函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

福島の汚染水はコントロールされていない

2018年08月31日 08時03分59秒 | えいこう語る

▼想像してみよう。福島第一原発の放射性物質を含んだ汚染水のタンクが設置されている状況を。まち中で見かける危険物の屋外タンクが680基以上もある光景を。

▼溜まりに溜まったた汚染水。手の施しようがなくなり、ついに海洋放出をしたいと言いだしてきた。放出後は、福島沖の魚などと表示したら絶対売れないに違いない。市場にも出ることもないだろう。

▼こんなことが想定されながら、漁業者も原発建設に賛意を示してきたに違いない。賛意を示さないわけにいかないように、周囲に交付金をばらまき、崩していったに違いない。反対する者は、村八分的な雰囲気を醸し出して。

▼汚染水は浄化しタンクで貯蔵しているが、それでも「放射性物質トリチウム」は、除去できない。人体に影響が少ないといわれるが、福島沖に放射性物質が流れ込むことになる。

▼最近、ペットボトルなどのプラスチック製品による海洋汚染が問題になっている。「マイクロプラスチック」と呼ばれているが、魚の体内に入り込み資源の枯渇にも影響してくるという。

▼さらに、トリチウムが魚の体内に取り込まれたらと考えると、漁業はますます衰退をきたすのではないかと心配になる。

▼通常の原発は、海水の摂取で炉心を冷やし海洋放出される。排出された時の温度は高くなり、プランクトンに影響を与えるというのは理解していたが、トリチウムまで混じっていたというのはショックだ。

▼「あふれて処理に困るからどうしよう」と、住民に投げかけてくるのは、電力会社の常套手段だ。地上最強の猛毒といわれるプルトニウム。溜まりすぎてどうしようと、住民に投げかけてくるのと同様の手口だ。

▼お金をもらって、自分たちが電気の恩恵を受けたのだから、あんたがたの責任でもあるというような、ある種の強迫観念を漂わせている。

▼責任感があるようでないのが原発会社だ。その大きなバックボーンが日本政府だ。その政府のトップもいい加減だ。五輪招致で、世界中に「福島の汚染水は完全にコントロールされている」と世界最大級の嘘をついたからだ。

▼総理の親友と称されるのが、嘘を嘘とも思わないトランプ大統領だ。「日米大嘘同盟」が成立されているようだ。大統領に「真珠湾攻撃は絶対忘れないぞ」と半ば脅かされても「積極的平和主義」などといいふらし、次期国会には【9条改正】を提案するという、国内では敵なしの総理だ。

▼国民全員が『ウソ発見器』を脳内に早急に埋め込まなければならない時代になってきたようだ。

▼『国民の皆さん!9月の自民党総裁選まで埋め込むことにしようじゃありませんか』。

教育勅語と道徳の教科化を考える

2018年08月30日 10時43分58秒 | えいこう語る

▼明治23年に明治天皇の名で公布されたのが「教育勅語」だ。主旨は「君主である天皇が臣下である国民に、天皇に常に国民は奉仕しなければならない」と説いている。
「いったん戦争のような国家にとって緊急のことが起きた場合には、勇気をふるって天皇や国家のために戦うのです」ともある。平井美津子著「教育勅語と道徳教育」から。

▼戦前の教育は教育勅語のために、国民が戦争に駆り立てられたというのが、戦後教育を受けた多くの人の見解だろう。しかし大阪市の塚本幼稚園(運営=森友学園)園児たちが教育勅語を暗唱していたのがテレビで放映されていたので驚いた。

▼そこで感激して涙を流していたのが、アベ総理夫人の昭恵さんだったのはさらに驚いた。しかも昭恵さんは、この学園の名誉校長だったとは三重の驚きだった。

▼さらに夫であるアベ総理も、森友学園の籠池理事を「私の考えに非常に共鳴している方といい、教育に関する熱意は素晴らしい」と絶賛しているのが、2017年2月17日の国会答弁だ。

▼これが「瑞穂の国記念小学院」の建設で、国有地の格安払い下げの「森友問題」につながっていくのは、順当な流れだろう。しかし籠池理事長一人を悪者にして、牢屋に閉じ込めてしまったのを、国民は間もなくやってくるだろう、憲法改正「国民投票」まで記憶すべきだ。

▼戦争に駆り立てた教育勅語、これが廃止されたのは。1948年(昭和23年)だ。代わって教育基本法が制定された。その年に「民主主義」という教科書が作られた。そこにこんな文章がある。

▼「がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。政府は教育の発達をできるだけ援助するべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。(中略)ことに政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想までを一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである」。(第14章民主主義の学び方)。

▼先日アベ総理は、次の国会に「憲法改正」を提出することを宣言した。さらにアベ総理は「憲法や教育基本法等に違反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と発言している。

▼2018年から小学校で、2019年から中学校で、「特別の教科」として「道徳の教科化」を実施する。この教科化が「憲法改正」と相まって何を目指すのかを、我々戦後教育で育った世代は、目を凝らして注視する責任を感じなければならない。

▼2017年3月の、防衛大学でのアベ総理の訓示だ。「諸君の規律正しく希望に満ちあふれた姿に接し、自衛隊の最高指揮官として心強くたいへん頼もしく思います。警戒監視や情報収集に当たる部隊は、私の目であり耳であります。最前線の現場にあって指揮をとる諸君と、最高指揮官である私との意思疎通の円滑さ、紐帯の強さが我が国の安全に直結し、日本の国益につながっています」。

▼私は、ヒットラーに扮したアベ総理が、白雪(昭和天皇の愛馬)の上にまたがっている姿を見たところで、昨日の夢から覚めたのだ。

▼寝床から起きるのが少し早かったので、昨夜読んだ「教育勅語と道徳教育」の続きを読んだ。2017年の4月の閣議決定の内容に、完全に目が覚めたのだ。

▼「ナチスドイツのヒットラーの自伝『我が闘争』の教材使用について、教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校施設置者の責任と判断で使用できる」とある。

▼なんとも勇ましすぎるアベ総理だ。とはいうが、今年の6月、ホワイトハウスでの日米通商交渉の冒頭で、トランプ大統領から「真珠湾攻撃は忘れないぞ」といわれたという。

▼とかく、自分ファースト流のジョークが好きな大統領だ。
その大統領と親友関係を自負するアベ総理なら、この程度のジョークは返してほしいものだ。

▼「そういうなら、8月6日も忘れないぞ!。8月9日もあるぞ!」と。・・・でも、そんなジョークで応酬すると「日本の米軍基地はすべて撤去するぞ!」という、地球規模のジョークが返ってきそうだ。

▼それを待っていましたとアベ総理が対応すると「道徳教育」が「教育勅語」に変身してしまう可能性も無きにしも非ずだ。

▼冗談はこの位にして「道徳教育の教科化」のその後の変化を、注意深く観察していきたいものだ。

知らないうちに準備されている

2018年08月29日 08時48分53秒 | えいこう語る

▼素直な心で過ごしたいが、アベ政権下ではなんだか素直になれない。総理自体が嘘をついている可能性が大きいからだ。それに、日米同盟があるとはいえとはいえ、世界で一番信用ができないトランプ大統領と、あまりにも親密なのがアベ総理だからだ。

▼世の中には、子供の頃心やさしいお坊ちゃんだったのに、なぜこんなにも変わってしまったのかという大人がいる。こんな例は、意外と?凶悪な事件を起こす者が多いような気がする。

▼我が国の総理に対し無礼だと思われるが、アベ総理も昔しお坊ちゃまだったのが「憲法改正」という国の基本秩序を変えようとしている、独裁者に変身しよううとしているようだ。

▼やはり長期政権はいけない。権力が集中し独裁となるからだ。独裁は自分の考えを押し通しやすい。反対者をつぶす力もついてくる。そうなると歴史に名を残す大事業を手掛けたくなるものだ。それを許すのが「独裁=一強」だからだ。

▼そんな状態に陥ると、国民は政府の方針に懐疑的な目を向けることになる。「国民主権」が崩壊されそうになるからだ。つまりアベ政権に批判的になるのは、民主主義を守るための「自衛権」ということか。

▼デモクラシーの語源は【市民の権力】だ。間接民主主義(議会制)を行っているため、国民の代表が「権力は我にあり」と勘違いしてしまうのだ。その間違いを正すのが「真の民主主義」なのだが、長い間の習慣は「おまかせ民主主義」と化しているのだ。

▼民主主義のおさらいはこの位にして、政府の行動をいちいち「検証」してみることが必要になっているを感じる。先日もブログに書いたのだが、私の所属する函館市町会連合会の総務部の主催で行った「コミュニティー・スクール」についての研修会だ。

▼学校と地域(町会)が協働して、子供にとって健全な地域社会を作ろうという政策だ。昔、先生たちは地域に住んでいた。だが車社会になると、地域外から通勤するようになった。

▼先生という知識層がいなくなった地域社会レベルは、やはり低下したのではないかと考えている。住民もモータリゼーションの普及で、地域社会(囲い込み社会)がボーダレス化してきた。

▼地域の商工業者の衰退は目に見え、地域のアイデンティテーは一気に崩壊していく。それに行政の対応は無力だったというのが、過疎に拍車をかけた最大の原因だろう。

▼「地方消滅論」?はこの辺で終了し「コミュニティー・スクール」の問題に戻る。森達也著「すべての戦争は自衛意識から始まる」を読んでいて、最終章で【教育改革国民会議】というのが出てきた。

▼この会議は、2000年の小渕内閣の時発足した、私的諮問会議だ。教育基本法の改正や奉仕活動の実施などを主としたものだ。その中に「コミュニティー・スクール」の記載がある。

▼「学校は道徳を教えることをためらわない」という、なんだか古めかしい文言もある。森氏によればこの会議の議事要旨には、こんな言葉が羅列されているという。

▼「子供を厳しく飼いならす」!「警察OBを学校に常駐させる」!「団地やマンションに床の間を作らせる」!などだ。なんだか「戦前回帰」の匂いが漂ってくる。「軍靴の足音」が聞こえるというよな、いやな気分もしてくる。

▼極めつけは、行政に対する指導だ。「ここで時代が変わった。変らないと日本が滅びるというようなことをアナウンスし、ショック療法を行う」という記述もあるという。

▼ここまでくると、政府の「学校現場で教育勅語は、教えても悪くないという」という言葉を思い出してしまう。アベ政権下での「秘密保護法」「集団的自衛権行使」などの様々な法案の強硬成立などを思い浮かべれば、国民が次期オリンピックに浮かされている中「戦前レジウムへの回帰」が、着々と準備されているようだ。

▼朝から、これ以上考えたくない今の我が国の現状だ。最後にアベ総理も参加している日本最大の「保守」「右翼」の団体である「日本会議」については、国会議員は「二百数十名」が参加しているということの報告で、皆さんご存じなので省略したい。

▼ただ「皇室中心主義」や「新憲法制定」などを求める【神道政治連盟国会議員懇談会】の会長はアベ総理だ。この会に所属する国会議員の総数も、自民党を中心に「300名」に近いという。

▼こんな団体が、自民党総裁選の「選挙部隊」なのだろう。

日本人にとってのふるまい方

2018年08月28日 08時24分36秒 | えいこう語る

▼死者に対し非礼なふるまい方ではないかと思うのが、沖縄県知事翁長氏の県民葬の日程だ。基地反対派としては知事選が行われる9月30日の前を望んでいたが「政治日程とは切り離し静かな環境で開催すべきだ」という“与野党”の意見が一致したようだ。

▼沖縄の米軍基地反対運動は、我が国の中で沖縄だけは戦争が終わっていないということだろう。沖縄は戦いの最中なのだ。その大将が戦場で倒れた。大将決戦の前に県民葬を行うのがベストのような気がする。

▼与野党の合意で10月9日になったのは、沖縄県民が基地問題では大きく揺さぶられているという証左なのだろう。翁長氏はその日程を、青い空の上でどのように思っているのだろうか。

▼日本人は世界に対しどんなふるまい方をしなければならないのかというのを、大江健三郎著「あいまいな日本の私」の中にみることができる。

▼「日本人がいちばん記憶しなきゃあいけないことは、広島や長崎でそういうことが行われたということです。核兵器は本当に人類を絶滅してしまうことが可能になった最初の手段です。日本人はそういうことがあらためて起こらないように、世界にいうべきじゃないか?それが日本人にとってのふるまい方ではないか」と。

▼沖縄は世界最強といわれる米軍基地だ。日本が憲法を改正し、戦争できる国になると、次に原爆が落とされるのは沖縄ではないだろうか。

▼そんなことを翁長氏が、基地闘争の中で一番懸念したことのように思う。県民葬の弔辞は、今年の慰霊祭で中学生相良倫子さんの「平和の詩」【生きる】これだけでいい。読むたびに魂が震える詩など、この他にはないからだ。

▼1994年12月7日、ストックホルムでのノーベル文学賞受章記念スピーチで、大江健三郎は先に文学賞を受賞した先輩の川端康成のスピーチ『美しい日本の私』に対し、こう反論する。

▼「近い過去においてその破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間として、私は川端と声をあわせて【美しい日本の私】ということはできません」。

▼アベシンゾウ著【美しい国へ】には「私はつねに“戦う政治家”でありたいと願っている。政治家とはここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家だ。しかし闇雲に戦うことではない。「スピーク・フォー・ジャパン」という国民の声に耳を澄ますことなのである」と。

▼アベ総理は、憲法ばかりではなく国語の理解力も低いようだし、ふるまい方もトランプ大統領に似てきたのではないだろうか。限りなく「あいまいな日米同盟」になってきたような気もする。

黙禱について考える

2018年08月26日 11時27分00秒 | えいこう語る

▼黙禱の機会は、少なくても年2度はある。8月15日は、戦没者へ黙禱してくださいとの放送が防災無線から流れ、サイレンが吹鳴される。この時は、戦没者に対するのと「二度と戦争はしない」という、私の中では不戦の誓いを新たにする黙禱だ。

▼8月15日は家で黙禱している人がいると思うが、外で立ち止まり、黙禱をしている人など見たこともない。人の心の中は覗けないが、果たしてどのくらいが黙禱しているのだろうか。

▼黙禱は高齢者に多いだろうが、若い人は戦争が終わった日というだけの思いではないだろうか。高校球児の黙禱も、
決められたことだから姿勢を正し目をつむるというだけで、試合中なら黙禱も試合のことだけを考えていやしないだろうかと思ったりもする。

▼私のもう一つの黙禱は『函館市町会連合会大会(8月)』での「町会関係物故者に対する黙禱」だ。だが名前を呼ぶわけではないので、誰に黙禱していいのかわからない。

▼00会長さん・00総務部長さんなどと、名前を読み上げれば、その人の顔が浮かび黙禱も対象がはっきりしてくる。そのことについて、大会が近づくたびに、私が質問を繰り返すらしい。

▼なぜかというと「黙禱の発声」は、3年前から私の担当だからだ。それに対する事務局の回答は「町会関係物故者すべてに対する黙禱するので、名前を読み上げると時間がかかりすぎる」という。

▼他の役員も「永年そうしてきたので、このままでいいのではないか」という。皆がそういうならそうしましょうという言うしかないが、心にわだかまるものだから、たぶん来年も言葉を変えて質問するに違いない。

▼だが、東大の名誉教授で、宗教学の島薗進著「愛国と信仰の構造」を読んでいたら、黙禱に対することが記載されていたのだ。

▼「東日本大震災後、黙禱の機会が多かった。大学の教授会でもよく黙禱した。8月15日の式典でもする。甲子園でも高校球児がする。それらは宗教的行為だと思う。しかしその礼拝対象は何かというと、よくわからない。つまり我々は死者の冥福を祈る時に、どのような言葉を思い浮かべているのでしょうか。その行為の目的を分かっている人もいると思います。霊が存在するとか、死者の魂が極楽浄土なり天国なりで形をとると考えている人もいるけど、そうでない人もいる。では、そういう人は、礼拝する必要がないかというと、そうではない。そういった時の行われる黙禱というのは、明確には言葉にできないけど「ふさわしい何か」と感じられているのですね。つまり黙禱とは特定の宗教には結びつかないにもかかわらず、何か超越的なものを願っているということが、例えば黙禱という形に現れているんではないでしょうか」。

▼分かったようで分からないのが「黙禱」のような気がする。私の疑問は、対象がはっきりしないことへの不安だが、
町会の参加者が何か超越的なものを願っているというものではない。

▼言葉にならない「ふさわしい何か」を黙禱する者に感じさせるような言葉を付け加えることが必要な気がする。というようなことを来年の会議で提案してみようかと思う。

▼東京大学宗教学者の島薗進氏がそう述べている、と前置きしてからだ。また同じことを繰り返すといわれるのを防ぐためだ。「東京大学の宗教学者」がという、盾を先に掲げてからだ。

▼そうなると、私の度重なる同じ発言は、新たな発言として捉えられそうだからだ。だが、島薗氏の考えは他の会長たちの理解は得られないに違いない。私も、他の会長に十分理解させるだけ、自信がないからだ。

▼結果「例年と同じくやりましょう」ということになるのは、間違いないような気がする。「しつこい奴」という印象を付けられないためにはどうするか。

▼「黙禱」について考えてみた、台風の影響が少なく、すがすがしい青空が広がる今朝だ。青空に向かい、31日の大会の総合司会として、スベらないことを祈りたい。