函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

関電と電通と五輪と軍備

2020年03月31日 14時38分22秒 | えいこう語る

▼関西電力の高浜原発と、高浜町元助役森山栄治をめぐる、闇金問題は、まるで時代劇の悪代官や大店との関連の劇を、現代に再現したようだった。そこには大勢の国会議員も絡んでいると思っているが、その後の報道はあまり聞こえてこない。やはり江戸時代の話かと、人々の記憶から遠ざかっているようだ。

▼電力会社の経営システムは【総括原価方式】と呼ばれるもので、建設から人件費や事故の復旧経費に至るまでの金額は、消費者からの電気料金で成り立っているものだというのが、東京電力の福島第一原発事故で、はじめて知った。

▼「情報公開」が大事だといわれるが、この国の大事な情報は【未公開】が常識のようだ。情報公開で請求を行うと「真っ黒」になった書類が提出されるからだ。

▼国民は「情報公開法」があるというだけで安心しているようだ。しかし、国や電力会社の「安全・安心」とは、嘘だということが、福島第一原発で立証されているはずではないか。

▼今後大自然災害が発生する確率が高くなったと言われているのに、原発を再稼働する政府。こんなことで、コロナウイルス対策は、まじめにやるのだろうかと心配になる。「とりあえず生活資金00万円、その後状況に応じて00万円を支給する」などという言葉さえ聞こえてこない。

▼こんな「けちな国」だから、コロナウイルスも拡大するのだと考えてしまう。だが、原発には莫大なお金をかけるし、米国からは百数十機もの戦闘機を購入する。「戦闘機を買うな」という議員の声は、国会で封鎖されているようだ。

▼関電問題から、日本の政府のお金の使い道は「なっていない」と考えていたら、電通に、五輪招致委員会から【9億円】もの資金が渡され、招致のための買収工作に使われていたという記事が目に付いた。

▼「9億円」で五輪開催なら安いものではないか、と言われればそうかも知れない。電通の元専務の高橋治行が担当だったらしい。これって「関西電力」の、高浜町元助役と同じ構図ではないか。

▼私は20代の頃、電通の某支社に営業に出かけたことがある。その時「電通」というのは、電力会社だと思っていた。だから「関電」と「電通」が【電】つながりになってしまうのだ。

▼「原発」と「電通」と「五輪」と「軍事」は、巨額な金が動いているようだ。どちらも必要だと言いくるめることで、税金が湯水のように使われている。それなら「不要不急」の外出制限で、生活苦に陥っている国民に、なぜ速やかな手立てを打たないかと、疑問視する。

▼電通は1984年のロス五輪から、スポーツイベントに力を入れている。今回の東京五輪も、ほとんど「電通」に依頼しているのだろう。どれほどのお金がつぎ込まれているかは、森元総理が大会委員長なので、正確な「情報公開」など、期待はできない。

▼電通には、有名な「鬼十則」という社則があった。その5番目「取り組んだら放すな、殺されても放すな。目的を完遂するまで」というのがある。「お・も・て・な・し」という言葉も「汚染水は完全にコントロールされている」という言葉も、電通の五輪招致のための、キャッチコピーかもしれない。

▼ふと気が付いたが、五輪というのは「金・銀・銅」の争いだ。このメダル、貨幣の原料ではないか。ということは「スポーツの祭典」というより「経済の祭典」という理解の方が適切のようだ。

▼そう思ったら、なおさら五輪への期待が減退してきた。「コロナ戦争」の対応は、どうやら我が国が【国家主権】か【国民主権】か、どちらに向かうかの判断ができる「分岐点の年」であることを、自覚しなけれなならないようだ。その判断の山が「緊急事態宣言」に違いない。

▼庭の木々も山の色も若葉に萌えれば、自然に浄化されコロナウイルスも死滅するかもしれない。しかし、黄砂に乗って、コロナが大量に侵略するかもしれない。

▼しかし私は、まもなく「コロナ戦争」は、終わるだろうと思う。日毎に春めく北海道の大きな青空に、白い雲が「コロナショウメツ」と書いているのが見えたからだ。

志村けんさんの死で「愛国心」について考える

2020年03月31日 14時38分22秒 | えいこう語る
▼団塊世代生まれの私が、お笑いを意識したのは「クレージキャッツ」だ。メンバーはそれぞれスーツを着て楽器を鳴らし、笑いのセンスの良さが出ていた。それは、戦後米国風の「かっこよさ」を取り入れたからだろう。

▼私もよくジョークを発する。今は「オヤジ・ギャグ」と言われるが、自分ではよく練り込んだ、相当高度のギャグ?だと、思っている。理解できない方が、センスがないなどと自負している。

▼ハイセンス?の部類のものは、理解しているかいないかは、目で判断できる。理解している目は「おぬしやるな」と言っている。いかにひねったジョークでも、通じない時は「お呼びでない・・・こりゃまた失礼いたしました」と心でつぶやく。だから私の笑いのセンス?は、「クレージキャッツ派」に属する。

▼志村けんさんが亡くなった。それも流行りの「新型コロナウイルス」でだ。国民にお別れのギャグもいえないうちに世を去った。「ドリフターズ派」でなかった私でも、なんだか気が抜けた感じだ。

▼大衆向けの笑いに徹した功績の大きさを、今になって実感しているからだろう。強烈な感染ウイルスなので、身内の人の面会もないまま、火葬場へ行くそうだ。「志村けんの葬式」という最期の舞台に、観客が一人もいないのは、あまりにも寂しい。

▼純白のマフラーをなびかせ、特攻機に乗る志村さん。「大丈夫だー」と、見送る人々に笑顔をふりまいて「戦艦コロナウイルス」へ向かっての出撃だ。そんな、喜劇役が悲劇役を演じる最期の舞台を思い浮かべている。

▼話題を変えたい。2014年9月の私のブログに「右翼と左翼」というのがある。その月の北海道新聞に掲載された、右翼団体「一水会」代表の鈴木邦男の記事について、書いたものだ。鈴木は右翼でありながら、以前テレビで「天皇の批判はどんなにしてもいい」と言ったので、それから気に留めていた人物だ。

▼その時の新聞に、鈴木は【言論の自由がどんどん狭まっているなら、自由のある押し付け憲法の方がいい】と言ったを、私のブログが取り上げている。

▼それから6年後、鈴木は今の世に対する風潮を述べたものを、北海道新聞論説委員の辻岡英信が、3月29日の「異聞風聞」に書いている。

▼要約すればこうだ。【愛は総じてすばらしいが、愛国心は為政者などに利用され、外国への憎しみを煽って、外国人を排除し、戦争を賛美する道具にもなる。アベシンゾウは2006年の「改正教育基本法」の中に『我が国と郷土を愛する』との文言を盛り込んだ。「森友問題」「桜を見る会」「検事長の定年問題」等、まともに責任をとらないアベ総理がだ。森友問題で自殺した官僚は『なんて世の中だ』と遺書を残した。憲政史上最長を極め、異論を封鎖し、国の行政を私物化した首相として記憶されるべきだろう。さらに『愛国心は美しい花だ、しかし、毒を持っている。それに「五輪」の華やかさが加わった時、改憲は歩みを進める』と。】

▼現在の左翼勢力の眼力は、完全に曇っているように思う。右翼勢力には、今のアベ政権が目指すものははっきり見えてきているから、計画(策略)が組みやすい。アベ政権の長期化は、同時に「国民の右傾化」につながっているようだ。

▼五輪の延期で、五輪はスポーツの「政治利用の道具」であることがはっきりしてきた。1964年の東京五輪、私は高校生だった。テレビに向かい「日本ガンバレ!」と叫んでいた。だが、2020年の東京五輪への期待感は薄い。

▼その理由について、以前から友人とも話していたが、右翼の鈴木邦男の言葉が、その理由を整理してくれた。もう一度繰り返す。【愛国心は美しい花だ。しかし毒を持っている。それに五輪の華やかさが加わったとき、改憲は歩みを速める】。この言葉が、五輪の本来の魅力から私を遠ざけているのだ。

▼再び志村けんさんが、特攻機に乗った姿を思い浮かべる。「大丈夫だー」というのは、言論の自由がなくならないような、笑い溢れる社会であれば、日本は【大丈夫だー】という、国民へのメッセ―ジではないかと、私は今気付いている。

▼東京五輪は「アスリートと国民」の側に立ったものでなければならない。「政治ファースト」の五輪は、改憲への加速なのだ。

▼「2021年東京五輪」。開催時には「森と安倍」のコンビは、解消していてほしい。森は以前「我が国は神の国」と言ったことがあるし、アベが言う「美しい国へ」というのも「美しい神の国へ」という意味だからだ。

▼そこに共通している「神の国」というものを【愛国心】というものの『涵養』で、成り立たせようとしているからだ。それがアベ政権下の【道徳教育】の中に潜んでいるというのは、私の思い過ごしだろうか。

▼志村けんさんの遺言は、笑いが絶えな【大丈夫な国】にしてほしいということだと、私は受け止めたい。『喜劇の反対は悲劇』だ。もちろん「悲劇」より「喜劇」がいいのは、誰もが知っている。志村さんの死で、妙に【9条】のありがたさを実感している。        
                 志村さんさようなら。

ちょっと一休み・カラオケで

2020年03月29日 14時15分05秒 | えいこう語る

▼世界中で猛威をふるっている新型コロナ。外出制限をしている世界の観光都市に、人気がない。ふと気が付けば、私が普段見慣れている光景だ?。人が歩いていないというのは、人口800人余りの我が過疎地域と、同じだということだ。生まれて初めての実感だ。

▼「アメージング」な「ダイバーシティー」!といわれる過密都市「トウキョウ」は、感染拡大が爆発的のようだ。春色の青さを増してきた太平洋。まもなく若緑色に変身するのを待っている、周囲の山々。海の青さに負けぬ、青空。空気もうまいし、水が美味しい我が故郷。

▼人々が暮らす、健康的で人間的な土地が、日本全土にたくさんある。そんな場所が過疎地と呼ばれているところだ。【過疎地=人間が住む最適な土地(広辞苑)】と「第7販」に、そう掲載してほしいものだ。「一極集中解消」・「地方創生」にも大きな変化が生まれるに違いない。

▼前置きはこの位にし、コロナウイルスで、町会の「カラオケ・サロン」も中止となっている。目的は「みんなで楽しく元気に、大きな声を出す」ということと、老人の「引きこもり防止」と「健康管理」などが目的だ。

▼まず歌う前に、歌に合わせた健康体操というプログラムがある。これから始める。みんな一生懸命に体を動かしている。カラオケに飽きると、再度、健康体操をしたりすることもある。

▼この体操は、様々な曲で構成されているが「青い山脈」は歌いながら体操ができ、体も動かしやすい。参加者は、戦前生まれの方も多い。子供の時には食糧難を経験してきた世代だ。この歌に【元気】を感じるのだろう。

▼昭和23年生まれの私の日常食も「いも・かぼちゃ」だった。そんな時代を思い出したくないという同級生もいるが、私は大好きだった。前浜はイカやイワシなどたくさんとれた。それを塩漬けにしたのが、食卓に添えられたからだ。

▼特にストーブの上に新聞紙を重ね、その上にイカの塩辛を焼く。不思議に新聞紙はやぶれることはなく、丸く縮んだイカの塩辛を、イモの上に乗せて食べるのが、とてもうまかったからだ。

▼数年前、七輪居酒屋で塩辛を頼んだ時、塩辛の量が多すぎたので「七輪で焼きたい」といったら、お姉さんが「年配の方に多いですね」と言って、ホタテの貝殻を出してくれた。

▼貝殻から海のエキスが出るなんてことを知っていたのかどうか知らないが、そんな気の利いたお姉さんがいる店は、長居をしてしまうのが私たち世代だ。

▼とにかく話しが脱線に次ぐ脱線を繰り返すのも、団塊世代の特徴だ。「青い山脈」に戻す。作詞・西城八十、作曲・服部一郎だ。歌は万年青年、藤山一郎と、美人の奈良光江だ。焦土と化した都会ににあの歌声が流れ「歌の力」のすごさを見せ付けたのは、想像に難くない。たぶん日本歌謡史上、最高傑作ではないかと考える。

▼さらに、作詞・サトウハチロウ、作曲・万城目正、歌・並木路子の【リンゴの唄】だ。この二つの曲は【国民栄誉賞】を与えてもいいのではないかと思っている。

▼当時、この曲がどんなに国民を勇気づけた、戦争の歴史を後から学んだ私たちでさえも、その歌のすばらしさは充分理解できる。戦争で病んだ日本人の心に、回復の風を吹き込んだのは間違いないだろう。半藤一利著「歴史と戦争」の中に、並木路子に関する次のような記述がある。

▼【浅草生まれの並木は、昭和13年に松竹歌劇団に入る。東京大空襲で、一緒に隅田川に飛び込んだ母は、遺体となって浮かんだ。父は南方で殉職死、次兄は千島列島で戦死。たたみかける戦争の傷みを抑えて、彼女は懸命に歌ったという。そんな悲しみがあったことも知らず、人々は明るい声に耳を傾けたが、よく聞くと、徹頭徹尾悲しい歌であると思えてくる。】

▼「リンゴの唄」は、戦後日本の最も一明るい歌だと思っていたが、実は、究極の悲しみが根底にあっての明るさだったと思えば「反戦歌」として、私のカラオケのレパートリーにしたいと思う。

▼コロナが終息してカラオケが再開されたら「リンゴの唄」の話を、みんなに教え「青い山脈」と「リンゴの唄」を合唱してみようと思う。そう言えば昨年、小説「青い山脈」の初版本を読んだ。

▼本の中からかび臭い匂いが漂ってきたが、女学生たちの戦後民主主義へのあこがれと、新しい社会への挑戦は、まさしく題名の「青い山脈」そのものに感じられたことを思い出している。

▼「コロナ戦争」の騒動に乗じ「憲法改正」へのきな臭さも漂い始めているいる中、ちょっと一休みし「リンゴの唄」に潜む反戦の思いに浸って見た次第です。

人類は退化しているのではないか

2020年03月28日 19時24分35秒 | えいこう語る

▼【たった一つお願いごとをしたい。今年の景気は良いでしょうか、悪いでしょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。暴風雨があっても大地震があっても、コレラやペストやコロナがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように】。

▼日中戦争がはじまる昭和12年、年頭の新聞に掲載された、作家・野上弥栄子の文章だ。なんだか今の世の中に似ているような気がして、私がちょっぴり文章を改竄したものだ。

▼「秘密保護法」や「集団的自衛権行使容認」、さらに新型コロナウイルスの感染拡大は「非常事態宣言」を天が与える要因となった。戦後75年、世界一等国と言われる日本。国民は野上弥栄子のように、時代の流れに潜むものを見極めることができるのだろうか。

▼以前もこの言葉に触れたことがあったが、昨夜読んだ半藤一利著【歴史と戦争】の中にこの言葉を見つけ、もう一度取り上げることにした。「コロナ問題」で私権を制限し始めた令和2年の空気が、昭和12年に似てきたのではないかと、思い始めたからだ

▼令和という元号を聞いた時「和を保つための命令」というような第一印象があった。コロナ問題は、昨年から起き始めたので「コロナ戦争」開戦の年が「令和元年」という、私の記憶にしたいと思う。

▼さらに「令和2年」が【東京五輪の延期】の年であったことも、いや中止になるかもしれないが「国威発揚」に大きな影響があった時代であったことも、記憶に留めて置きたい。

▼令和2年は「コロナ」と「五輪延期」で、野党勢力が弱体から衰弱した時代だったともいわれるかもしれない。コロナの収束をめどに『解散風』が吹いてきたようだ。これらの対策に全力を傾けた与党に、勝利の女神が後方支援するだろう。

▼昭和12年の7月に日中戦争が勃発した。その4ヶ月前、文部省思想局編で【国体の本義】が、学校に配布される。【万世一系の天皇を中心とする一大家族国家が、日本の国体であるという考え方を中心におき、それ以外の一切の思想を排除し「君民一体」を強調する】教育統制強化を意図するものである。これを中学では【修身】の教科書として使用した。・・・半藤一利著「歴史と戦争」より。

▼アベ政権下で中学の【道徳の教科化】は、令和元年からだ。「一大家族国家」や「君民一体」などというのも【ワンチーム】と聞こえてきやしないか。

▼コロナが終息したころを見計らい『衆議院解散』。アベ政権がさらに長期化し、悲願の【憲法改正】へと、シンゾウ率いる「戦艦・日本丸」は突き進むのではないだろうか。

▼日中戦争開戦前夜、作家・野上弥栄子が新聞で訴えた「どうか戦争だけはございませんように」。日露戦争最中に、作家・与謝野晶子は「君死に賜うことなかれ」を堂々と発表した。

▼この危機に際し「野党共闘」も組めず、目前の戦いに玉砕しそうな野党なら、その前に女性議員が離党し【日本女性の党】を結成してみたらいかがだろうか。以前この構想を「妄想」したことが、ちらちら燃え上がる、ストーブがまだ欠かせない早朝だ。

▼朝刊を開いたら、東京都の「みどりのタヌキ」さんが、コロナが沈静化し5月頃の五輪なら、マラソンと競歩は【トウキョウ】と発言している。「みどりのタヌキ」さんも、まだ戦いを挑みそうな雰囲気はある。

▼【時代はある日急速に動き出す。だが、危険に向かっている時ははその時代の空気を読めばいい。しかし人間の魂は、かつて真理の国にいて心理をはっきりみていたが、敗戦からの急激な復興で、今や現象の国に生まれて、心理をはっきり見極める目を失ってしまった。】

▼この文章は、哲学者プラトンの言葉を、私が少し加筆し「改竄」!?したものだ。でも紀元前300年程前の哲学者の言葉が、今に当てはまるというのは、人類は意外と進歩していないという証左なのかもしれない。

戦時体制に巻き込まれた感じだ

2020年03月27日 17時35分00秒 | えいこう語る

▼コロナウイルスの感染拡大で、まるで第三次世界大戦に巻き込まれたような昨今だ。感染死亡率の高い欧州の市長などは、独裁者のごとく大声で市民に外出禁止を訴えている。

▼「外出したら、火炎放射器で焼き殺してやる」と、冗談とも思われぬ、わめき方をしていて、事態の危機感が北海道の片田舎まで伝わってくる。過密都市東京も、感染拡大が始まった。口には出さなかったが、東京は一番感染する場所だというのは、国民は懸念していたはずだ。

▼「世界一安全・安心な国」というのは単なる幻想で、実は【無防備国家】という現実が露呈したのではないか。「緊急事態宣言」などという言葉も、一般的に使われるようになったが、「防災・防疫」面での非常事態宣言が、今後行き過ぎた状態につながらないかが心配だ。

▼非常事態宣言は、軍隊を持つ国家が有効性を発揮できるからだ。東京で夜の若者が集まって飲み騒いでいる光景など、軍隊を持つ国家であれば、それこそ火炎放射器で一掃されてしまうからだ。

▼しかし軍隊を持つ国家が、新型コロナウイルス以上の惨劇を生んだのは、我が国の近代史が語っている。その歴史の実感が薄れた国民が増えている現在、このウイルス感染のマインド・コントロールで、軍隊を保有する国家が【安全・安心な国家】であるという、アベ政権の「憲法改正ウイルス」に感染させられないよう、注意を怠ってはならない。

▼そんな現在の私の心配は、我が国は「右傾化」の歩みをしているのではないかということだ。保阪正康著「平成史」平凡社発行に、こんな記述がある。

▼東日本大震災は民主党の菅総理の時代に発生した。さらに福島第一原発事故。政権のとった行動は、太平洋戦争の教訓を生かしていなかったのではないかと保阪はいう。それは「指導部が明確でなかった」「主観的判断や思い込みが客観的事実にすり替えられる」などが上げられるが「官僚機構と政治側の連携が著しく乖離していて【信頼性がなかった】のではないかという。

▼東条の言動は驚くほど粗雑である。「負けたと思った時が負け」というような精神論を繰りかえす。菅首相も事故現場に乗り込んで、怒鳴りまくるといった行動が中心になったという。最も冷静であるべき人物がこんな状態では、現場では隠蔽の構図が出来上がってしまう。最も有能な指導者が必要とされるとき、よりレベルの低い指導者がその地位についていたのではないかと指摘する。

▼民主党の、鳩山・菅・野田で、だれが首相になってもいいという空気が醸成されたので、アベ総理が誕生した。それは【デモクラシーの後にファシズムが付いてくる】ということが実証されたということだ。「ヒットラーはなぜ民主主義から生まれたのか」という問いに【ドイツ・デモクラシーの悲劇】だというのは、政治学者・岡義武の主張だ。

▼さらに岡は【疑もなく明白なことは、自由は与えられるものではなくて、常にそのために戦うことによってのみ、確保されまた獲得されるもの】と説き、戦うという意味は【聡明と勇気を伴わずしては、何らの意味を持ちえぬということ】だと結論付けている。

▼アベ総理は自らの著書「美しい国へ」で、自分は「戦はなければ政治家ではない」という。私は、アベ総理は岡の「戦う」という意味を、はき違えているのではないかと考える。

▼保坂は「平成」の総括として、岡の上述の言葉を国民は自覚しておかなければならないという。それは、アベ総理の間違った解釈に、国民は真っ向から戦わなければならないという、意志表示のようにも聞こえた。

▼インターネット時代は、メディアの構造が変化し、情報の質が著しく低下したニュースなるものが、大量に撒かれるという事態になっている。これまでの価値観が大幅に崩れていき、まったく新しい価値観が生まれてくる。平成はそのような深刻な時代の胎動期だったと、将来語られるだろうとも保阪は述べる。

▼日本社会はアベ政権の誕生で「右傾化」の傾向にある。「日本会議」という草の根右派組織が、巧みに社会の各層に入り込んでいるからだというのは【日本会議の正体】という本の著者・青木理だ。

▼神社本庁などが、日本各地で右傾化の浸透に動いている様子は、【令和】になり、私たちの身近の神社が、町会組織に近づいていたことに、その動きを見ることができる。

▼函館八幡宮が「令和を寿ぎ」町会に国旗の販売と掲揚をお願いし近づいてきたことは、小さな出来事のようで、捨てて置けない状況ではないかと思う。

▼町会が国旗の斡旋等に加わっては、戦前の体制翼賛体制の前触れだという懸念が私にはある。だが「令和を祝うことが悪いのか」という意見が多い。町会という「向こう三軒両隣」的な連帯意識を、いまだに残している町会に、静かに入り込む【右傾化のウイルス】ではないかと考えるからだ。

▼新型コロナウイルスの発生で【東京五輪の1年延長】という世情の中で【非常事態宣言】なる言葉が身近になっている。インターネット社会は、日本語や常識などの変化も生む。そんな混迷の時代には、かつての【良識的保守】へのノスタルジーが、再燃されやすいような気がする。

▼誰しも首都圏の感染拡大での「ロックアウト」を恐れる。この不安が、国柄を大きく変化させるかもしれない。いや意図的に変化させるように、仕向けるかもしれない。さらに、大地震や大津波などの大災害の予測もあるからだ。

▼もはや、人間が住む快適な環境と呼べない首都圏なのかもしれない。ここで【遷都】や【首都機能の分散】を考える時期に来ているのではないかと、思ったりもする。

▼メディアから溢れ出る「伝染病報道」。何か視点がぼけている感じがしてならない。もしかしてメディアが【日本の右傾化ウイルス感染拡大】に寄与しているのかもしれない。それを自覚しないのが、今日のメディアの劣化現象なのだろう。

▼保阪は青木理の著書「日本会議の正体」で「保守・革新の対立図式が崩れるや、日本社会の変化が常に直線的であり、それが意外なほど短時間に行われる」というのは、貴重な教訓だと述べている。

▼私も日本人として70年間生きてきた。多くの日本人は「保守的」ではないかと思っている。保守的であることが【安全・安心】だと考えているからだろう。つまり革新的でないことの方が「安全・安心」だと思っているのだろう。

▼町会の基本テーマも【安全・安心なまちづくり】だ。だが時代が大きく変化する中で【安全・安心】の本質も変化をみせている。その変化を摑みたいのだが、一方本質は変化しないものだという考えもある。そこが「令和」における町会組織の、最大の問題点のような気もする。

▼戦後の「昭和」は、親しみもあり、愛してもいたし、あこがれてもいた。「平成」は、右傾化の流れる社会に親しみは感じなかった。馴染む間も無く過ぎ去ったような気もする。戦後生まれの私より年下の天皇を戴く【令和】になって、天皇の儀式を大衆化したような気もする。そして「コロナ戦争」に慌てふためく我が国。

▼保坂は【令和】は、国民が天皇に近づく時代だという。「天皇と国民」というテーマは、天皇を【右傾化の象徴】にさせてはならないという、メッセージではないかと考える。

▼「コロナ戦争」の戦時体制下での「大本営発表」?の中で、ちょぴり、日本人とは何かを考えてみた次第です。真の日本人とは、どんな人なのか。アベ総理を戴く国では、答えが出ないような気がするが。