函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

港函館は美人の街だった!

2020年09月04日 05時29分56秒 | えいこう語る

▼ミス函館の応募も最近は少なくなったようだ。世のミスコンは、女性差別などとの批判もあったようだが、男性目線であることが、今の男女均等に抵触すると考えられてきたのだろう。

▼美しいものは芸術だ。それが生身の人間であれば、なおさら鑑賞の対象となって不思議ではない。だが鑑賞という言葉自体、女性蔑視だと言われてしまいそうだ。

▼しかし、美しい女性は羨望のまなざしが多いほど、美しさに磨きがかかるのではないかと思うが、これもおじさん特有の“ココロ”ではないかと、批判されそうだ。

▼昭和30年代頃の港函館は、街中を歩けば、振り向くほどの美人のお姉さんたちがいた、というのが私の記憶だ。

▼その理由の一つに、北洋漁業がある。函館はその基地だったため、全国から男性が集まる。気風のいい男たちがいれば、女も集まる。それが港街発展の条件だったようだ。

▼開港都市なので外国人もいた。私の友人の母親は、英国の血をひいていた。周囲にも日本人離れした美形のお姉さんや「ミス00」といわれたお姉さんたちがいた。

▼今でも若い時分には、女優ではないかと思われたに違いないほど、美形のおばさん!も知っている。

▼ということで、港函館は美人の宝庫だったということを自慢したい。今はどうかといえば、目化粧が強い「マスク美人」がたくさんいる街という印象だ。

▼90年版ベスト・エッセー集【チェロと旅】という文春文庫の中に、作家の森本貞子が「乃木大将と初代ミス日本」というエッセーを載せている。

▼明治41年に、米国の新聞社が「世界美人コンクール」を提唱し、日本でも新聞社が音頭を取った。そこで日本一に選ばれたのが、末広ヒロ子(当時学習院生16歳)だった。

▼父の末広直方は、当時小倉市長だったが、前任が函館区長で、ヒロ子は函館遺愛女学校にいたという。1位の賞品はダイヤモンドの指輪で、現在では1千万円に近い価格だったという。

▼だが、当時は美人コンクールなどを卑下する風潮や、他の女学生たちからの蔭口もひどかったらしい。学習院側も退学を通告した。

▼時の学習院院長は乃木希典だ。新聞各社や、審査員をしていた洋画家の重鎮岡田三郎助や、高村光雲等の面々も、乃木を批判した。

▼ヒロ子は退学したが、後に乃木の仲人で、陸軍少佐で後に貴族院議員になった、野津慎之介と結婚した。

▼ヒロ子の次女真佐子は、倉敷紡績社長で大原美術館を所有する、大原聡一郎夫人だ。他の娘も正田美智子の弟と結婚している。ヒロ子の姉直子の曾孫がジャズ・ピアニストの山下洋輔だ


▼コロナ禍で読んだ古い本の中に、日本で初めてのミスコンで、1位になったのが函館遺愛女子校に在籍していた、末広ヒロ子であったのを初めて知った。

▼ウキペディアでのヒロ子の写真は、ちょっぴり憂い顔しているがとても美形だ。【ノスタルジックHAKODATE・日本一の美人がいた港街】などという、観光ポスターを街中に張ってほしいものだ。

▼ヒロ子は主催した米国の新聞社の世界美人コンクールで、6位に入賞している。このエピソードを元に、来年は「日本美人コンテスト」を、函館で開催するという粋な企画を、観光課に期待したいものだ。

▼ちなみに我妻は、若かりし頃、函館市内の燃料会社に勤務していた。会社の主力商品であった「家庭用焼却炉」のポスターのモデルとなったそうだ。

▼社内では【ミス焼却炉】と呼ばれたそうだ。この「ミス焼却炉」、それから半世紀過ぎても、現役で活躍している!。見事なものである。

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2 コメント

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Unknown (花てぼ)
2020-09-05 23:16:00
この「ミス焼却炉」嬢のこと、前にも聞いたことあり。一度お会いして納得したいものだ?
Unknown (かわぐちえいこう)
2020-09-06 07:29:24
やはり。、一番乗りは花てぼさんでしたか。ブログも長年書いていると、ダブりが入ってきます。書いたものだと知っていますが、作文の流れで引用してしまいます。当焼却炉は、冬季間の寒さで「ひび割れ」と、本体の劣化が大きいです。今さら新しいものにも代える気持ちもないので、丁寧に使用していきたいと思っています。ところで「ミス・ヘップパーン」は、今でも、ティファニービルの前で、タバコをくゆらす、そんな情景を思い浮かべてよろしいでしょうか。そういえば主題歌の「ムーン・リバー」は、日本語に訳せば「天の川」のことでしたっけ。

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