渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『ちひろさん』(2023)

2024年03月28日 | open



切なく重い映画。
人の心と命と孤独を描く。
かなり、良い。
こうした作品は『泥の河』
(1981年)以来のような気
もする。

人の心の機微の揺曳に耐えら
れる鑑賞者にはおすすめ。
傑作である。


元大学卒OLだった千葉県出身
の古澤綾は、ある辛い事から
風俗嬢になる。源氏名はちひろ
にした。
だが、やがて風俗嬢もやめ、
ひなびた静岡県の港町のお弁
当屋でバイトする事になる。
弁当屋の看板娘として多くの
人を癒す彼女は町の人気者に
なり、そこで年齢性別を問わ
ない多くの人と飾らない心で
触れ合う。町の人たちも皆
ちひろさんに惹かれて行った。

だが、彼女の孤独感は消えな
い。

「もうどこにも行かないで、
ずっとここにずっといれば?
あなたはどこにいても孤独を
手放さないのだから」と母の
ように慕う事故で入院してい
たお弁当屋の失明した店主夫
人に言われたちひろさん。
それは退院祝いでの店の屋上

での夜半のバーベキューの時
だった。これまでつきあって
来た町の人たちや「仲間」が
集まっている。
その真心のかけがえのない温
かい愛情に触れた事により、
彼女は涙を流しながら町を去
るのだった。

重ねて言うが、傑作である。





『ちひろさん』本予告編 - Netflix

予告編と本編がこれほど違う
描写表現の作品もめずらしい。
予告編は主人公ちひろさんの
魅力的なキャラを前面に出し
た映像表現となっているが、
本編は違う。
なぜちひろさんの孤独感が
発生したのか。
なぜちひろという源氏名を
選んだのか。
それは登場する小学生の
マコトと極めて似た小学生
時代を彼女は過ごしていた
からだ。
そして、人もカモメも死体
をちひろさんは埋めた。
法的な死体遺棄罪とかそんな
ことは関係ない。
ちひろさんはちひろさんなの
だ。古澤綾ではない。
この映画作品は、深く、そし
て重い。しかも、かなり。
人の孤独と人の真心と愛と
嫉妬と静観と憤怒と逡巡と、
すべての人
の感情が登場人
物たちによっ
て描写される。
秀作でも名作でも快作でも
なく、この作品は傑作だ。

人は生まれる時も一人で生

まれ(たとえ双子であって
も同時には生まれない)、
そして一人で死んで行く。
この作品を最後までじっくり
と観て、何も心が動かないと
したら、それは、作品を観て
いないか、あるいは、この
作品で描かれた人間の孤独
感を感じた事が無い、今後
も感じない、何事にも他人
事の本当本物の無機質な孤
独の人な
のかも知れない。
そして、それは人の真心も
愛さえにも無頓着だ。
自分中心の人間はこのちひろ
さんのような自己懐疑的な
人間的な孤独感は持たず、
どこで誰が死のうが自分は
関係ないという事を徹底で
きる人であり、それは人と
しての孤独とも本質的には
無縁だ。無味乾燥無機質。
ただの種別としての物理的

な個体。
この映画作品は、そうした
無機質な人間の殻を被った
物体ではなく、「人」を

いた作品だ。

ある米国の映画監督は言った。
「戦争映画で戦争の悲劇や
悲惨さを描かない戦争映画
は最低の映画だ」と。
それと同じく、敷衍すれば、
「人」を描かない映画作品
などは存在価値さえ無い映
画作品だ。
本作は「人」を十二分に描き
切っている。

こういう写真が撮れるんだ、
と改めて敬服する。
ただ唯一。

有村架純の演技は抜群なのだ
が、セリフ回しにどうしても
関西訛りが出ている。
本人は気づいていないのだろう
が。
本作は千葉県出身の主人公だ。
せめて関東弁を徹底して研究
したほうがよいと思われる。
風吹ジュンは、「拾って」を
「ひらって」と言う演技で、
西日本や関東北部東北にある
訛りを表現していた。
有村架純は『夏美のホタル』
(2016)の主人公を演じた
時も、セリフ回しのイントネ
ーションで関西弁が出ている。
1980年代歌手は関西大阪京都
出身者は徹底して共通語の
イントネーションの訓練をし
た。それが全国区タレントと
しての必須項目だったからだ。
つまり、共通語は色を見せな
い。標準語が共通語となるの
が日本語だからだ。
NHKアナウンサーは「どすえ」
とは言わない。
そうした単語違いではなく、
共通語と同じ単語を音声で
発しようとも、方言はなか
なか消去できない。
地方の仲間内の日常会話は方
言でも差し支えないが、初対
面の相手や全国レベルでの商
談では方言は厳禁だ。これは
日本人の礼儀として。
特に役者が演じる役の出身県
とはかけはなれた方言のまま
だったら演技にさえならない。
土方歳三が「よし、やるべえ」
ではなく「ほな、やりまひょ
か」とは言わないのだ。
役者は一般ビジネスマンより
も厳格に言語を操らないとな
らない。プロとして。
関西の人たちはまだ適応力が

高いが、九州と東北の人た
はかなり純標準語の発音と
イントネーションの表現には
困難を伴うだろう。

日本語の方言で九州と東北は
独自のイントネーションがあ
り、東京局のアナウンサーで
さえもなかなか抜けないから
だ。ふとした瞬間に即「あ、
九州訛り」と判ってしまう。
意思疎通には問題が無いが、
これが役者であり東京出身
の役の場合、それは演技自体
を出来切っていない事に繋が
る。
たとえば、中国地区広島県

周辺の人たちは「500円」を
正確に標準語でのイントネー
ションで発声できない。
江戸っ子に「日比谷公園」を

正確に発音してみろ、という
ほどにできない。
中国地区出身者は長年東京に
住もうが、地方
の地場のイン
トネーションを
発してしまう。
こうした事はハリウッドでも
あり、NY出身者が南部訛り
の独特のイントネーション
や発音で話す事は無いので、
言語を音声で発する演技には
プロの手腕が試される。
有村架純は演技力の高い名女
優だが、まだ甘い。
それは本作でも感じた。

かといって、江戸弁も方言なの
で、正調江戸弁を覚えすぎると
話し言葉が江戸前になってしま
うので、それも方言染まりで
演技上は良くない。
日本人ならば標準語を完璧に

覚えて、それを共通語とする
のが無難だ。







 

 


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