函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

必見!痴漢の疑いを晴らす方法

2019年03月31日 10時51分05秒 | えいこう語る

▼私が痴漢をしでかしたわけではないが、万が一自分が痴漢にされた時、絶対逃げ切る方法がある。その方法は、私の先輩で元警察官のブログに書いてあった。その先輩の許可を得てそれをみなさんに伝授したい。しっかり頭に入れてほしい。

▼先輩自身が職業柄知った事象かと思ったが、実は誰かがネットにアップした内容が、その手口?いや処理の仕方があまりにも見事だったので、元警察官としての職業意識が働き、自分のブログにアップしたという。

▼ある男性が、電車内で痴漢だと叫ばれ、その女性と警察署に連れていかれた。警官も「早く白状したほうがいい」というような顔になるらしい。こうなるとほとんど無駄な抵抗になってしまうようだ。

▼だが、その男性は冷静だった。「俺は捕まってから手を洗っていないのは認めるよな。本当に触ったなら、手から繊維片が出るはずだ。女の服にも俺の皮脂や皮膚片、場合によっては指紋が付いているから、調べてみろ」と言ったそうだ。

▼被害者だという女性の服から、それらの確認は全くなかった。そこでその男性がさらに続けた。「お前はこのように痴漢に仕立てることを、何度もしているのではないか」と。

▼慌てた警察が、その女性を調査したら、なんと痴漢犯罪の常習犯だったという。だぶんこの男性は、犯罪調査にかかわっている人か、いわゆる「科捜研」のような、職業に関する人ではないかと思う。

▼半世紀前の東京の山手線。ぎゅうぎゅう詰めだった頃を思い出した。周囲の女性には気を使った。だが「痴漢だ」と声を上げる女性など見たこともなかった。あの頃の女性は辛抱強かったのだろうか?。

▼それから半世紀。女性が男性を貶め痴漢詐欺を働く。男性はどう変化したかと言えば、相変わらず痴漢行為を繰り返している。

▼私が知っているおばさんは、若い男性に近づくと「むぎゅっと、握る人がいる!?」。「過酷な社会の中で、元気で暮らしているかどうかの反応を見る」のだという??。

▼その真意は理解できないが、そんなおばさんがいるという環境は、極めて明るく元気で、すこぶる健全な社会ではないかと、私は納得している。

▼私も若い時分、女性ばかり80人ほどがいる職場を預かっていた。その中でワイ談は割と一般的だった。ある時、若い私は調子に乗って、猥談を始めた。しかし「あなたはそういう話は似合わない」とたしなめられた。

▼セクハラなどというものが、極めて狭い感情の領域の中で、争われている。でも、握りおばさんは、別妙なタイミングで周囲を明るくしてくれる。

▼寛容か不寛容かの問題でもないと思うが「セクハラ」などという造語をつくり、それを流行り言葉とし、必要以上に社会問題化する我が国が、軽率のようにも感じる。

▼軽率という言葉を吐くと、さらに叱責されるかもしれない。あまり極端すぎると不寛容社会の様な気がして、笑いが少なくなる社会になるような気がする。かといって、私がセクハラに寛容と言っているのではない。

▼もし周囲が笑え、楽しい気分になるような範囲でも、セクハラだと感じる人がいたなら、それを擁護してやるユーモアが周囲の人にも無ければならない。

▼みんながセクハラと感じたら、セクハラした人を戒める、ユーモアのセンスを持ち合わせていなければならない。それが社会人としての自覚でもあり、責任でもあろう。

▼私も酒の席で、50代のキャリアウーマンに「あなたは着物が似合いそうですね、赤いかんざしなどさしたら、きっと色っぽいでしょうね」と、少し気がゆるんで話してしまった。

▼彼女はすかさず両手の人差し指を回し“指導”と、柔道での審判の仕草をした。「指導が続けば、失格です」そんな感じを私に与えた、見事な一本勝ちだった。

▼世の中すべてこうであれば、うまくいく。国会討論会を観て時々彼女のことを思い出す。横道にそれてしまったが、痴漢詐欺にあわないためにも、前述のことは覚えていてほしい。

新元号について考える

2019年03月29日 08時35分35秒 | えいこう語る

▼オレンジ色に輝き始めた水平線。今日一日が始まる。頭上を見上げると、青みがかった空に、くっきりと半月が残っていた。なぜか天皇という言葉が脳裏に浮かんだ。

▼「沖縄県民を踏みにじる政府。」「大飯原発差し止め却下。」新聞には「小出し、出し渋り、ご飯論法・政府逃げ切り戦術露骨。」「新年度予算が、初めて100兆円を超え。」・・・何一つ良い方向に進まないまま、心が伝わってこない選挙カーの“連呼”も始まった。

▼世の中の一番の関心事は「新元号」なのだろうか。アベ総理の「安」の字が入るのではないかという声も飛び交う。
天皇には一足早く教えに行くという。その使者がアベ総理だ。

▼伝達ならスガ官房長官でいいではないか。国民に発表する時は、衆議院議長ぐらいでいいような気もする。この辺りもアベコベ内閣の様相を呈しているように考える。

▼元号改正は慶事と呼べる行事だろう。だが当日のテレビの過剰放送が鬱陶しい。元号一色の4月1日になるに違いない。「平成」の発表時は「平成おじさん」こと、地味だが真面目な感じがする小渕官房長官だった。

▼今度は、毎日機嫌が悪そうで、陰気臭さのある菅官房長官だ。「それでは発表いたします。新元号は【改正】です
。」・・・?「まちがいました00です。・・・今日はエープリルフールでしたので。」

▼なんちゃってと、本人も笑いながら発表すると、日本中が明るいムードのなるのではないかと思う。期待感の薄い「元号改正」だが、巷間うわさされているように、アベ総理の【安】の字が入ったら、元号表記には【不安0年0月0日】などと、役所の窓口で書いてみたいと思う。

▼ちなみに30年ほど前だが、千歳市市民会館で行われた『第6回世界ホラ吹き大会』の優勝者は私「かわぐちえいこう」です。

▼準優勝は北海道大学のカナダからの留学生でした。ちなみに優勝賞金もいただきました。白鵬のようではなく【薄報=薄い報酬】?!程度でしたが。

▼他愛の無い話ですが、4月1日の新元号発表についての、私のコメントです。

周辺事態異常有り

2019年03月28日 19時23分58秒 | えいこう語る

▼振り返って見れば、様々な講演会や勉強会に参加してきた。田舎に住んでいるので、世の中に遅れることの恐怖心が、参加意欲を引き起こすのかもしれない。

▼考えのバランスを保つため、賛成・反対の両意見にも耳を傾けることにしている。原発反対運動をしているが、賛成派と意見を交わしたというので、仲間から顰蹙を買ったこともある。

▼私はどちらかというと、自分の意見に反対の方が興味がある。なぜかと言えば、自分の思考以外の角度からの発言は、極めて自分に欠けてるものを発見できるからだ。

▼残念なことに、軍事評論家の講演を聴いた記憶がない。強いて言えば、稲田朋美元防衛大臣ぐらいだ。北朝鮮の脅威を煽り、盛んに国防論を展開していたが、私には網タイツのお姉ちゃんが“キケンだ!キケンだ!キケンですよ!”というように、さえずっていたような記憶しかない。

▼函館市内に自衛隊の基地があるのだが、そこに研修で行ったこともあるが、国防に関するレクチャーをして欲しいと思うのだが、函館戦争の話しだけだった。せめて日清・日露戦争あたりから敗戦に至るまでの、日本軍の勇猛な歴史を語ってほしかった。

▼それはさておいて、韓国の文喜相国会議長の発言が、勇ましすぎる。従軍慰安婦問題や徴用工問題で「天皇陛下が謝罪すればそれで済むことだ」と。

▼国会議長の発言とも思われぬ。日本に軍隊があれば、戦争に突入しかねない状況だ。と考えれば、やはり【9条】があるから平和でいれるということだろう。議長の発言には、どのような裏があるのだろうか。軍事評論家も的確な予想ができないようだ。

▼韓国も最近北朝鮮との関係がよくなっている。祖国統一に向かってくれればいいと願う。だが急接近の中で、北朝鮮は拉致問題、韓国は慰安婦と徴用工問題で、日本に対し共同戦線を張ってきたのではないだろうか。

▼「南北分断から祖国統一」。この悲願達成には、両国民の、それぞれ軋轢があるだろう。それを薄めるためには、何かに目をそらせなければならない。そらすとすれば【日本による35年間にも及ぶ朝鮮半島の統治】だ。

▼そのスローガンを掲げ【朝鮮半島統一】を目指そうとしているのではないか。そのために統治責任者の、天皇陛下の謝罪を求めているのではないだろうか。

▼文国会議長に対抗できるのはアソウ副総理しかいない。「日本は学校をたくさん作ってやった。お前たちの教育水準が“ミゾユウ”に高まったから、今日の朝鮮半島の繁栄があるのではないか。恐れ多くも天皇陛下に謝罪せよとは、恩を仇で返す、恥を知らぬ国家ではないか」と。

▼面構えと口喧嘩なら、我が国のアソウさんは負けない。国連議長を行司役に頼んで、二人で対決してほしいものだ。韓国のトランプともいわれる?!文国会議長。その発言の裏には、やはり我が国の「憲法改正」の動きを牽制する狙いがあるのではないか。

▼我が国の周辺各国は【9条改正】をどのように感じているのだろうか。血も心も凍ってしまう【大日本帝国軍の復活】と考えていやしないだろうか。

▼最近の中国の軍拡は、日本にとっては脅威だが、中国にとっては【9条改正】に対抗する措置であるかもしれない。
北方問題でも、ロシアは返還したら米軍基地ができるのではないかと懸念し、4島返還は全く応じようとしない態度に出ている。

▼「中国、北朝鮮・韓国、ロシアVS日本」。そんな軍事態勢が形づくらてきたのではないか。そうであれば【周辺事態異常有り】となる。

▼そうならないためには、アベ政権下での【憲法改正阻止】は、日本国家の平和を守るための必須条件ではないかというのが、2019年3月28日時点での私の考えだ。

▼昨夜読み返した、右派よりの評論家、上坂冬子著「戦争を知らない人のための靖国問題」。その中にこんな文章があったので紹介したい。

▼1953年、敗戦国の我が国が、連合国48ヶ国との間で締結した「サンフランシスコ平和条約」。その条約第25条には「この条約に署名、批准してない国には、この条約に関するいかなる権限も宛て与えない」と明記されている。

▼東京裁判では天皇の戦争犯罪は免除された。サンフランシスコ平和条約では、中国も韓国も入っていない。だから
、先の戦争についての国際的取り決めでは、韓国や中国からの戦争についての追及は、そこで終了したということになる。

▼しかし、今になって韓国議長が【日本は盗人猛々しい】と公言した。国際条約も知らない国会議長だ。だが、日本人も歴史の事実を風化させてはならないのだ。

▼戦争は【人殺し】だ。殺された者の親族は、何年経っても忘れないということを、心に刻み込まなければならない。その憎しみを生むのが【戦争の実態】だということを。

▼文国会議長の発言は、元号改正時にあたって、日本国民に【戦争そのものを風化させてはならない】という、平和のメッセージではないかと、ふと感じたのだが?

次のオリンピックを素直に喜べない理由

2019年03月27日 14時56分45秒 | えいこう語る

▼1964年10月の東京オリンピック。その3月まで小さな漁村の中学生だった私が、人口が24万人の函館市の高校に移動していた。敗戦当時を感じさせる風景や匂いが、港函館の此処彼処に残っていた時代だった。

▼そんな時代の空気を一変したのがオリンピックだ。裸電球が蛍光灯に代わったような、モノクロームが総天然色に代わったような、文明社会が新幹線に乗ってやってきたというような、未来は明るいものだと恐らく多くの国民が感じたのではないだろうか。

▼オリンピック開催とは、社会を一変する効果があるというのが、1964年を振り返っての感想だ。青春時代の真っただ中だった私は、音楽で言えば三波春夫がグループサウンズにチェンジした、そんな変身の時代でもあった。

▼だが、二度目の2020年東京オリンピックに、団塊世代の私は心が沸き立ってこないのだ。少子高齢化・世界一の借金・いまだに占領地の沖縄・対米従属・さらに【憲法改正】というように、社会的不安が多すぎるからだ。

▼そんな国柄でのオリンピックの開催は、いささかテンションが下がるのだ。オリンピックのサブテーマは【国威発揚】だ。それは前のオリンピックで十分体得している。だが、今のアベ政権下での【国威発揚】は、当時と違う意味合いがあるように思う。

▼オリンピックウを迎えるに際し、私の根底に潜むものは「ある種の不安」や「ある種の恐怖感」だ。さらに言えば、【ある種の気味の悪さ】も感じるからだ。

▼「ある種」というのは実体感が薄い言葉だ。これだという決定打のない「あいまいさ」だ。それをきちんと整理して言語化しなければならないが、私の能力ではなかなか整理がつかない。

▼精神科医の香山リカ著「ぷちナショナリズム症候群」(若者たちのニッポン主義)という題で、スポーツ大会にみる、日本の若者の熱狂的心理を分析しているので、参照にしたい。

▼評論家の福田和也は、2002年の日本で開催された「サッカーW杯」で、日本応援団が顔にペンキを塗り、屈託なく飛び跳ねている現象を【日本人の土人化】と表現した。危険な匂いが漂う言葉だが、知的劣化という意味なのだろうか。

▼W杯の「日本VSロシア」で日本が勝利した時、年配のある高名なスポーツマンが【日露戦争に勝った】といったという。スポーツ大会には、体育会系的なあっさり感の明朗さと、健康至上主義の中に【ある種の薄気味感】が潜んでいるような気がする。

▼「日の丸」には、ある種のきな臭さを感じるが、スポーツ大会でみんなで振る「日の丸」光景は、なんだか美しく楽しい感じがしてくる。誰もそれには違和感を覚えない。

▼漫画家の高信太郎は、先ず国旗に対するアレルギーを払拭することが、結果的には『国旗や国歌を持つありがたみ』につながるという。

▼卒業式や入学式の壇上真ん中上部に「日の丸」が掲げてある。確か、少し前まで「日の丸」は、儀式用の棒に結ばれ、演台の横に位置していたように記憶している。

▼いつの間にか、意識的?に位置がずらされ、上段に位置しているのだ。恐らく参列者はそれを意識することは無い。当然、登壇者は「日の丸」に頭を下げて進むことになる。「無意識の強制」ということか。

▼「日の丸」は、歴史上ではきな臭さを感じさせる象徴であったので、意識的ではなく限りなく無意識下で、行動させる必要があるのではないかと思う。

▼そんなに私は「日の丸」を嫌いなわけではない。「日の丸」は国旗で、国歌は文部省唱歌「日の丸の旗」でいいと思っている。
この歌の1番の歌詞はみなさんご存じなので省略する。
2番・朝日の昇る 勢(いきおい)見せて ああ勇ましや     
   日本の旗は

▼私の家は目の前が海だ。毎朝日の出を見ているが、まさしく我が国にふさわしき国旗と国歌は「日の丸」が最もふさわしいと思う。エネルギーが沸き「国家隆盛」そのものだからだ。

▼それでは「君が代」はどうするのかと問われたら、日本国統合の象徴である「天皇」を称える【皇室の歌】、つまり【皇歌】だと考えている。

▼話が横にずれたので修復したい。2002年サッカーW杯での国旗を「7万枚」用意したのが、若手神職3000人を束ねる【神道青年協議会】だという。 

▼消しゴム作家の故ナンシー関は、かなり前からW杯の時期が来るのが気が重いと言っていたそうだ。【いまは他愛もない愛国ごっごでとどまっている『ぷちナショナリズム』の国ニッポンが、瞬く間にラジカルなナショナリズムの国に転じていく可能性も否定できない】と指摘していた


▼イデオロギーとしてナショナリズムがどうかというより、その萌芽を直感的に感じるような場、集団がとにかく「不気味」に見えたのだろう。

▼心理学者香山の視点から、私が抱く何か得体のしれない次期オリンピックへの嫌悪感(オリンピック症候群)の原因が明らかになった。

▼私の親友も「アベ政権下でのオリンピックは観たくない」と言って、昨年一足先に旅立った。私も同感だが「オリンピック症候群」の原因が解明されたので「ある種の気味の悪さ」を分析しながら、2020年東京オリンピックでの【ナショナリズムの台頭】を注視して観戦しようと思う。

▼終わりに、この本で特に心に残った文章を紹介したい。

【笑いとは状況をパロディー化する視線で、それはズラシの視線だ】。
※最近は、アイドルが開会前に国歌を歌う。
【屈託なく国に一体化する若者も、日の丸を振って「君が代」を歌った後で・・・「なんちゃって」と舌をペロリと出して笑えるか、そのズラシの視線が必要だ】。

白鵬の万歳三唱を分析する

2019年03月26日 11時48分13秒 | えいこう語る

▼大鵬の優勝記録32回をはるかに上回る、42回目の優勝を勝ち取った白鵬に拍手を送りたい。小学校から大相撲フアンだった私は、ひいきの力士が負けると、夕飯を食べなかったという記憶もある。

▼私の相撲観戦歴で、最強なのはやはり白鵬ではないかと思う。横綱に求められるのは「心・技・体」だ。それ一つ一つみても、白鵬に勝る横綱はいないだろう。白鵬の相撲は「神業」といっても過言はないだろう。

▼千秋楽の横綱対決では、豪快な下手投げで相手をねじ伏せた。その時右上腕部を故障したようだ。賜杯を一人では持てなかった。

▼だが、インタビューで、観客を巻き込んでの三本締めには違和感を覚えた。白鵬の優勝に対し、誰かが音頭を執り行うのが常識だろう。

▼自分の優勝を、観客を動員して自分を称えるという行為は、大横綱のなすべきことではない。またつられて、手拍子を打つ観客にも多少の違和感を覚える。

▼何もそこまで深く考えなくてもいいのではないかと、私の周囲は言う。だが、その違和感は表彰式の前に「皆様ご起立をし、土俵に向かってください。これより国歌斉唱を行います」というアナウンスに、その元凶があるような気がする。

▼大相撲は国技と言われる。だから優勝式典の始まりは「国歌斉唱」なのだろう。次に天皇賜杯の授与。白鵬も優勝インタビューでは、まもなく終了する元号の「平成」を強調した。そして白鵬の音頭による万歳三唱だ。

▼この一連の流れを分析すれば、自分自身に万歳した白鵬は【角界の天皇】であることを、多くの国民に知らしめたのではないか。

▼そして自分の前人未到の記録を誇示し、引退後は外国人初の理事長に君臨することを、暗に印象付けているようにも感じた。それは「大相撲のモンゴル化」だ。

▼私は、平成最後の3月場所の内閣大臣杯授与は、アベ総理が土俵に上がるのではないかと予想していたが、代理の出席だった。実は、アベ総理の発言まで考えていたのだ。

▼「横綱白鵬関の前人未到の大記録を称えたい。私も白鵬関を見習い、前人未到の政権を立派に果たしたい」と。そこまで考えていたが、来なかったのは、アベ総理が実は、白鵬を嫌らっているかもしれない。

▼モンゴルに国技を奪われたくないという、単なるアジア蔑視のアベ総理の歴史観ではないだろうかとも考える。アベ総理の出席は当たらなかったが、もう一つ妄想するものがある。

▼それは、トランプ大統領を国賓として大相撲観戦に招待し、日米関係の密接さを国民にアピールし、国技を政治利用するという考えもあるのではないかという、私の妄想だ。

▼本当に、妄想は妄想で終わってほしいものだ。白鵬の万歳三唱で、ちょっぴり、いや、相当「いやな感じ」がした事への、私自身の感情分析が、さらに妄想を生んでしまったようだ。

▼上述した内容と、さほど脈絡はないが、最後の一番で行司は「この相撲一番似て、打ち止めにござりまする」という。だが天覧相撲の場合「この相撲一番にて“結び”にござりまする」というのも付け加えて置く。