▼シリアの過激集団に拘束されたフリー・ジャーナリスト
安田純平さんが解放された。惨殺されず生き返ってきたことを素直に喜びたい。だが、メディアは「自己責任論」でかまびすしい。
▼国民的討論は歓迎するが、アベ政権が行なうとする「憲法改正」を、そちらに集中させてしまうメディアの方が、報道の自己責任を問われなければならない。メディアが今、最も国民世論を喚起をさせなければならないのは【憲法改正】についてだからだ。
▼安田さん問題を、2012年に提案された「自民党の憲法改正草案」と比較して考えてみたい。
▼現憲法には、人権は「公共の福祉に反しない限り」保障されるとあるが、改正案では「公益及び公の秩序」と改正されることになっている。
▼「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり「国家の秩序」というべきものではないか。そうすると改正案では、憲法で保障されている基本的人権は、制限されるのではないだろうかと心配になる。
▼人権が侵害されているか許される範囲かを判断するのは「裁判所」だ。だが、その裁判所がこの頃変だ。3:11の福島原発事故は、原発は人類と共存できないということが実証された。
▼にもかかわらず「裁判所」(函館地裁)が「基本的人権」や「公共の福祉」を尊重すれば、大間原発建設反対の市民に寄り添う判決が出てもおかしくないはずだが、国益を優先し原発容認に近い判決を出した。
▼現憲法下でも、国民に寄り添わない判決を出す裁判所。これが改憲され「公益や公の秩序」ばかり重んじるようになったら、問答無用の国益に沿う裁判所になってしまうのではないか。
▼安田さんの自己責任論が問われている。この程度はもちろん表現の自由の範囲だ。だがこの公平な表現の自由も「公益や公の秩序」の論理が優先されると、安田さんの人権は相当軽視されるのではないか。
▼【憲法第97条】『この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことできない永久の権利として信託されたものである』。
▼だが、改正案では「97条」がすべて“削除”されているという。これにはアベ政権のどんな思惑が隠されているのだろうか。
▼「過去の幾多の試練」とは、過去の戦争による国民の犠牲である。その試練に堪えたので、基本的人権は侵すことできない永久の権利だと明記しているのだ。
▼アベ政権での憲法改正は「戦争ができる国」へとの改正だ。そうだとすれば、この条項の主旨は戦争を放棄したために与えられた基本的人権なので、改正憲法にとっては邪魔になる条項だから、全面削除したと私は邪推するのだ。
▼相変わらず話があらぬ方向へといってしまいそうなので
「安田さんの自己責任」について、私の考えを述べたい。現憲法下では安田さんの人権は保障されるが、改正憲法では、安田さんの人権は軽んじられるということだ。
▼たぶん、行方不明者ぐらいに扱われて、歯牙にもかけられないかもしれない。そうでなければ「戦争ができる国」には決してなれないからだ。
▼【憲法第9条】の改正とは、他国や自国民の人権や犠牲など、そんなちっぽけなことを考えては、国民の生命・身体・財産の保全などという国防は、成り立たないということだ。
▼「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めるために、日本国憲法を全面的に改正しなければならない」というのが、第4次アベ内閣の最大目的なのだから。
▼フリー・ジャーナリスト安田純平さんが、命の危険を冒して世界の人々に伝えたかったのは、戦争は基本的人権を根底から否定するという、ことだったのではないかと私は考えるのだが。