函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
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すっきりしない八百長問題

2011年02月14日 13時28分10秒 | えいこう語る
相撲フアンの一人として「膿を出し切るまで土俵を開かない」という理事長の決意が、大相撲そのものの解体につながりはしないと、心配する。
世の中の不正はなぜ起きるのかというのを、感情だけに囚われず、理論的に考えてみたいという思いが湧き、櫻井稔著「内部告発と公益通報」中公新書を読んでみた。
牛肉偽装事件、警察や自治体の公金不正流用事件、原子力発電所のトラブル隠し、自動車のクレーム隠し等、世の中がこれほどの不正義で成り立っていることに驚愕した。
しかし、国民の公憤は、すでに薄れ掛けているのではないかと思う。
これらについては、マスコミの報道に対する責任もある。
森鴎外が指摘している。
「実にけしからん。このけしからんが義憤である。日本の新聞は社説を始め、雑報まで、このけしからんで充たされている。ことごとく義憤の文字である。僕はこの問題に深入りすることを好まない。とにかく義憤が恥ずかしいという感情が日本人にはかけているのは事実である」
現在に照らし合わせても、社会には膨大な義憤需要があり、その需要にこたえるため、マスコミが奮闘し、さらに義憤評論家、義憤大学教授、義憤漫才師が活躍している状況である。
不正を取り締まる側の警察の公金不正問題は、根絶されたかというとそうではない。警察は膿など出しきらないのである。
マスコミは警察の徹底批判は行わない。マスコミこそヤラセという八百長の権化だからである。
相撲界の八百長は、相撲フアンであれば誰もが心の深いところで容認し、国技として伝統的に了承していたのである。
そこをマスコミが一斉に袋叩きをする。国技として認められていた大相撲は、常識が一夜にして非常識の組織としてみなされたのである。警察のような武器も権力を持ち合わせていない大相撲は、もはや抵抗の余地もなくなったのだ。
世の中の義憤は、いまや大相撲に集中したのである。
※晴天と言えど、雲一つもないというわけでもない。


なんで組織が悪をなすかというが、答えは簡単だ。
「条件がそろえば悪事をなすのが人間という生き物の性(さが)である。人間が作っている組織なので、条件がそろえば悪事をなす。どんな精緻なチェックシステムを作っても、それを乗り越える不正は必ず行われ、また悪との戦いもなされる。不正の根絶がきしがたい以上、不正を正す努力は永遠に続けられる。この二者のバランスがどちらかに傾くかによって、社会の質の高さが決まることになる」
ということは、世の中が続く限り、悪はなくならないという結論のようにみえる。それを正すには、国民である我々の質が問われているということであろう。
国民の質が高ければ、マスコミの様々な義憤至上主義に踊らされることもなくなるのである。
肝心の「内部告発と公益通報」について触れなかったが、組織の不正を正すため「公益通報者保護法」が2006年4月に施行された。
その施行後、予想されていた内部告発として、自衛隊があげられていたが、尖閣列島のビデオ流出事件が起きた。
しかし、告発した当事者は、結果辞職を余儀なくされ生活の基盤を失われたのである。やるせないが、この法律は世の中は損か得かの社会でもあるというのも、前提にしなければならない法律でもある。
だが、八百長や談合も、防ぐことは可能なのである。
トップが絶対に許さないことを公言し、厳罰で対処するならば、不正行為は正されるはずである。したがって、内部告発も不要となると書いてある。
しかし、困ったことに曖昧な法律や規制が存在するからこそ、いわゆる裁量行政が可能となる。そのため、立法や行政側からこれを改めて、守ることが可能な質の高い規範を作ろうという動きは、出てこない構造になっていると、この本は締めくくっている。
話が難しくなったので、我が函館市に置き換えてみよう。
自治体の憲法といわれる「函館市自治基本条例」。中身はこの本の結論そのものである。
それを決議した市議会。承認した行政。
しかし、最終的な責任は、それらを黙認する市民にかかってくる。
民主主義とは市民主権だからである。
戦後66年目の今年。戦後民主主義の成熟度が試される、統一地方選挙がまもなくやってくる。
いつも思うのだが、一票を投じないという権利も、残されていると思うが、つい投票場に足が向く。八百長に加担したくないと思う気持ちも一緒に。


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