2/17の封切り後にこの映画の存在を知って、その時に某サイトで映画の一部を紹介した映像を見て、あまりの映像美と楽曲選択の素晴らしさに感動してその夜はなかなか寝付けなかった。
それで、前売り券もなく上映映画館もほとんど無くなってしまった今の今になって見に行き、総観客数6人という少なさでの映画鑑賞になった。ちなみに過去最少人数は4名で浪人生時代に、アキ・カウリスマキ監督の「
ラヴィ・ド・ボエーム」を、今は無き
三宮アサヒシネマで見たときで、客席自体が40~50席ほどの小さな劇場だった。
今回は普通の大きさの映画館で、それで考えるならば、中高生の頃に夏の平日の昼間に梅田の映画館で見た、スタートレック映画中の駄作とも言える「スタートレックV 新たなる未知へ」(この映画は
ゴールデンラズベリー賞をも受賞している)以下ということになる。
土曜日の朝10:30からとはいえ6人とは少な過ぎる。切ない程に美しい映画なのに勿体ない気もするが、せっかくなので、思うところをツラツラと書き留めておくことにする。
映画のジャンルで言うとSF映画なのだろう。水を湛えた青い星「メランコリア」が地球に衝突するという、人類最後の日を描いた映画である。にも関わらず、宇宙人も出てこなければ宇宙船も出てこない。迎撃用の最終兵器もなければ、人類を勝利に導く英雄も出現しない。ましてや地球脱出用のシャトルの築造や予定調和的な危険回避すらもない。
冒頭の7~8分は、。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲の荘厳な楽曲と共に、写実的かつ形而上的な映像がスローモーションによって展開されていくのである。感覚的にはダリの絵画に近いような気もする。
鳥たちが空からゆっくりと落ち、馬が足を追ってゆっくり倒れて行く。本編第一部でジャスティンが「灰色のものに足を取られて上手く歩けないの」とクレアに独白するシーンがあるが、このシーンはジャスティンの頭の中にあるイメージを体現しているようにも思える。兎にも角にも、あまりに美し過ぎる描写に見ている観客には、それが現実の出来事なのか幻想なのか出来事すらわからなくなってくる。
ただ1つ言えることが、それはフィナーレの提示(結末の暗示)であるということである。
(ちなみに左側の小さい星が地球で、右の大きい方がメランコリア。両者はスペクタクル的に衝突するのではなく、互いにゆっくりと漂泊しながら軌道を交える)
暗転後、第一部「ジャスティン」が始まる。
鬱病を患った彼女は、結婚式の日に自らの病的な行いの果てに夫と仕事を失う。その過程が描かれる。第一部では惑星「メランコリア」については描かれないが、ジャスティンがしきりに「さそり座の赤い星が見えない」と空を憂う。
上の映画ポスターはミレーの「オフィーリア」と似ているが、「オフィーリア」はシェイクスピアの四大悲劇の一つである「ハムレット」の恋人であり、度重なる悲しみのあまり狂ってしまい溺死してしまう人物である。この映画の世界観に重ね合わせても、それほどおかしいものでもないだろうと思う。
続く第二部「クレア」はジャスティンの姉の名前である。第一部では金持ちと結婚して人里離れた邸宅で馬と執事と愛する息子と仲睦まじく暮らしているものの、メランコリアの異常接近によって心を乱されていく。対するジャスティンは第一部後に美味しい食事が灰のような味にしか感じられないほど鬱状態が進行しているもののメランコリアの接近するにつれてクレアとは対照的に生気を取り戻していくのである。
異常接近する夜。クレアの夫(キーファー・サザーランド)は湖面に浮かびあがる巨大なメランコリアを見て歓喜する「どうだ!素晴らしいではないか!!」異常接近するだけで衝突しないのだという専門家の説を信じるのであれば、これは素晴らしい天体現象であって、もし現実にあったとしたならこの上ない美しさなのだろうなあと思う。
地球に異常接近した翌朝、原始的だが遊び心にあふれた方法でメランコリアと地球の位置を測るクレアたち。
メランコリアが地球から遠ざかって行くことを証明するために覗くために作ったのだ。一度目はメランコリアは小さくなっているも、2度目に観測したときは再接近していることが証明される。そのシーンにみなぎる絶望感は圧倒的である。まさに逃げる余地の無い状態。超大な規模で地球に迫り、更に、残された時間があと数時間もない状況なのである。地球の果てまで逃げても、その果てをも飲み込んでしまうほど巨大な恐怖が迫りくるのである。
逃げようの無い絶望感にさいなまれたクレアの旦那(劇中、いちばんの常識人のように描かれている)は妻と息子を残して自分の馬屋で服毒自殺をしてしまう。クレアの前からフッと姿を消す前の天体観測中の彼の極限の不安の表情もまた、1つの絶望感のカタチであることがわかる。
それから後は、一刻の猶予も無い極限の状態で最後の瞬間をどう迎えるかの葛藤が描かれていく。クレアはデッキで優雅にワインを飲みながら(物質的な豊かさの中で)迎えたいと願う。対するジャスティンは草原の真ん中に魔法のシェルターを作り、3人で円陣を組み目をつむり手を握り合って迎えることを提案する。
魔方陣に入る3人。そこからはしばらく、クレアとその息子とジャスティンの表情の描写が続く、その情景の背後では強烈な風が吹き荒れ、大気全体がゴゴゴゴゴゴゴと唸りを上げ、更に大地までもがゴゴゴゴゴゴと振動を始める。見える色彩も次第にメランコリアの湛える美しい青が支配し始め、その最後の一瞬手前で全景が映し出される。この全景、リアルに街中を歩いているときに眼前に広がる風景に当てはめて創造すると、とてつもなく青い星が巨大に見えて、巨大過ぎて恐ろしくなってくる。
ハリウッド映画に特有の、街が俯瞰的に破壊されていく光景がなく、一瞬の揺れ(メランコリアに地球が激突した瞬間の衝撃)のあと瞬く間に炎に包まれスクリーンが暗転する。暗転したままでゴゴゴゴゴゴゴゴと衝撃てな轟音だけが鳴り響く。消音・・・エンドロール。
これは果たしてハッピーエンドなのかどうなのか?全人類がほぼ同時刻に命を落としたとするならば、その「場所」は大都市のビルの中であったり、高速道路の上であったり、教会や自宅であったりするわけだし、いやそれより以前に、衝突面にも存在していただろうし、映画のように側面や衝突面の裏側にいた人たちもいただろう。また時間、昼間もあれば夜もあるし、朝だったり夕方だったりもするのだけれど、やはり極限状態になっても精神的にゆとりを持って迎えることができたかどうかがハッピーエンドかどうかの境目なのかなと思う。
そういう意味で考えるならば、全ての事象を受容したクレアの息子はジャスティンに促されるまま目をつむり最後の時を迎えることができたし、ジャスティンもまた迫りくるメランコリアに背を向け心乱すことなく迎えることができたので、この二人はハッピーエンド。対するクレアは衝撃の直前に目を開け、巨大な形相を持ったメランコリアと対峙し心乱されたまま最後を迎えハッピーエンドを迎えたのではないかと思ってしまう。(おそらく大抵の人間は後者に含まれるのだろうと思う)いずれにせよ、地球最後の日があるとするならば、私は「梅干しの入ったおむすび」を海の見える景色のいい公園で食したいと思っている。
最後に、劇中で執拗に反復されるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲が耳の奥に残って離れない。それはまた映画とクラシック音楽の幸せな融合の瞬間でもあるのだと思った。
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