※このブログは昨日書いたものですが、PCの不具合でUPできなかったので、今日の掲載となりました。
▼我が国の難民申請に関するニュースに接するたびに、入管局というのは人権を第一に考えていないのではないか、ということを感じる.。入管局と言えば、時々捕虜収容所を想起することがある。
▼先日北方領土から、根室管内標津町に泳いで渡ってきたロシア人男性(38歳)が保護された。本人は亡命を希望している。
▼以前ソ連の戦闘機が函館空港に緊急着陸し、亡命を希望した男性がいた。函館市内は騒然となった。
▼その取り扱いに最初に対応したのが、法務省か外務省か警察かと思いきや、検疫問題で厚生省だったという記憶がある。
▼私はその日、湯の川温泉上空でその戦闘機の直ぐ真下にいた。映画の特殊撮影のように、戦闘機の底の部分がはっきり見えた。何かとんでもないことが起きたのではないかという記憶がある。
▼とにかく、難民の扱いに戸惑うのが我が国だ。結果から言えば、北方領土は日本国有の領土なので、難民には該当しないという判断で、サハリン州に送還ということになるという。
▼それでは、その人物はシベリヤで強制労働?にさせられるのではないかと、私は心配する。命を賭けて海を渡り亡命したということは、ロシアでは人権が十分配慮されていないと考えられるからだ。
▼だが日本側から言わせれば、亡命を認めると、北方領土はロシア領(外国)と認めてしまうという考えらしい。国家在りきの考えでは、人権は無視されてもいいということになる。
▼普段「国民主権」の意義を、ちょっぴり考える私としては、納得のいかない問題だ。さらに、送還されてしまい、この問題は何もなかったかのように忘れされてしまうことにも、危機感を覚えるからだ。
▼と、私の一方的な推測を捨て、プーチン大統領の考えに思いを馳せてみたい。この亡命希望の男性は、3年前にロシア中部からく北方領土の国後島に移住している。
▼ロシア側の使命を帯び、日本に亡命させ、もし亡命が認められたら、北方領土は日本側が、ロシア領だと認めることになる。そんなプーチンの領土確保の一環だと思えないこともない。
▼そんな手に乗ってはならないというのが、法務省側の判断かもしれない。そうであれば、一人の人権を無視しても、国家が安泰であれば賢明な判断と考えたのだろう。
▼北方領土返還問題など、道民でも無関心が多い。シンゾウがあれだけ訪ロしても、無視されているからだ。スガ総理は、沖縄は米国に、北方領土はロシアに任せるという感じにみえる。
▼だが、この事件と関連するかのように、ロシア側は、4島占領は正当だと強調し、中国に共闘を求めるという記事が目に付いた。さらにロシア政府は、北方領土で新兵器の展示も開催したという。
▼ソ連の対日参戦は“米・英・ソ”首脳によるヤルタ協定に基づくもので、歴史認識から言えば、正当だという考えだ。日本が歴史を勝手に改竄してはならないと牽制球を送る。
▼さらに妄想を働かせれば、最近は南シナ海への中国進出対策で、日本は豪・仏・英などと軍事共同訓練を実施している。
▼対する中国は、ロシアや北朝鮮と三国同盟を画策しているのかもしれない。米国が世界最強ではなくなった現在、次の展開としてこの三国同盟は、十分考えられることだ。
▼もし中国が尖閣列島を実効支配するようなことがあれば、日米軍事同盟で双務的行動に出るだろう。それと同時に、北海道にロシア軍が南下してくるというのが、私が時々見る悪夢だ。
▼極右主義者と言われる哲学者長谷川三千子の著書「民主主義とは何んなのか」文藝春秋から、長谷川の考えに耳を傾けてみたい。
▼民主主義は多数決の原理だが「多数決」が成り立つためには、少数者となってしまった人々が、そうと解った瞬間に、あっさりと自分たちがその決定に従うということが不可欠である。
▼投票の瞬間まで自分たちの意志こそが「史上最高の法」であると信じていた人々が、票を数え終って、自分たちが「少数者」となった瞬間に、自からの意志を曲げなければならない。こんな極端な方向転換は、とうてい人間業でできるものではないと、民主主義に批判的な長谷川は言う。
▼私は、少数派に位置しているのを自覚している。民主主義国家の国民なのだから、表現の自由は保障されている。しかし多数決になると、拒否される方がなぜか多い。
▼私の主張は、まったく間違っているとは思えない。周囲の大多数が、私の主張に同調しない方が、めんどくさくならないと思っているからだと思う。
▼周囲からは、一種の偏屈者だと思われているのかもしれない。少数派に回る回数が多ければ、そんな感じがしてくるからだ。
▼そんなわけで、近年特に民主主義の多数決原理について、不満を持ち始めている。ワクチン接種には反対ではないが、多数派の同調圧力が嫌いだ。
▼「緊急事態宣言」の強化を叫ぶ者が多数派となり、政府の後押しをする姿勢も嫌いだ。自民党総裁選の仁義なき戦いなど、最も嫌いだ。
▼多数決も好きか嫌いかの判断だ。好きという方が多数になれば、平和に近いような気がする。五輪もパラリンも、行ってしまえば、反対者は非国民扱いの気分になる。
▼ミャンマーの軍事政権を考えてみよう。民主派が独自にラジオ放送を始めた。国家を批判するものは違反だとし、禁止するという。
▼そんなことを考えれば、主権を国家に渡すより、主権が国民にある日本国憲法の方がいいに決まっている。
▼我が国のようにまったく信頼が持てない政府に、主権を渡してはならないと思う。自民党の改憲草案は、国民の主権を奪い取るという内容だからだ。
▼そんな政府の在り方に反対する気持ちが私の根底にあり、私の発言ともつながっている。それに対し、そこまで考えることもないのではないかというのが多数派の意見のようだ。
▼というわけで、馬齢を重ねたせいもあるかもしれないが、根性がさらにひまがってきそうな感じがするこの頃だ。
▼我が国の法務省の人権感覚について、ちょっぴり自分のことを照らし合わせて考えてみた。
少数派の道は歩きにくい
三等下
▼我が国の難民申請に関するニュースに接するたびに、入管局というのは人権を第一に考えていないのではないか、ということを感じる.。入管局と言えば、時々捕虜収容所を想起することがある。
▼先日北方領土から、根室管内標津町に泳いで渡ってきたロシア人男性(38歳)が保護された。本人は亡命を希望している。
▼以前ソ連の戦闘機が函館空港に緊急着陸し、亡命を希望した男性がいた。函館市内は騒然となった。
▼その取り扱いに最初に対応したのが、法務省か外務省か警察かと思いきや、検疫問題で厚生省だったという記憶がある。
▼私はその日、湯の川温泉上空でその戦闘機の直ぐ真下にいた。映画の特殊撮影のように、戦闘機の底の部分がはっきり見えた。何かとんでもないことが起きたのではないかという記憶がある。
▼とにかく、難民の扱いに戸惑うのが我が国だ。結果から言えば、北方領土は日本国有の領土なので、難民には該当しないという判断で、サハリン州に送還ということになるという。
▼それでは、その人物はシベリヤで強制労働?にさせられるのではないかと、私は心配する。命を賭けて海を渡り亡命したということは、ロシアでは人権が十分配慮されていないと考えられるからだ。
▼だが日本側から言わせれば、亡命を認めると、北方領土はロシア領(外国)と認めてしまうという考えらしい。国家在りきの考えでは、人権は無視されてもいいということになる。
▼普段「国民主権」の意義を、ちょっぴり考える私としては、納得のいかない問題だ。さらに、送還されてしまい、この問題は何もなかったかのように忘れされてしまうことにも、危機感を覚えるからだ。
▼と、私の一方的な推測を捨て、プーチン大統領の考えに思いを馳せてみたい。この亡命希望の男性は、3年前にロシア中部からく北方領土の国後島に移住している。
▼ロシア側の使命を帯び、日本に亡命させ、もし亡命が認められたら、北方領土は日本側が、ロシア領だと認めることになる。そんなプーチンの領土確保の一環だと思えないこともない。
▼そんな手に乗ってはならないというのが、法務省側の判断かもしれない。そうであれば、一人の人権を無視しても、国家が安泰であれば賢明な判断と考えたのだろう。
▼北方領土返還問題など、道民でも無関心が多い。シンゾウがあれだけ訪ロしても、無視されているからだ。スガ総理は、沖縄は米国に、北方領土はロシアに任せるという感じにみえる。
▼だが、この事件と関連するかのように、ロシア側は、4島占領は正当だと強調し、中国に共闘を求めるという記事が目に付いた。さらにロシア政府は、北方領土で新兵器の展示も開催したという。
▼ソ連の対日参戦は“米・英・ソ”首脳によるヤルタ協定に基づくもので、歴史認識から言えば、正当だという考えだ。日本が歴史を勝手に改竄してはならないと牽制球を送る。
▼さらに妄想を働かせれば、最近は南シナ海への中国進出対策で、日本は豪・仏・英などと軍事共同訓練を実施している。
▼対する中国は、ロシアや北朝鮮と三国同盟を画策しているのかもしれない。米国が世界最強ではなくなった現在、次の展開としてこの三国同盟は、十分考えられることだ。
▼もし中国が尖閣列島を実効支配するようなことがあれば、日米軍事同盟で双務的行動に出るだろう。それと同時に、北海道にロシア軍が南下してくるというのが、私が時々見る悪夢だ。
▼極右主義者と言われる哲学者長谷川三千子の著書「民主主義とは何んなのか」文藝春秋から、長谷川の考えに耳を傾けてみたい。
▼民主主義は多数決の原理だが「多数決」が成り立つためには、少数者となってしまった人々が、そうと解った瞬間に、あっさりと自分たちがその決定に従うということが不可欠である。
▼投票の瞬間まで自分たちの意志こそが「史上最高の法」であると信じていた人々が、票を数え終って、自分たちが「少数者」となった瞬間に、自からの意志を曲げなければならない。こんな極端な方向転換は、とうてい人間業でできるものではないと、民主主義に批判的な長谷川は言う。
▼私は、少数派に位置しているのを自覚している。民主主義国家の国民なのだから、表現の自由は保障されている。しかし多数決になると、拒否される方がなぜか多い。
▼私の主張は、まったく間違っているとは思えない。周囲の大多数が、私の主張に同調しない方が、めんどくさくならないと思っているからだと思う。
▼周囲からは、一種の偏屈者だと思われているのかもしれない。少数派に回る回数が多ければ、そんな感じがしてくるからだ。
▼そんなわけで、近年特に民主主義の多数決原理について、不満を持ち始めている。ワクチン接種には反対ではないが、多数派の同調圧力が嫌いだ。
▼「緊急事態宣言」の強化を叫ぶ者が多数派となり、政府の後押しをする姿勢も嫌いだ。自民党総裁選の仁義なき戦いなど、最も嫌いだ。
▼多数決も好きか嫌いかの判断だ。好きという方が多数になれば、平和に近いような気がする。五輪もパラリンも、行ってしまえば、反対者は非国民扱いの気分になる。
▼ミャンマーの軍事政権を考えてみよう。民主派が独自にラジオ放送を始めた。国家を批判するものは違反だとし、禁止するという。
▼そんなことを考えれば、主権を国家に渡すより、主権が国民にある日本国憲法の方がいいに決まっている。
▼我が国のようにまったく信頼が持てない政府に、主権を渡してはならないと思う。自民党の改憲草案は、国民の主権を奪い取るという内容だからだ。
▼そんな政府の在り方に反対する気持ちが私の根底にあり、私の発言ともつながっている。それに対し、そこまで考えることもないのではないかというのが多数派の意見のようだ。
▼というわけで、馬齢を重ねたせいもあるかもしれないが、根性がさらにひまがってきそうな感じがするこの頃だ。
▼我が国の法務省の人権感覚について、ちょっぴり自分のことを照らし合わせて考えてみた。
少数派の道は歩きにくい
三等下