まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝カール6世皇女 マリア・アンナ

2011-05-18 23:05:54 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お姉様と一緒に恋を実らせたちゃっかり者
カール6世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
ロートリンゲン公子カール・アレグサンドル夫人


1718~1744

マリア・アンナは、カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの次女で
姉は、あの、マリア・テレジアです。
他に兄レオポルトと妹マリア・アマーリアがいましたが幼くして亡くなりました。

         

マリア・アンナには、7歳の時に最初の縁談が持ち込まれました。
相手は5歳の、パルマ公フィリッポ(後のスペイン王フェリペ5世)公子フィリッポでした。

兄のヨーゼフ1世が存命中、カール6世はスペイン王位を狙って戦っていました。
戦況は優勢で、もう少しでスペイン王、というところでヨーゼフ1世が急逝し
神聖ローマ皇帝に即位しました。
この上スペイン王にまでなられたら…とイギリス・オランダが大反対!
結局スペインはブルボン家のものになります。

そんなわけで、ハプスブルク家とブルボン家の関係修復にもってこいと思われたこの縁談は
すぐに署名されました。
条件の中にはハプスブルク家がスペインの権利を一切放棄することと
スペインのジブラルタル海峡進撃にオーストリアが派兵することも含まれていました。

しかし、パルマ公妃エリザベッタが戦争をやめようと考え
セビーリャ条約を結んじゃったもんだから、ハプスブルク家の援護は不必要になり
マリア・アンナとの結婚は棚上げになりました。

だいたい、縁談もエリザベッタが持ち込んで来たのよね。
かかあ天下で政治も仕切っていたというエリザベッタ…身勝手ね。
継子や嫁に対しても冷たかったみたいだし、嫁に行かなくてよかったよ

さて、ここから恋のお話しですが…
マリア・テレジアの夫フランツ(1世)は子供時代からウィーンで教育を受けていました。
弟のカール・アレクサンダーも一緒に来ていて
マリア・アンナと恋に落ちちゃいました。

誰もが驚いたマリア・テレジアとフランツの結婚を許したカール6世でしたが
マリア・アンナには政治的にもっと強力な婿がいいなぁ、と考え反対していました。

でも頑張ったみたいですね。
マリア・アンナは、1740年にカール6世が亡くなった時、22歳でしたが未婚です。
たぶんいくつか縁談はあったと思います。
だってハプスブルク家の後継者になるかもしれないんだもん。
その度に父上と大げんかをする姿が目に浮かぶわ。

母のエリーザベト・クリスティーネがやっと結婚を許して
1744年、晴れて結婚致しました。

結婚後すぐ、二人は伯母マリア・エリーザベトの後任として
ネーデルラント総督に任命されました。
政治的に穏健で人気がある総督だったようです。

結婚から2ヶ月後、カールはオーストリア継承戦争でプロイセンと戦うために出兵しました。
マリア・アンナは妊娠していたのでブリュッセルに留まったのですが
これが二人のお別れになってしまいました。
やっと結婚できたのに、なんて可哀想なことかしら…たった2ヶ月とは…

1744年12月、マリア・アンナは子供を産みましたが死産でした。
ものすごい難産で、彼女自身も回復しないまま亡くなってしまいました。

夫のカール・アレクサンダーはその後も、1780年に亡くなるまで
ネーデルラント総督の座についていましたが、再婚はしませんでした。
32歳だから再婚相手には困らないと思うんだけど…
もしかして、すっごいセンチメンタリスト?
現実の結婚生活でうんざりするより、美しい思い出と共に生きたる道を選んだか?

ロマンチック気分にすごく水を差しちゃうけど
ハプスブルク家の婿としてネーデルラント総督の座にとどまっていたかったのかも…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする