▼日常会話にも随分外国語が多くなった。年齢的にもついてけない気分だ。それに長い間田舎暮らしをているので、自分が話している日本語も、正しいのか自信が持てない。
▼世代間で話が通じないと言われて久しいが、この頃の若者会話に、田舎爺は全くついていけない。
▼今時の若者と、戦後間もない頃の私とは、時代背景が違いすぎる。その差が会話が伝わらない大きな理由だと思う。
▼例えば「情緒」なる言葉を、今の若者は私と同じ理解ができるのかと不安になる。だが日本に観光に訪れる外国人は、富士山や桜を見て「ジョウチョ」という概念を、理解している感じがする。
▼感性が豊かな今の若者たちなので「情緒」というより「ジョウチョ」という感覚で、対象を理解しているのかもしれない。
▼先日21歳の女性と会話して驚いた。「花見に行ったの」という私の問いに「1週間ほど前に行ってきたが、満開でとってもきれいだった。でもその後雨が降り、すっかり花が落ちてもう終わりです。あっという間ですね」という。
▼そこで私は「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」という、詩があるということを伝えた。
▼漢詩の「勧酒」という詩を、井伏鱒二が名訳したしたものだ、というぐらいのことを説明した。それに対し彼女の言葉だ。
▼「素晴らしい詩ですね。そんな言葉を知っているかどうかで、桜に対する見方も違ってきますね」という。21歳の女性が、田舎親爺のちょっぴり知ったかぶりの会話に、きちんと反応してくれた。
▼彼女の素直な感性に、散り終えた桜の老木が、満開に咲き誇ったというような感じがした。75歳の老木の私も、急に若返ったような気分になった。
▼若者とも恐れずに会話することにし、若者の素直な感性に触れなければと実感した。田舎の山々は、セピア色から新緑に変わり始めた。2024年の輝かしい春だ。