▼9月29日の午後6時、私は函館市教育委員会の会議に出席するため、市内を車で走行していた。
▼街並みに落ちてきそうな巨大な月が、身近に見える。満月の中秋の名月だ。この一体感が次にやってくるのは7年後だという。その時は月の中から、故郷を見ているのかもしれないと、ふと思う。
▼巨大でロマンチックな月に見惚れながら、大好きな港函館を安全運転に心がけて会場に向かった。
▼【多くの人々が「どうもおかしい」と感じながらも、それらを明確に把握できない。教育に批判力を失いつつあるように見える。批判性という武器を手放さず、実体論より「べき論」や印象論に傾きがちな教育論争にも巻き込まれず、人々が「どうもおかしい」と感じる問題が見つかる限り、手を休めずに戦う。それだけ教育現場の魔力は手強いということだ】。東大教育学研究科教授・刈谷剛彦の発言だ。
▼昨日の教育委員会の会議の内容が、刈谷教授の発言を売らずけるような内容だったので、帰宅してから教授の著書である「なぜ教育論争は不毛なのか」中公新書を読み返してみた。
▼この本はなんと20年前の出版だ。にもかかわらず、現在の教育現場もそれ同様、いやそれ以上の現状のようだ。
▼この会議には委員15名の中に、学識経験者という教育現場の方が6人いる。あとはPTAや各団体からの参集だ。
▼私が参加して1年。会議がやはり専門家である学識経験者のリードで進むきらいがあるのを感じる。その雰囲気が「どうもおかしい」と感じるのだ。
▼「地方行政の組織及び運営に関する法律第26条第1項」は、毎年教育委員会の事務及び執行の状況について、点検・評価を行い、その結果を議会に報告するとある。
▼これに事務次官の通達があり、各教育委員会において‟自ら点検及び評価を行い”その結果を議会に報告する場合、学識経験者から意見を聴取する機会を設けるなど‟各教育委員会の判断”で適切に対応することとある。
▼この通達で私は「どうもおかしい」と感じることがある。まずは教育委員会自体が自分たちの事務や執行状態を点検・評価を行う事ができるということだ。
▼自分の仕事を自分で評価するというのは、常識的に考えて「どうもおかしい」。それを私が初めて出席した会議で指摘した。
▼事務局の説明では法律でそう決まっているからだという。条文と通達を見てもそう理解はできる。だが自分たちのことを自分たちが評価するのは「どうもおかしい」との気持ちはぬぐえない。
▼さらに事務局は、函館市のこの会議の運営要綱には、15名の委員を「点検評価部会」9名と「学校編成部会」6名に分けて組織するとあるという。
▼だから9名の点検評価部会で評価したものを、最終的には15名で審査するということだという。その最終審査で私の意見を述べると、部会で審査したので、意見はいらないという。「どうもおかしい」ではないか。
▼知り合いの市会議員にそのことを尋ねたら、以前「点検・評価」が議会に提出されたので、その評価が甘いのではないかと発言したら、部会で適正に評価された結果だからということを言われたという。その議員も「どうもおかしい」と感じたようだ。
▼昨日の会議は、新たな会長と副会長の選任だけだった。新会長が就任の挨拶が終え、他に何かあるかと尋ねた。
▼そこで私は新会長に「点検評価部会だけで行えば、他の人たちが教育行政全体を理解できないので、15人全員で評価に参加できないかという」意見を出した。
▼会長は規則があるので、それを変えることは議会に図らなければならないので、今まで通りでお願いしたいという。
▼そこに学識経験者という一人の人物が、私を「批判ばかりする」だと決めつけ、それは自分たちの評価を否定することではないかと気色ばんだ。
▼しばし、二人だけのバトルが続いた。私は自分の思いの丈を十分に述べた。そうでなければ、イエスマンの会議となってしまうからだ。
▼私はその会議に選ばれた委員であって、市民のレベルで「どうもおかしい」と思ったので意見を述べたのだ。
▼それを学識経験者というポジションの人が、私の意見を批判ばかりと言った。この会議に批判する者は、私一人だという排除の論法だ。
▼ここまで話せば、もうほかの人も私の意見を十分汲んでもらえたと思い、矛を収めた。新会長とてこの会議の矛盾に気が付いたはずだからだと、私は納得した。ここが私の軟弱なところかもしれないが。
▼第26条の市民の代表の議会に報告するという条文改正について、自治六法の解説にはこう記載されていた。
▼【教育委員会活動の形骸化などの批判を受け、教育委員会体制の整備充実の一環として、教育委員会の説明責任を果たすことを期待している】とある。
▼活動の形骸化が指摘されていたことによる、議会報告の改正だが、別に函館市の教育委員会のこの会議の運営要綱に、学識経験者9名による「点検評価部会」の設置を記載した。
▼この9名には学校の校長が多い。学校を管理する側の評価を、管理される側がすること自体無理がある。つまり、教育委員会の自己評価を、厳しく評価する存在ではないからだ。
▼このことが形骸化と言われるのではないかと、私は市民目線で考える。さすがそこまでは発言しなかったが、良識ある学識経験者であれば、その辺りは十分に理解しているはずだ。
▼家に帰り20年前の刈谷東大教育教授の著書「なぜ教育論争は不毛なのか」を読み返してみた。
▼繰り返すが【教育に批判力が失いつつある。人々が「どうもおかしい」と感じる問題が見つかる限り、手を休めずに戦う。それだけ教育現場の魔力は手強いということだ】と、刈谷教授が指摘している。
▼函館市は人口が減少し出生率も低下し、学校の統廃合も行われている。全国の中核都市の中でも幸福度が最低クラスだともいわれている。
▼だが全国一魅力あるまちに選ばれる。哲学者プラトンの言葉を思い出す。「教育とは健全な人間と健全な地域をつくることだ」と。
▼プラトンの言説を借りれば、現在の函館市は市民から見て健全な地域とは言えない状態だ。だが、私と討論した学識経験者は、この会議はここに提出される問題だけを審議すればいいだけで、国家がどうの、社会環境がどうのということは必要ないと強調した。多分興奮したせいではないかと思う。
▼今日のブログは、ちょっぴり愚痴も混ざり長くなってしまった。帰宅途中の中秋の名月。地上の些細な出来事など笑い飛ばすような、大らかな顔をしていた。