り始めた。





面白かったのは摩耶山頂では常に風が吹いているものの、他に遮るものが無いためか山頂独特の風の流れなのかわからないが風の流れる方向が一向に定まらないのである。





まるで大蛇がとぐろを巻くが如く周囲のギャラリーを威嚇するかのようにクネクネとからだよよじらせて襲いかかってくるのである。

煙に巻かれる瞬間の動画を見たい方はコチラ





護摩供が終わりそうな気配を見せ始めたので限定200食となる摩耶鍋の販売コーナーに急いだ。
摩耶鍋とは、かつて旧摩耶観光ホテルや国民宿舎摩耶ロッジの名物料理として存在していた幻の摩耶御当地料理だそうである。





「具だくさんですね」と声を掛けてみると具材の内訳と汁の構成を教えてくれた。頑張れば我が家でも作れそうな一品である。





我々が並び始めた直後から、後ろに長ーい列が出来始めたので、初動の早さにホッとしたが、





別売りをしていたおにぎりが最後の1つだったので、むしろギリギリだったのだなあと思った。自然の中で食べるのは温かいものでも冷たいものでも美味しいね!





美味しいとは言うものの、燻されて宙を舞う灰たちが時折、酒粕汁の中に降臨してきてちょっと困ったりもしたが、これはこれでまた楽しいものである。そして、いよいよ摩耶昆布配布の時間である!





摩耶昆布って・・・あれぇ??





ななな、なんか見たことある箱だそぃ!?
わたしゃ、てっきり天上寺に供えられていたあの摩耶昆布が、掬星台に向かう道中巫女の手に携えられていたあの摩耶昆布が、護摩供の最中にずっと傍らに供えられていた摩耶昆布が・・・摩耶昆布の一部を小分けにして配布されるものだとばかり思っていたのだが・・・





摩耶昆布配布の順番待ちに並ぶ人々・・・





掬星台を後にし、オテル・ド・摩耶に立ち寄ってみると天上寺からの行進の際に見かけた神戸牛専用のトラックがいた。「はて?」と思って近づいてみると、やっとその理由がわかった。六甲山牧場へお馬さんたちが連れて帰られようとしていたところなのであった。





臆病な2頭ということで案内されていただけに、2台の上の表情はすごく怯えているようにも見えた。走行時間はあまり長くないとはいえ高低差のあるバス道を右へ左へクネクネと進んで行くトラックの荷台に乗ることは馬にしてみれば大変勇気のいることだと思う。ちょっとかわいそうだなあと思った。





帰宅後、摩耶昆布の検証を始める。





ほら!やっぱりぃ、「都こんぶ」ぢゃないかぁ!!
いやいや、いいのかぁ?これ??摩耶昆布じゃないのに、中野物産さんの商品に巻いて「摩耶昆布」を名乗る洒落っ気がたまらなくゆるくて面白いなあと思った。ま、でも、摩耶昆布の包装は手作り感満載ですごく好きだなあ。


ちなみに帰宅後「そういえば摩耶鍋販売なかったね?」て妻に言ったら「さっき食べたじゃない」と言われた。しばらく意味がわからず怪訝な顔をしていたが、私が一人で勝手に誤解していることに気が付いたのである。摩耶鍋とは「かつて旧摩耶観光ホテルや国民宿舎摩耶ロッジの名物料理として存在していた幻の摩耶御当地料理」のことであって、決して「摩耶の山林で密かに製造されてた魔性の黒鉄鍋」のことでは無かったのである。あ~ぁ、現地の案内スタッフに尋ねなくて良かったぁ・・・

おわり

摩耶山春山開きへ行ってきた(前編)【摩耶山探訪12回目】

2012年03月20日 21時49分26秒 | 六甲・まや



今日は毎年春分の日に行われる摩耶詣祭・摩耶山春山開きに行ってきた。





天上寺で10時から開催の祭りに合わせて朝10時始発の摩耶ケーブルは40分前倒しの9時20分より運行される。普段は閑古鳥の鳴いている摩耶ケーブルもこの日は乗客多数で、更に10分前倒しの9時10分より運行を始め、一度に乗車できず積み残された我々を20分の当初始発便で山上まで運んでくれることになった。ここで1つ疑問がある。通常物販店や飲食店のオープン初日等はお客さん多数で前倒し開店することは良く聞く話だけど、公共交通機関が積み残し多数により、事前予告していた臨時便より早く臨時「臨時便」を走らせることは他にあまり聞いたことないのだけど、そもそもこういうのはOKなのだろうかと。。。ま、こちらとしては20分待たされると祭りに遅刻してしまうので有り難いことなのだけれどね。







天上寺ではすでに、全ての生き物の無難息災を祈願する御供会などが行われており、我々が到着したところで掬星台まで行進するためのお馬さんが2頭出てきたところである。見物客の年齢傾向は若干高めで我々世代はほとんど見かけなかったが終始ゆるい感じで摩耶詣・御供会が進行していった。





ここでは御馬詣と言って、馬が花かんざしを巫女さんより授けてもらう儀式が執り行われた。







ひと通りの儀式が終わると先頭にホラ貝を吹く山伏、続いて摩耶昆布などを携えた巫女に続き、その後ろから2頭の飾り馬、そして見物客たちが掬星台まで行進をしていく。





行進はオテル・ド・摩耶まではバス道ではなく裏道を使い至り、そこからは乗用車の通行禁止となるバス道に出て掬星台に向かっていく。





途中、オテル・ド・摩耶の駐車場で「神戸牛」用の運搬車を見つける。「まさかオテル・ド・摩耶が食用に一頭買いしたのか?」





掬星台への行脚の途上で巫女の手に・・・





摩耶昆布がぁ!!
実は掬星台での摩耶山春山開きのイベントの中で「摩耶昆布の配布」というのがあって結構楽しみにしているのである。





この上り坂を登り切れば掬星台である。山伏のホラ貝の音色も少し乱れてきたように思う。実際、延々歩きながらこの楽器を吹きっぱなしと言うのはしんどいと思う。





掬星台に到着。一行は掬星台を一周し広場に円陣を描いて止まる。続いて御馬の紹介。





先頭を歩いていたのが「若葉」
普段は六甲山牧場内の乗馬体験のコーナーで体験者を背中に乗せて歩いているらしい。




後方を歩いていたのが与那国馬の「那美」
どちらも大人しくて臆病者らしい。那美は南国のDNAであるため、寒さには滅法弱く今の季節、厩舎では服を着て更に夜になると厩舎にヒーターを付けて過ごしているという。那美も六甲山牧場のお馬さんらしい。





天上寺の住職の言葉の後に参加者全員で摩耶の神降臨の儀式を行う。その後に灘区区長さんの有り難いお言葉が続く。





そしてメインイベントとなる「摩耶修験回峰行者紫燈護摩供」が始まる。まずは結界の入り口に数名の山伏風の行者が訪れるくだりから始まる。入り口のところに佇む門番が行者に、「そちらは本当に行者のものたちか?」と尋ね、行者たちの出自や衣装、また身につけている小道具の細部に至るまでについて質問を繰り返す。対する行者は何事にも澱みなくそれらの説明を行っていくというストーリー。最後に門番が「そこまで達者にモノを言えるのであれば、そなたは真の者なり」ということで納得し、結界に山伏たちを導き入れ「護摩供」が開始される。





中央に佇むモリゾー(?)の周りで弓で矢を宙に向けて討ったり(パフォーマンスではなく、本当に矢が宙を飛んでいく)





斧のようなもので(仮称)キッコリーに奇妙な掛け声とともに降り下ろす。どんな風に奇妙なのかと言えば、この斧、3回降り下ろすのであるが、1回目と2回目は威勢よく「えい!」「えい!」と凄むのであるが3回目は何故か「あぶっ」とちょっと間の抜けた感じで言うのである。『あ、あぶ?』ホンマにズッコケそうになったよ。





ついには松明に火を灯して、(仮称)モリゾーに火をつけるのであった。


つづく・・・

後編はコチラ
摩耶山春山開きへ行ってきた(後編)【摩耶山探訪12回目】

迷徒労濃霧【摩耶山探訪11回目】

2012年03月20日 00時27分38秒 | 六甲・まや



久々に・・と言ってもたった一カ月しかたってないが、しばらくのぼっていないように思ったので、ケーブルで摩耶山上を目指してみた。相変わらず今日も乗客は私一人だけで貸切である。乗務員が2人乗ってきて運転台のところで、ずっとペチャクチャおしゃべり中である。何か笑いながら「んもう!信じられへん!!」とか言っていたなあ。





虹の駅に到着。今日、摩耶山上を目指したのにはちょっと理由があって、この前の週末に街から掬星台を見上げたとき掬星台のところだけが雲に覆われていて、その雲に突入する感覚を、この空中散歩で味わってみたいなあと思ったからである。ちなみに写真中段の右寄りに糸くずのようなものが見えていて拡大すると巨大な回虫のうようにフレーム内に肥大してくるので困ったものである。今回の写真のうちのおよそ半数にこの見苦しい化け物が徘徊しているのが至極残念である。白い濃霧を撮っているのでなおさら気になるところなのである。





虹の駅から掬星台を見上げる。見事に山頂付近のみがスッポリと雲に覆われている。





雲が濃くなるのはロープウェイの鉄塔がその境界になっているように見える。境界というよりは結界と呼ぶべきなのだろうか・・・





ちょうど結界を超えた向こう側が真っ白で何も見えない乗降になっている。





結界から降りてきたロープウェイとすれ違う。





鉄塔に近づくにつれて辺りが白んじてくる。





何だか幽玄な雰囲気が漂ってくる。ロープウェイも乗客は私一人。しかも乗務員もいないので本当に無音の中にロープウェイの中に一人っきりなのである。





そしてだんだんとグレー色が強くなってくる。
昼間とは思えない暗さの広がるファンタジー。





摩耶山上に到着。この真っ白っプリがたまらなく快感!





オテル・ド・摩耶を経由して天上寺に向かう。明日は摩耶詣祭である。バス道沿いにその案内の赤いノボリが立てかけられている。





天上寺。なかなかの荘厳さが滲み出ている。何となく密教っぽい。個人的には京極夏彦作「鉄鼠の檻(てっそのおり)」に出てくる「明慧寺」のイメージはこんな感じである。





少し欲が出てきたので、このまま穂高湖までバス道沿いを歩いていくことにした。折しも今日は「MAYA AMORE ― マヤ アモーレ ― 」の開催日である。





チラシには『ロープウェイで空中散歩』とか『穂高湖でカヌー』とか書かれているけど、彼らは果たして楽しめたのだろうか。。。





奥へ進めば進みゆくほど霧が濃くなってきて、その幻想さが素晴らしく心地良くて、面白いからズンズン歩き続けてみる。





普段の枯れ木までもがその遠近感に対し絶妙なグラデーションを持って私の目を楽しませてくれるのである。





やがて、一層霧が深くなったかと思うと、その霧たちが一気に私のボディに絡みつく幻想に捕われた。しかし、それは幻想ではなく微細な霧雨で有り、次第にそれらは質量を持った小雨に変質し、気がつけば我が身を濡らす程のものになっていた。進むも霧、戻るも霧・・・これが潮時かもと思いなおし、アゴニー坂の出口付近で穂高湖行きをあえなく断念する。もう少しで穂高湖だったが戻る勇気もまた必要であると思った。





観光地であるはずの摩耶山上であるが、この季節のこの空の下では誰一人歩いてないし、冬季ダイヤで2時間に一本程度しか走らないバスにも人っ子一人客がいない状況である。そんな私も年間パスで夢散歩を使っているんで摩耶ケーブル&ロープウェイの赤字は増すばかりである。





着た時よりも帰る時の方がずっとずっと暗くなっているよな気がした。まだ日没には早いのだが・・・はて?





下山行のロープウェイは登山帰りのオジサンと二人っきり。まるで地獄に向かうかのようなロープにぶら下がってゴンドラは進み始める。





対向するゴンドラは地獄からのものか?それとも現世からのものか?





例の鉄塔を超えたあたりから、山の木々が見え始める。





雲と空の結界が見え隠れする。もうすぐ下界に降り立つのだという興奮が芽生え始める。





虹の駅のシルエットが露わになると、そのすぐ背後には市街地が整然と表出してくる。山の幻想美とは真逆の整然美が静かに佇んでいる。





飛行機の窓から見るよりもゆっくりとゆっくりと変わる風景にしばしの間見とれてみる。それでも300mの高低差をわずか5~6分で渡り切ってしまうのだから、そう悠長に楽しめるほどの時間がないのも事実である。だからこそ息を忍ばせてじっくりと、この眼に焼きつけておきたいのである。





虹の駅に到着。往路よりも遥かに雲が低くなっていることがわかる。虹の駅より先は雲間に隠れる体験は望めず、ただ淡々とケーブルを降りゆくのみである。





摩耶ケーブル駅に降り立ち、空を見上げると俄かに青空が雲間から見えていて、山の天気と街の天気がここまで違うものなのかと思い知らされる。何がともあれ、昨日の街の気温は最高が15度前後であったから山も比較的暖かくて、写真で見るとすごく寒そうなのであるが、実際はそれほど寒くなかったのが救いであった。

明日は、摩耶詣祭。
あ~した♪天気にな~れ♪

TBSドラマ、運命の人を見た

2012年03月18日 23時51分48秒 | おすすめ
TBSドラマ、運命の人を見た。久々に見ごたえのあるドラマだった。だがしかし、問いが重過ぎて何を感想にすべきか難し過ぎる。少なくとも「沖縄返還復元保障費」とは何ぞやという基本的なところが理解できたということから始まる。そのくらい、私の中で沖縄に関する知識は浅い。史実に基づいて描かれたフィクションでありながら、物語のモデルとなった実在の人物たちの多くが存命で有るということも難しさに拍車を掛けているのだと思う。近年、政権交代でより沖縄問題を肌で感じるようになった今、もう少しいろいろと知りたい気分にもさせられた、そんなドラマであった。

フェイスブックは天国のようだなあ思った。

2012年03月14日 23時40分08秒 | サイバー
しばらく前に、訳もわからないままにフェイスブックなるものに登録をしてみた。ネットの世界ではずっとハンドルネームを使って生きてきたので、いきなり実名をさらけ出すのには勇気がいった。フェイスブックの暗黙の了解(?)として素顔をさらけ出さなくてもならないことになっているが、まだそこの境地まで辿り着けていないのでお気に入りの夕景写真でお茶を濁しているというのが正直なところである。

先日、学生時代の知人より友達リクエストが届いたので受けてみた。mixiの世界で言えばマイミク承認ってやつである。友達リクエストを承認して知人のホームベースに足を踏み入れると懐かしい先輩後輩の肖像が並んでいる。そして更にそれら懐かしい面々のホームベースに足を踏み入れると更に懐かしい方々の肖像が並ぶ風景が広がっている。

牧歌的な写真の掲載に数々の「いいね!」が付き、ショートメール程度のコメントが付される。それに対するレスポンスもまた牧歌的なショートメールになっている。

翌日、懐かしい方々からの友達リクエスト。中には、在籍中あまり親しいお付き合いをさせてもらってない方からもリクエストを頂く。mixiのように個々のコメントと一緒に申請があるわけでなく無言のリクエストになっているところに一抹の恐怖感を覚える。

翌々日、またもや懐かしい方々からの友達リクエスト。友達が増える度に、それら皆さんの更新履歴が私のホームベース内を賑わす。全体的に無音で無機質な高原のようなものが広がっていて、そこには大学卒業以来、または、街歩き探検隊以来ほとんど会話を交わすことのなかった過去の知人(そこが天国ならば「故人」)たちの肖像(そこが天国ならば「遺影」)たちが戯れていて、その中の何人かの方々が(天に召された私を)分け隔てなく迎え入れてくれるというファンタスティックなユートピアが展開されているように感じるのだ。

しかし、それらが仮に天国でないとすれば、もしかすると私の見ている風景は「墓地」であり、そこに誇らしげに並んでいるのはカラフルな「墓石」なのかもしれないと思わずにはいられないのである。いずれにしても、私の感覚がフェイスブックに馴染むにはもう少し時間が必要なのかもしれないなあとも思った。

映画「メランコリア」は史上2番目の観客の少なさでした・・・

2012年03月03日 20時54分55秒 | おすすめ



2/17の封切り後にこの映画の存在を知って、その時に某サイトで映画の一部を紹介した映像を見て、あまりの映像美と楽曲選択の素晴らしさに感動してその夜はなかなか寝付けなかった。

それで、前売り券もなく上映映画館もほとんど無くなってしまった今の今になって見に行き、総観客数6人という少なさでの映画鑑賞になった。ちなみに過去最少人数は4名で浪人生時代に、アキ・カウリスマキ監督の「ラヴィ・ド・ボエーム」を、今は無き三宮アサヒシネマで見たときで、客席自体が40~50席ほどの小さな劇場だった。

今回は普通の大きさの映画館で、それで考えるならば、中高生の頃に夏の平日の昼間に梅田の映画館で見た、スタートレック映画中の駄作とも言える「スタートレックV 新たなる未知へ」(この映画はゴールデンラズベリー賞をも受賞している)以下ということになる。

土曜日の朝10:30からとはいえ6人とは少な過ぎる。切ない程に美しい映画なのに勿体ない気もするが、せっかくなので、思うところをツラツラと書き留めておくことにする。

映画のジャンルで言うとSF映画なのだろう。水を湛えた青い星「メランコリア」が地球に衝突するという、人類最後の日を描いた映画である。にも関わらず、宇宙人も出てこなければ宇宙船も出てこない。迎撃用の最終兵器もなければ、人類を勝利に導く英雄も出現しない。ましてや地球脱出用のシャトルの築造や予定調和的な危険回避すらもない。





冒頭の7~8分は、。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲の荘厳な楽曲と共に、写実的かつ形而上的な映像がスローモーションによって展開されていくのである。感覚的にはダリの絵画に近いような気もする。





鳥たちが空からゆっくりと落ち、馬が足を追ってゆっくり倒れて行く。本編第一部でジャスティンが「灰色のものに足を取られて上手く歩けないの」とクレアに独白するシーンがあるが、このシーンはジャスティンの頭の中にあるイメージを体現しているようにも思える。兎にも角にも、あまりに美し過ぎる描写に見ている観客には、それが現実の出来事なのか幻想なのか出来事すらわからなくなってくる。





ただ1つ言えることが、それはフィナーレの提示(結末の暗示)であるということである。
(ちなみに左側の小さい星が地球で、右の大きい方がメランコリア。両者はスペクタクル的に衝突するのではなく、互いにゆっくりと漂泊しながら軌道を交える)





暗転後、第一部「ジャスティン」が始まる。
鬱病を患った彼女は、結婚式の日に自らの病的な行いの果てに夫と仕事を失う。その過程が描かれる。第一部では惑星「メランコリア」については描かれないが、ジャスティンがしきりに「さそり座の赤い星が見えない」と空を憂う。





上の映画ポスターはミレーの「オフィーリア」と似ているが、「オフィーリア」はシェイクスピアの四大悲劇の一つである「ハムレット」の恋人であり、度重なる悲しみのあまり狂ってしまい溺死してしまう人物である。この映画の世界観に重ね合わせても、それほどおかしいものでもないだろうと思う。





続く第二部「クレア」はジャスティンの姉の名前である。第一部では金持ちと結婚して人里離れた邸宅で馬と執事と愛する息子と仲睦まじく暮らしているものの、メランコリアの異常接近によって心を乱されていく。対するジャスティンは第一部後に美味しい食事が灰のような味にしか感じられないほど鬱状態が進行しているもののメランコリアの接近するにつれてクレアとは対照的に生気を取り戻していくのである。





異常接近する夜。クレアの夫(キーファー・サザーランド)は湖面に浮かびあがる巨大なメランコリアを見て歓喜する「どうだ!素晴らしいではないか!!」異常接近するだけで衝突しないのだという専門家の説を信じるのであれば、これは素晴らしい天体現象であって、もし現実にあったとしたならこの上ない美しさなのだろうなあと思う。





地球に異常接近した翌朝、原始的だが遊び心にあふれた方法でメランコリアと地球の位置を測るクレアたち。





メランコリアが地球から遠ざかって行くことを証明するために覗くために作ったのだ。一度目はメランコリアは小さくなっているも、2度目に観測したときは再接近していることが証明される。そのシーンにみなぎる絶望感は圧倒的である。まさに逃げる余地の無い状態。超大な規模で地球に迫り、更に、残された時間があと数時間もない状況なのである。地球の果てまで逃げても、その果てをも飲み込んでしまうほど巨大な恐怖が迫りくるのである。





逃げようの無い絶望感にさいなまれたクレアの旦那(劇中、いちばんの常識人のように描かれている)は妻と息子を残して自分の馬屋で服毒自殺をしてしまう。クレアの前からフッと姿を消す前の天体観測中の彼の極限の不安の表情もまた、1つの絶望感のカタチであることがわかる。

それから後は、一刻の猶予も無い極限の状態で最後の瞬間をどう迎えるかの葛藤が描かれていく。クレアはデッキで優雅にワインを飲みながら(物質的な豊かさの中で)迎えたいと願う。対するジャスティンは草原の真ん中に魔法のシェルターを作り、3人で円陣を組み目をつむり手を握り合って迎えることを提案する。

魔方陣に入る3人。そこからはしばらく、クレアとその息子とジャスティンの表情の描写が続く、その情景の背後では強烈な風が吹き荒れ、大気全体がゴゴゴゴゴゴゴと唸りを上げ、更に大地までもがゴゴゴゴゴゴと振動を始める。見える色彩も次第にメランコリアの湛える美しい青が支配し始め、その最後の一瞬手前で全景が映し出される。この全景、リアルに街中を歩いているときに眼前に広がる風景に当てはめて創造すると、とてつもなく青い星が巨大に見えて、巨大過ぎて恐ろしくなってくる。





ハリウッド映画に特有の、街が俯瞰的に破壊されていく光景がなく、一瞬の揺れ(メランコリアに地球が激突した瞬間の衝撃)のあと瞬く間に炎に包まれスクリーンが暗転する。暗転したままでゴゴゴゴゴゴゴゴと衝撃てな轟音だけが鳴り響く。消音・・・エンドロール。

これは果たしてハッピーエンドなのかどうなのか?全人類がほぼ同時刻に命を落としたとするならば、その「場所」は大都市のビルの中であったり、高速道路の上であったり、教会や自宅であったりするわけだし、いやそれより以前に、衝突面にも存在していただろうし、映画のように側面や衝突面の裏側にいた人たちもいただろう。また時間、昼間もあれば夜もあるし、朝だったり夕方だったりもするのだけれど、やはり極限状態になっても精神的にゆとりを持って迎えることができたかどうかがハッピーエンドかどうかの境目なのかなと思う。

そういう意味で考えるならば、全ての事象を受容したクレアの息子はジャスティンに促されるまま目をつむり最後の時を迎えることができたし、ジャスティンもまた迫りくるメランコリアに背を向け心乱すことなく迎えることができたので、この二人はハッピーエンド。対するクレアは衝撃の直前に目を開け、巨大な形相を持ったメランコリアと対峙し心乱されたまま最後を迎えハッピーエンドを迎えたのではないかと思ってしまう。(おそらく大抵の人間は後者に含まれるのだろうと思う)いずれにせよ、地球最後の日があるとするならば、私は「梅干しの入ったおむすび」を海の見える景色のいい公園で食したいと思っている。

最後に、劇中で執拗に反復されるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲が耳の奥に残って離れない。それはまた映画とクラシック音楽の幸せな融合の瞬間でもあるのだと思った。

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