函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

憲法改正されたらどんな社会に

2020年05月30日 08時43分24秒 | えいこう語る

▼コロナ騒動の最中、まさかの憲法審査会が衆議院で開催された。やはり「緊急事態条項」を憲法に盛り込む算段のようだ。

▼緊急事態条項は軍隊のある国ではセットだ。戦争ををするためには緊急事態条項が必要だからだ。アベ総理は、何が何でも自衛隊を軍隊にし「第9条」を変更しようという魂胆のようだ。

▼死ぬまで主席を続けるという習さんの中国では、香港市民の民主化を抑圧するため「国家安全法」なるものを成立した。中国も日本も、長期政権は国民を抑圧することになる、ということがよくわかる。

▼もし憲法が改正されたら、我が国はどう変わるなるのだろうか。最後は国民投票で、投票数の過半数で決定するという。100万人しか投票しなくても、500001名の賛成で可決だという。

▼国民投票前に自民党は、反対する政党より莫大な資金力を投入し、コマーシャルを流すだろう。CMに影響されやすい国民だ。今の国民投票法では、公平な投票が行なわれない可能性がある。

▼自民党改憲草案では【第97条】の、基本的人権は侵すことのできない永久の権利という条文を、そっくり削除している。

▼憲法とは、個人の尊厳を取り巻く諸原理に支えられた、個人の尊厳達成のための人権保障の体系だという。私が考えたのではなく、憲法の本にそう書いてある。

▼憲法の改正が憲法で明記された手続に従うものであれば、改正は正当なものだ。それを正当なものと受け入れることができない者はどうなるか。

▼「国家安全法」の施行を前に、香港市民が台湾への移住をはかっているように、国外に退去するか、国内で受難の途を歩むか、もしくは国家を再構築するための新たな憲法制定会議を求める平和的戦いに従事するか、そのいずれかの途を選ぶことになる。高見勝利著「憲法は何だろうか」岩波新書より参照。

▼となれば、外国への移住もできない我が身であれば、平和的戦いに従事するしかない。もし私が老体鞭うって参戦すれば、逮捕ということになるだろう。

▼共謀罪法案が廃案となって喜んでいたが、2017年「テロ等準備罪」が成立してたのを思い出した。テロとは海外からのものだと考えていたが、憲法が改正され、それに対して抵抗する組織に所属したら、ブタ箱入りということだ。

▼自民党改憲草案が、国民投票により可決されれば、我々は人間ではなく「ブタ」になってしまうのだ。そこで今、カフカの「変身」を読みだしている。変身すれば、罪から逃れられるという内容なのか?。

▼ニーチェ曰く【物事の始まりへの道はどの場合にも野蛮に通じている】。ということであれば、70数年も慣れ親しんで、変えなければならないところなど特別見いだせない、今の憲法を維持したほうが身の安全だということではないか。

▼というわけで、難しい憲法の本を読んで、私の頭で簡単に解釈すれば、アベ政権下での憲法改正は、絶対反対です。

▼憲法改正より、嘘を嘘と思わなくなった「倫理欠乏症候群」での、早期入院、早期退陣を期待したいものだ。

▼そうなれば、国民も人の悪口などいわない「美しい国の美しい国民」に戻れるからだ。

▼コロナの第一波の終息宣言で、習さんの来日を検討しているらしい。その時「緊急事態条項」を引っ込め「国家安全法」を再提出するかもしれない。

民主主義がいいのか(中国VS香港市民)

2020年05月29日 12時39分08秒 | えいこう語る
▼国家主権と国民主権、どっちがいいのか「中国VS香港市民」がどっちがいいかと問われれば、戦後民主主義教育で育った多くの日本国民は、国民主権がいいに決まっている。

▼中国が打ち出した「国家安全法」は、国家の安全を第一にしているので、国民はそれに従えということだ。我が国なら到底理解のできない法案だ。

▼他社の新聞は読んでいないが、北海道新聞は、中国の強権政治を批判している文面ばかりだ。この件についてはテレビで中国を擁護する評論家もいない。

▼だが今回のコロナ騒動を見ると、国家が先頭に立って、国民の安全・安心を守らなければならないことを、国民は少しは理解したようだ。

▼国家の安泰というのは国民の安泰ということでもあるからだ。だが、国民の安泰と国家の安泰は少し違うようにも見える。それは我が国が立憲主義の国家だからだ。

▼憲法によって、国家の行き過ぎを抑制しているからだ。では、国民主権がいいのかと言われれば、民衆行動も行き過ぎれば、暴徒化しやすい可能性があるからだ。

▼ただ我々は、民主主義があたかも魔法の杖であるかのように、妄信しているのではないだろうか。さらに新聞の報道は最良なのだろうか。新聞が戦争を後押ししたという事実は、歴史が証明しているからだ。

▼こんな時は、反民主主義者である(極右)の、長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」文芸春秋を開き、その中からヒントを得たいと思う。

▼長谷川は、福田歓一著「近代民主主義とその展望」岩波新書を、ひじょうに称えている。称えすぎているといっても過言ではない。民主主義(デモクシー)という言葉が登場したのは、18世紀後半のフランス革命やアメリカ革命からだという。

▼フランス革命が急進化した時、革命を批判する側が「あれは制約のないデモクラシーである」と言ったという。デモクラシーとは「暴民の支配」として使われるようになったようだ。

▼この言葉は【底辺の民衆の権力奪取を目指す運動としての用法を生んだものである】という説明をしている。この例が1793年の「ヴァンデ戦争」だ。

▼革命政府が中央集権的な行政改革をおこなったため、ヴァンデ地方の共同体の伝統的生活を破壊しようとした。そこで革命政府が「もはやヴァンデは存在しない」とまで虐殺した事件だ。森山軍次郎著「ヴァンデ戦争━フランス革命を問い直す」。

▼森山は、ここにデモクラシーというもののうちに、本質的にひそんでいる問題点の一つがあって、それが新たな形で表面に吹き出してきたのが、フランス革命だという。ここで残念なことがある。以前私は、森山軍次郎にあったことがある。ヴァンデ戦争を知っていたら、聞けたものを。知らないと損をすることがあるが「過ぎたるも及ばざるごとし」だが。

▼福田は、民主主義の本家と呼ばれているヨーロッパを、民主主義という言葉は【はなはだいかがわしい言葉】であって、それが間違いなく正当な言葉、いい意味を持った言葉として確立したのは、第一次世界大戦のときからだ、と語っている。

▼とすれば、中国政府の考えは、香港市民のデモクラシーは「いかがわしいもの」で、中国政府を転覆させるものだと解釈するのだろう。

▼欧米各国も香港市民を応援しているし、活動資金も援助されているのではないかと言われている。中国政府は「内政干渉」だとして「中国政府転覆革命」とみているのだろう。

▼「窮鼠猫を噛む」という言葉があるが、中国は獰猛な「虎」だ。「虎」は地上を駆け巡り、さらに巨大な「龍」となり、世界を大災害に巻き込む可能性もある。

▼というようなこともちょっぴり頭の中に入れながら、香港市民が「国家安全法」に命を張ってまでも抵抗することについて考えてみた。

▼安全保障には「国家安全保障」があるが「国民安全保障」という言葉は聞いたことがない。国民より国家が優先というのは嫌いだ。国家の横暴を阻止するのが、立憲主義の我が日本だからだ。

▼というわけで『いかがわしい民主主義』であっても、アベ政権にはノーと言える民主主義には大賛成なので、中国政府の香港市民並びに国民の圧政には、反対を証明ます。

「言葉の恐怖」やせたねと太ったね

2020年05月27日 13時14分26秒 | えいこう語る
▼70歳を過ぎて、言葉も年齢と共に意味が微妙に違ってくるのを実感する。やせたんじゃないのと言われれば、病気が発生したのではないか、と思われているのではないかと不安になる。

▼その病気とは【癌】だ。近年、同年代の友人が、次々に癌で旅立っているからだ。20代や30代の頃は、やせたといえば、スリムになったと素直に感じ、喜んだものだ。

▼太ったといわれるのも、40代や50代では、少し貫禄が付いたのかなと?勝手の喜んでいた言。60代も過ぎれば、太ったねと言われれば、糖尿病か心臓に負担が来ているのではないかと、恐怖を感じてしまう。

▼温泉に出かけ体重計に乗ると、僅か1キロの上下で一喜一憂している。「1」という最小の数字が、やけの重たく感じるこの頃だ。

▼だから、相手との会話で「やせたとか太ったとか」は言わない方がいい。それが大人としての礼儀だ。白髪が増えたねも同様だ。

▼だが、親しい人間だから言えるのだ。それはそれで、身体に気を付けてねと心配されたということで、納得しなければならない。

▼3年前に大きな手術をした。その時、手術に対応できる身体にするためか、3週間ほど点滴だけで過ごした。75キロ程あった体重が53キロまで落ちた。

▼病院内のお風呂は、一番最後にしてもらった。鏡に映る我が身体は、まるでナチスの収容所送りのようだったからだ。

▼こうなれば見舞いの方も、やせたねなどとは言わない。やせたという言葉は、病人にとって死刑宣告のようなものだからだ。

▼だから、やせたねと言われなくなったら、旅立ちが近いということを自覚しなければならなくなる。やせたねと言われるうちが、健康だということだということに決めている。

▼アベ総理の「嘘」は、もはや定番となっている。黒川検事長の麻雀賭博での「訓告」処分は、法務省や検察庁が決めたといっている。もはや嘘を嘘と判断できない、道徳感が崩壊している総理だ。

▼その総理が、義務教育に「道徳の教科化」を実施した。二宮金次郎に、背負っている薪で、頭をぼこぼこに殴ってもらわなければならないようだ。

▼不祥事が生じれば「全て私の責任です」、「説明責任はつくします」だ。これも真っ赤な嘘だというのは、国民のだれもが知っている。

▼新聞がいくら「嘘」だといっても、本人が嘘だと思っていない。嘘つきという人間の方が嘘をついているのではないかと、本人はそう思っているようだ。

▼そうであれば、様々な不祥事が発覚した場合の総理の対応は、全て嘘ではないと思った方がいい。新聞社には【麻雀賭博常習犯黒川氏・次期検事総長適任】という、週間誌を超えるぐらいの見出しを張ってもらいたい。

▼【コロナ感染死亡者世界最小・アベ総理は世界一の指導者】などというのも、いいのではないか。悪口を言われなくなったら、お終いだと本人が気付くに違いないからだ。

▼内田樹編「日本の反知性主義」の中にこんな文章がある。【自分が興味がなく知らないことは、知るに与えしないと言う精神態度。己の知の限定性を知る(ソクラテスの無知の知)ことこそが知的態度の原型だとすれば、この態度は知的態度の対極に位置するものとみなしうる】。

▼「新しい日常」の中で、どんな新しい嘘をつくのだろうか。嘘をつく総理の下で、コロナ以上に疲れ切っている国民がいる。

▼久しぶりにトランプ大統領と賭けゴルフか。今回は「レムデシビル」の購入が、賭けの対象か?。訓告では済まされない。免職だ。 
           

哲学者ニーチェが語る黒川問題

2020年05月27日 13時14分26秒 | えいこう語る

▼東京高検検事長と言えば、次は検事総長につくNO2のポストだ。その検事長の黒川弘務が「麻雀賭博」の常習で辞任した。東大法学部卒業で、検察と法務省を経て検事総長への道を着々とよじ登ってきた。それなのにだ。

▼アベ総理が、閣議決定までし定年を延長し、検事総長への道を開いた。「余人をもって代えがたい」と総理は、太鼓判を押したが、コロナ騒動の最中に、それも新聞記者たちと「賭け麻雀」をしていた。

▼アベ総理の人事評価は、いかに当てにならないか、大臣たちの指名をみても、国民の誰もがそう思っている。ついでだが、私の近所のおじさんやおばさんもだ。

▼黒川問題は、すでに言い尽くされているので、書くまいと思ったが、自分の意見として記録に残しておきたいので、書いておくことにした。

▼メディアでの批評は、総じて検事長としての倫理観を問うものだ。私も同じなのだが、それでは当たり前すぎて、問題の本質を遠ざけてしまう。そこで、ニーチェ教授に登場していただくことにした。

▼簡単に紹介する。フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)は、ドイツの哲学者だ。24歳でスイス・バーゼル大学の「古典文献学」の教授となる。ヨーロッパ思想への痛烈な批判、永劫回帰、力への意志など、その思想は20世紀の哲学思想に大きな影響を与えた。代表作は「ツアラトゥストラはかく語りき」、「善悪の彼岸」、「人間的な、あまりに人間的な」などがある。精神が崩壊し56歳で没した。

▼作品の題名からも、人間の本質の探求に命を懸けたという感じがする。そう思う私だが、一冊も読んだことがないので、超訳「ニーチェの言葉」白取晴彦編訳を参照としたい。

▼「好いとこ取り」では、アベ総理や黒川を笑えないが、田舎に住むオヤジなので、その辺は寛大にみてほしい。という考えこそが、アベ総理や黒川の考えと似ているようだが。

▼『視点を変える』。何が善であり何が悪であるのか、人間としての倫理とはどういうものかという定義は、その時代によって正反対になるほど異なっている。古代にあっては、伝統のしきたりや慣習から外れた自由なふるまいをすることは非行とみなされた。視点を変えるということは、相手や状況を想像してみることだけが視点の変換ではない。古い時代の事柄を学ぶことも、視点を変えるのに大いに役立つのだ。

▼24歳で古典文献学の教授になったニーチェは『古典を読む利益』とは、古い本を読むことで、今の時代から大きく遠ざかる。そして現実に戻ったとき、何が起こるか。現在の全体の姿が今までよりも鮮明に見えてくるのだ。こうして私たちは、新しい仕方で現代にアプローチできるようになる。行き詰ったときの古典は、知性の特効薬だという。

▼なんだかそんな気がしてきた。そういえば、私の世界文学全集も風を吹き込んだことがなかったので、カビ臭い匂いを発している。

▼ニーチェ曰く。「本がカビ臭いのではない、君の頭からカビ臭が発生しているのだ」ということだろう。視点を変えるとは、追い風が一気に向かい風に変わる、そんなこともある。ある種の覚悟も必要なようだ。

▼『君の精神はどのレベルか』。よく生きようと思う者の精神は、精神がその段階において、何を最も高貴な徳としているかということだ。『第一レベルの精神』では【勇気】が徳の中で最も高貴とされている。『第二レベル』では【正義】だ。『第三レベル』は【節制】だ。『第四レベル』は【知恵】を最高の徳だとみなす精神になる。

▼この中のどのレベルに今の自分の精神はあるのか、一度じっくり自らに問いかけてみようではないと、ニーチェ教授は言う。

▼現在の【黒川問題】について「懲戒か訓告か」ということより「人間はどうあるべきか」という哲学的な問いを期待したいものだ。今日はニーチェ教授の講義に参加した気分で、そのレポートとしたい。

    
     新しい日常に哲学を
            
          すぐ感化される三等下

我が国の三権分立の実態

2020年05月25日 12時41分15秒 | えいこう語る

▼我が国の「司法府」の裁判所は、沖縄基地問題や原発問題では、国民主権をないがしろにし、政府寄りの判決を行う。さらに、犯人逮捕の取り調べを行なう正義の味方の検察は、東京高検検事長が「賭博中毒」だ。

▼「立法府」といえば、与党一強で野党の存在がまるでない。法案も与党のやりたい放題だ。弱い者同士で共闘を組んだらと言われても、弱すぎてそれもできないようだ。

▼「行政府」だが、トップの総理に強権を与えたおかげで、行政マンは「忖度中毒」ときている。官僚の上位の人事も最高裁判所の人事も、さらに首脳検事の人事も、内閣が握っているからだ。

▼人事を握られれば、官僚は首に縄を付けられた「鵜」のようだ。そういえば、アベ総理。腰蓑を付ければ【鵜匠】にピッタリな感じではないだろうか。

▼国会という舟に乗り「霞が関」の鵜たちを自在に操っているようだ。中には潜って税金をくわえ、加計学園に配ったり、値引きなしの高額な戦闘機を買ったり、せっせと働く悪知恵の「官僚鵜」もいる。

▼人権の擁護とは個人の自由の保障だ。それをおこなう仕組みが、権力の分立ということのようだ。それが、今の我が国は「司法」も「立法」も【行政のトップ】に操られているようだ。

▼そんな権力の横暴を取り締まるのが憲法だ。基本的なことだが、憲法の意味をここで確認してみたい。田舎オヤジが話しても説得力がないので、東京リーガルマインドの編著「憲法1総論・人権」から引用したい。

▼「なぜ憲法が必要なのか」→ 権力には常に濫用の危険が伴う→ 権力が濫用されると人の権利や自由を侵害してしまう→ 「そこで」国家権力の乱用を抑制し国民の権利・自由を守る基本法が必要となる→ 憲法によって国家権力を制限していく。

▼つまり、三権分立を破壊し権力の独裁をはかろうとする、アベ総理を抑制するために憲法がある。だがアベ総理は、その憲法が目障りなので、改正しようとしているのだ。

▼こんな総理なので、数多いる憲法学者が、アベ総理の憲法解釈が間違っていると指摘するのだ。さらに不思議なことには改憲派には、GHQによる押し付け憲法だから、自主憲法の成立をと主張する者が多い。

▼だが、肝心の改憲論者のアベ総理は「対米中毒」患者だ。米国に対し、押し付けられたので「憲法改正」したいなど主張できるだろうか。

▼もし米国が賛成するなら、相当の【密約】による賠償金を払わなければならないだろう。憲法改正するなら、どのくらいお金がかかるのかも試算してほしい。

▼さらに改正してから、米軍が我が国から撤去した場合い、今後どのくらいの軍事費が必要になるかも提示してほしいものだ。

▼現憲法を改正すると「国民主権」を「国家主権」にしようとすのが、自民党改憲草案の内容だ。単純に言えば、香港が中国の憲法下におかれるのと同じ感じだ。

▼自民の改憲は「9条が本丸」と言われているが【13条】の改正も相当ヤバイ!。【すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする】。

▼これが自民改正案によると『個人が「人」に』、『公共の福祉が「公や公益の福祉」』に変わっている。この内容については大槻書店発行の伊藤真著【赤ペンチェック自民党憲法改正草案】「定価1000円+税」を参照にされたい。私にもよくわかる解説だ。

▼というわけで、今日もアベ総理は、我が国の総理としては「不適格者」で、いずれ最高裁で「憲法違反者」と判決が出る人物であると断定したい。

▼そうであるから、最高裁判所長官や検事総長を、自分と親しい者を任命するというのも、納得できるだろう。賭博常習犯でも、見つからなければいいという、単純さだ。

▼笠井潔・白井聡共著「日本劣化論」という本も読んだが、私は【日本単純化論】を主張したい。劣化は良いものが崩れるさまを言うが、元々複雑そうに見せて、やることは単純過ぎるからだ。

▼アベノマスク2枚は、イルカや猿に笑われていやしないだろうか。
   
  単純な総理を戴く単純な国の単純な私
                  三等下