函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

ラッスンゴレライ

2015年02月28日 06時53分45秒 | えいこう語る

▼ 「戦争は政治の継続である」この点からいえば、戦争とは政治であり、戦争そのものが政治的性質をもった行動であって、昔から政治性をおびない戦争は無かった。政治が一定の段階まで発展して、もうそれ以上従来どおりには前進できなくなると、政治の途上によこたわる障害を一掃するために戦争が勃発する。障害が一掃され、政治目的が達成されれば、戦争は終る。障害がすっかり一掃されないうちは、目的をつらぬくために、戦争は依然として継続されるべきである。したがって、政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるといえる。

▼ この文章は、1936年に書かれたものである。今の時代にも当てはまる内容だ。米国が戦争を続ける理由が理解できるし、我が国がなぜ戦争する国へと舵を切るのか、その理由もわかるような気がする。

▼ 3:11東日本大震災。私たちは文明社会の発展の陰に潜む恐怖を、確かに実感したはずだ。それは、文明社会が限界に来たのではないかという自覚だ。「罰が当たった」と称した政治家もいた。我が国は、政治的にも経済的にも、限界が来たのではないかという、漠然とした思いを国民が感じたはずだ。それを一掃しようとするのが、アベ総理の考える「戦後レジュームの解体」なのだろう。

▼ アベ総理を賢明と思う国民は少ないはずだ。アベ総理の高支持率は、アベノミクスという和風英語に、気分が上昇した中央の人たちの、浮動票のようなものではないかと考える。「ええじゃないか政治」のようなものだ。実は、アベ総理は「行き詰まっている」のではないだろうか。もはや、戦争にしか、それらを解決する手段を見出せないでいるのではないだろうか。

▼ その理由が、アベ内閣の組閣に現れているようだ。自分を諌めるような人物を除き、秋波を送る人物を陣営に組み込んだのだ。大臣という名に、有頂天になる脇の甘い顔ぶればかりだ。すでに7人の閣僚が、政治資金規正法違反状態だ。オブチさんなどは、お金の計算ができない町娘だ。近所にいそうな、TPPおじさんも同様だ。だが、アベ政権が目指す、戦争をする国にするためには、なんといっても幼年教育の強化が必要だ。その先鋒に立つ、シモムラ文科相までが、馬脚を現した。

▼ 4月の統一選挙、その結果がどう出るか、日本国民が問われる選挙になるだろう。と、いつも選挙の時に言われるが、結果は現状維持だ。でもこの政権だけは、ダメだ。なんといわれようともダメなものは、ダメだ。

▼ 高齢化社会に突入し、国民のおおかたが認知症にかかっているといわれる我が国。つい最近発表された、流行語大賞を覚えているだろうか。・・・「集団的自衛権・ダメヨ・ダメ・ダメ」だ。

▼ 「ちょ・ちょ・ちょ・ちょ・ちょと待って、お兄さん。ラッスンゴレライ、なんですの。意味説明してよ!・・・アベ・アベ・アベ・アベ、アベのミックス。政治とカネがミックスし、泥にまみれた政権で、泥舟沈んでしまうこと。

▼一度やってみたかった、今流行の「ラッスンゴレライ」です。朝から無粋な個人芸、失礼いたしました。


日本国憲法とサムエル・ウルマン

2015年02月27日 10時11分40秒 | えいこう語る

▼サムエル・ウルマン(1840~1924)は、ドイツで生まれで米国育ちの詩人だ。彼の「青春」という詩は、世界中で賞賛されているに違いない。私も胸を熱くした一人だ。長い詩なので暗記はできないので、私流に短くし、会合での挨拶の時に披露することがある。勇気が出て、魂が浄化される詩だからだ。

▼ 青春とは人生のある時期のことではなく、心の持ちかたを言う。たくましい意志、すぐれた創造力、炎える情熱をさす。小心さを圧倒する勇気、易きに付きたがる心を叱咤する冒険への希求、人は歳月を重ねて老いるのではない、理想を失った時に老いるのだ。

▼ 理想といえば、昭和22年施行の日本国憲法の前文にもこの字句が記してある。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とある。さらに前文の最後にも「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とある。つまり、日本国憲法とは、理想を持ち続けることだと、国民に主張しているのだ。

▼ さらに、その後に施行された教育基本法だ。この前文にも「我々は、先に、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本的において教育の力を待つべきものである」と。つまり憲法の理想を実現するためには、教育基本法も理想を大切にし、その実現に寄与せよということだ。

▼ ウルマンの詩には、20歳であろうとも理想を失ったときには老いるし、理想を失わないものは、80歳でも青春だとある。マッカーサー元帥の日本の執務室に飾られていたという、この「青春」の詩。元帥に11回も逢っている昭和天皇も、この詩を紹介させられていると思う。「戦争放棄を理想とする、憲法を大事にしてくれ」と、私が元帥なら悩みに悩んできた天皇に、そう教えたに違いないからだ。アベ総理も、この詩は知っていると思うが、詩の理解力に欠けているのだ。

▼ 理想を貫くことが日本国憲法の主旨であり、教育基本法の主旨でもある。それなのに、双方70歳にも満たないのに、改正しようとするからだ。主旨を大幅に改正し、憲法や教育基本法から理想を失わせるのは、もはや、わが国の憲法は、老いて死を待つのみではないか。

▼私が野党の議員で、国会質問に立ってこうのべる。サミエル・ウルマンの「青春」を朗読し「日本国憲法から理想を失えば、この国は急速に老いるだけだ」と、告げたい。今晩の夢は、国会質問のこの場面だ。私は第3次アベ内閣から、夢も予約できるようになってしまったのだ。


忘れさせられてはならない

2015年02月26日 11時03分50秒 | えいこう語る

▼ 2月も、もう終わりだ。イスラム国の人質事件はいつだったか覚えていない。ちょっと前までは、戦争をする国へ加速する大事件の一つだったのにだ。国会もマスコミも、この事件は神隠しにしてしまったような静けさだ。さらに、つい先日、国会では首相がヤジを飛ばした事件でもめていたと思ったら、西川農水大臣の政治献金をめぐる辞職事件に、世の中の注目が移る。そういえば、小渕・松島議員の政治献金問題もすっかり忘れていたが、西川さんが思い出させてくれたということになる。

▼ 私の記憶が、年齢と共に弱まっていることは自覚するが、今の日本、忍者が復活したように、世の中が煙に巻かれているような気がする。もっと大事なことも忘れていた。オリンピック招致に、アベ総理が世界についた嘘だ。「福島第一原発事故の汚染水は、完全にコントロールされています」というあの場面だ。「STAP細胞はあります」という、小保方さんを思い出してしまう。

▼ 小保方さんは職場を辞め、損害賠償まで要求されそうなところまで来ている。アベ総理はヤジどころの話ではない。「アベノミクス」に「ウソモミクス」しているのだ。

福島原発事故の汚染水保管タンクが、数え切れぬだけ増え続けている。誰が見たって異常な処理方法だ。夜中にこっそり、汚染水を海に流しているのではないかと、私は邪推している。広大な太平洋で、かつて核保有国が核実験を行ったのだ。汚染水などそれに比べたら、被害などほとんどないに等しい。東電幹部ならそう考えたくもなるのではないかと。

▼ 昨日、また汚染水事故が起きた。アベ総理は「あの時点では完全にコントロールされていた」と開き直るのだろう。汚染水や人質事件など、物の数ではないのだ。戦後総決算を今年中に済ませなければならないからだ。総理の椅子なんて、いつはずされるかわからないからだ。70年談話も、有識者懇談会に任せると思っていたら、総理自ら、5つの論点を述べた。それに対し、座長は「我々の考えを、必ず首相談話に入れる入れないと、指示するつもりはない」といい、副座長は「首相談話は政治レベルでつくられる」と述べている。

▼ これって、自分たちは意見を出し合うだけで、後は総理が決めるという、責任回避の早々の表明ではないか。竹下内閣時の「ふるさと創生資金」。私の村では、住民みんなで考えてといわれ、懇談会を持ち答申したら「議会が賛成しなかった」といい、却下したことがある。そんなことをふと思い出したのだ。この懇談会のメンバーなら、相当な謝礼を払うに違いないだろうな。

▼ こんな五里霧中の我が国にあって、北海道知事選は「はるみ知事VSのりゆきさん」の一騎打ちになってきたようだ。

「原発推進VS脱原発」の、わかりやすい対決になれば、北海道から晴れ間が見えるかもしれない。国側も沖縄と同様、補助金がらみの選挙対策に出るに違いない。

▼ そんな杞憂する記事が、今朝の北海道新聞に載っている。JR日高線の早期復旧を沿線7町長が要望したという。国への働きかけも強化するが、地元負担は考えていないと明言している。はるみ知事支持の町村衆議員議長の声が聞こえるようだ。「復旧させる代わりに、原発推進派のはるみ知事を」という、ささやきだ。

▼ 1968年(昭和43年)の十勝沖地震。下北半島の大湊・大畑線が被害を受け、廃線の危機に追い込まれた。生命線の維持のため、当時の革新系だった村田大畑町長は、自ら自民党に入党した。それに呼応し、町役場の幹部、24人の町会議員、商工会、農協、漁協、一般町民など、700人が自民党員となり、党員として政府や国鉄に働きかけて、開通させた。

▼ 時代が違っていても、過疎地の悩みは同じだ。町長の思いも今も昔も変わっていないようだ。私は、最近のことを忘れがちだが、昔のことを思い出すタイプのようだ。

▼「過去に目を閉ざすものは未来に盲目になる」といえば心強いが「過去を忘れず現在を忘れる」とは、認知症の初期段階ではないかと自己診断する。せめて、大事なものは忘れさせられないよう、気をつけなくてはいけないと思う、アベ政権下の今日この頃だ。


象徴について考える

2015年02月25日 09時53分50秒 | えいこう語る

▼ 横綱・白鵬が、同体ではないかと物言いがつき、取り直しになった一番に「小学生が見てもわかる勝負だ」と審査部にヤジを飛ばしている。私はその一番を見ていたが、長い相撲観戦暦からみて、取り直しが妥当だと思った。昔から、取り直しには、二度見られるおまけに、みんなが喜んだものだ。

▼ 戦っている本人にとっては大変だろうが、それも相撲の醍醐味の一つだ。それに片手に持てないほどの懸賞金を、これ見よがしに突き出す白鵬の態度に、横綱としての品格に欠ける、やはり外人はダメだという声が上がる。私もテレビに向かい「品格にかけるぞ」と、ヤジを飛ばしている相撲フアンの一人だ。

▼ 白鵬のそんな態度を批判すると、人種差別ではないか、感情を素直に表わして何が悪いのだと言う意見もある。相撲は国技だ。「郷に入っては郷に従え」。ダメなものはダメなのだというのが、普段の私の考えとはちょっぴり矛盾するが、私の大相撲への日本人的判断だ。

▼ 普段強気の協会も、この偉大な横綱に対しては、特別扱いのようだ。でも、これほど日本人の相撲取りが弱ければ、日本人の「おくゆかしさ」というような伝統さえ、守りきれなくなるのではないかと心配する。半世紀以上も相撲フアンの私は、大げさに思われるが、相撲観戦をよそうかどうかの所まで、追い込まれているのだ。

▼ 国技も廃れると思っていたら、国会までが変だ。アベ総理までがヤジを飛ばしているのだ。気の利いたヤジならその場を和ませるが、総理のは、根も葉もないウソのヤジだから、開いた口がふさがらない。さらに謝らないときているから、白鵬と同じだ。この程度のヤジで、何が悪いかというような態度だ。こうなれば国会中継も、アベ総理が座から降りるまで見ないでおこうと思ったりもする。

▼ 昔し,或る大臣が「我が国は米国の番犬ではないか」と発言した。「番犬とは何だ」とヤジが飛んだ。すかさず「お犬様です」と言い返し、満場の笑いを誘ったという。こんなウイット溢れる国会なら、かぶりつきで見たくなるというものだ。

▼ 私は一体何をいいたいのか、自分でもよくわからなくなってきた。辛うじて徳俵に足を踏ん張った状態で考えてみると、国技も国会も体をなさなくなってきたということではないか。つまり、日本を代表する人物の心・技・体が揺らいでいるということだ。こんな状態が続くと、国体護持の精神が国民の中に湧いてきそうな気がするのだ。ここまで来ると、国を憂うための妄想に近い私の感情になる。

▼ 集団的自衛権の発動には、関連法案をいくつも成立させなければならないようだ。アベ総理の脳みそには、ついでに「不敬罪復活」なんていうのも視野に入っているのかもしれないと思う。そんな気がする、この頃のアベ総理の傍若無人ぶりだ。

▼ 日本国憲法第1条は、国民統合の象徴が天皇だという。今まで、その意味を真剣に考えることもなかったが、相撲界の象徴も、国会の象徴も国民の信頼を得なくなった現在、国民統合の象徴の存在意義が極めて重要になってくるのではないかと思う。戦後70年、「我が国の象徴について考える」、そんな時代に入ったのかと思ったりもする。

▼アベ総理が今夏発表する、戦後70年に向けての談話作成の、有識者懇談会のメンバーも発表された。アベシンパが多いような気がする。「象徴」について、私たちもじっくり考えてみるこの頃ではないかと思ったりもする、今日の、曖昧な日本の曖昧な私のブログだ。


身近な出来事

2015年02月23日 10時41分59秒 | えいこう語る

▼函館水産高校の練習船で、実習に参加していた学生がハワイ沖で海に落ちた事件が報道されている。この高校は私の父の母校だ。地域の若者にも出身者は大勢いる。しかも、現在の校長は私の村の出身者だ。さらに、その兄が私の同級生だ。そんな中で、毎日報道されている記事を注視しているが、ほとんど内容は同じで、新たな展開がない。関係者にとっては、いたたまれない気持ちではないかと、私自身も心が穏やかではない。

▼ イスラム国人質事件も、イスラム国側の要求だけが伝えられ、それに対しどんな対応をしたのか知らされていない。結果は、二人の人質が殺害されたということだ。東日本大震災もすでに風化のおそれがある。周囲では最近ほとんど話題にならないからだ。人質事件だって、テロとの戦いを声高に叫びさえすれば、各国でもテロの犠牲者が多いので、二人ぐらいは仕方がないのか、という気分になるのではないだろうか。

▼ 口に出してはいけないと思いつつ、ハワイ沖での出来事に事件性はないのかと考えてしまう。随分前だが、海外で操業する船員から聞いた話だ。海中転落は長い間の航海でのストレスで、事件性がたぶんにあるという。それが、脳裏から離れないからだ。海中転落すれば遺体は見つからない。その後は何もなかったかのような、日常にもどってしまうそうだ。神隠しのような雰囲気なのだろう。

▼ この記事には、高校生(16歳)とあるだけで、名前が記されていない。同時期に起こった、川崎での中学生殺人事件は、被害者の名前も写真も掲載されている。この報道の違いはなんなのか。狭い函館管内である。すでに名前は知れ渡っているはずだ。それでも名前を伏せなければならないのは、事件性の可能性があるという報道側の見方なのだろうか。多分、よくわからないままこの一件は、忘れ去るような気がする。

▼ いずれにせよ、私の中で整理はできてないが、事なかれ主義が見え隠れしないような、報道の姿勢であって欲しいというのが、今の私の思いだ。

▼ もう一つだが、与那国島での自衛隊基地設置をめぐる住民投票だ。中国の脅威に備えるというものだが、自衛隊を置くと戦闘基地になる可能性は大だ。住民投票と同時期に、日米の軍事訓練がカリフォルニアで行われている。その訓練内容は離島防衛を主としたものだ。その訓練後、米軍の水陸両用車「AAV7」52両を購入すると発表した。軍次訓練という名のセールス活動ではないか。この車両は、後部座席に21人乗車できるというから、相当な金額になるだろう。

▼ この購入に事実も、すでにマスコミはキャッチしていたに違いない。与那国の選挙前に、このような報道がされ、島民の判断材料にされることが、今のマスコミの最大使命のように思う。事実の公開は、マスコミの命だ。自らが規制するようでは、国民も判断を誤るのだ。

▼ 一見何気ない記事も見逃せないのが、今のアベ政権だ。こんな政権に憲法改正を任せたら、来年にも実施とされる「国民投票」も、危険な状態になるのだろう。そろそろ私たちの日常会話も「九条」の話が、頻繁に出てくるようでなければならないようだ。そうでなければ与那国島の住民投票のような、国民投票になってしまいそうだからだ。

▼ウクライナのおばあさんの叫びのように「第2次大戦を経験したのに、また戦争に巻き込まれるなんて」という言葉を、私たちは胸に刻み込まなければならない。おばあさんの魂の叫びは、ヴァイツゼッカー・ドイツ元大統領の演説に匹敵するものだと思うのだけど。