▼母校の中学校に呼ばれ、後輩たちに語ったことがある。そこで勉強することの意義を語ったが「悪いことをしないための判断力を身につけること」ということを話した記憶がある。
▼哲学者カントの教育論に「人間を悪いことをさせないように良いことに仕向けるというのが教育だ」というのがあるので、私の教育感もまんざらでもないようだ。しかし、私の過去を振り返れば「嘘も方便」という生き方もたくさん選択をしてきた。
▼自分に都合よく考え行動しなければ、生きずらかったというのも本音だ。臨機応変というのも、教育のなせる業の一つかもしれないなどと、自分の甘さを自戒してみたのも、今朝の新聞記事からだ。
▼2015年、茨城県取手市の中学校の3年の女子が、「いじめられたくない」という日記に書き残し、自宅で首を吊った。当初、学校や教育委員会は、生徒や保護者に自殺と伝えない方針を決めたという。
▼さらに16年には、いじめが確認できなかったとし、いじめ防止対策推進法が規定する「重大事項」に該当しないと議決したうえで、第三者委員会の設置を設けたが、この時に自殺があったことは認めたという。
▼自分たちの立場が、不利にならないよう隠ぺいする体質が、教育現場にもはびこっているというのは、教育者にあるまじき行為だ。報告する学校側も上部の教育委員会に配慮してのことだろうが、上部機関にも、いやしくも教育現場で、自殺などあってはならないという面子が、組織ぐるみの忖度を働かせた結果だろう。
▼この現象は、「加計学園問題」の文科省の「記憶にございません発言」や、どう考えても不自然だと思われる文科省職員の体質に、その源を見るようだ。文科省の体質がそうなので、教育委員会や学校までが「記憶喪失お遊戯会」を、真顔で演じるのだ。
▼このさらに大本は、アベ総理の「森友学園問題」や「加計学園問題」の国会答弁で、はっきり確認することができる。総理の隠ぺいは、中学生でも見抜ける事実だからだ。総理が次々変わる国も不安だが、長期政権の総理は、もっと不安だ。
▼憲法とは、国柄や国民性を規定する基本だ。だが、アベ総理の憲法の解釈は間違っていると、我が国の多くの憲法学者が指摘している。アベ総理は教育の真の目的から逸脱している人物なのだ。悪いことを悪いと理解できない総理なのだ。
▼アベ総理は、憲法改正とともに教育基本法の改正も視野に入れている。教育を変えなければ憲法改正しても、それが実効性を発揮できないからだ。アベ総理が考える道徳教育は、カントの教育観とは相容れぬものに違いない。私でもそう思うのは、憲法学者が総理の憲法観が間違っているというからだ。
▼我が国の、国会の最近の体たらくは、日本の教育に問題があるのではないかという疑問がわいてきた、今朝のいじめの記事だ