Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

2007-02-26 08:05:21 | 
「鼠」

袋小路に迷い込む

叩け!叩け!叩け!
叫べ!叫べ!叫べ!
ひとすじの光さえない闇の中
鼠よ
もがけ!もがけ!もがけ!
拒め!拒め!拒め!
はるか彼方にある、あの街灯まで
お前は走り着けることができるか
それとも引き寄せることができるか

鼠よ
今をどう変える?

教会

2007-02-25 14:07:14 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
自分はクリスチャンではありませんが、
先日に引き続き、また別の教会に行ってみました。

今回は人もかなりいたので、
先日のような大泣きはできませんでしたが、
何となく心を解放できる空間のような気がして、
心を鎮めて来ました。

前を向くにもエネルギーが必要なんですよね。
だからこそ、無駄なところに余計なエネルギーを使わないよう、
心を解放して、肩の力を抜いて.....

一歩なんて贅沢は言わない。
半歩ずつでいいから、前進できたら、と。

ニジンスキイの発狂

2007-02-23 07:34:27 | 言葉・本
チャップリンの自伝に、
「発狂」という非常に強烈な単語が出てきた。
しかし、この本が最初に訳出された1966年当時は、
こういう言葉が適切であると判断されていたのだろう。


 『牧神の午後』を躍らせては、ついにニジンスキイに匹敵するものはいない。彼が創造したあの神秘な世界、悲しい情熱をこめた神になって、その神秘の中で彼が動くとき、あののどかな田園美の陰に秘められていた、目に見えない悲劇的なもの――そういったもののすべてを、彼はほんのわずかな単純な動き一つで、見た目にはなんの苦もなく、実に自然に出していた。
 それから六か月後に、、ニジンスキイは発狂した。思えば、観客を待たせたまま、楽屋でわたしと話しこんでいたあの日の午後、すでにその徴候はあらわれていたのではあるまいか。傷つきやすい一つの魂が、戦争に引き裂かれた動物的な世界から、いまや魂そのものの夢みる彼方の世界へと飛び去って行くそのきっかけを、わたしはこの目で見ていたことになる。

死刑

2007-02-22 07:40:28 | 死・自死
昨日の一般A紙のトップで記事になっていたので、
再考された方も多いのではないでしょうか。
自分もその一人です。

「死刑」

まず、自分は死刑については反対です。

死刑判決を受ける犯罪が、
殺人であること。
その犯人に死刑を執行してしまったら、
その時点で死刑囚と違いが無くなってしまう。
それこそ「目には目を」ということになってしまい、
「人を殺したから殺していい」ではその時点で、
殺人を犯した人と同等になってしまう。

それから、
世の中から冤罪というものが無くならない限り、
どんなに捜査を尽くし、覆し難い証拠があったとしても、
人が人を殺してはいけないと思う。

死刑判決に限らず、
事実、冤罪は存在し続けている。

人間は絶対ではない。
間違いも犯す。
感情にも流される。
理性を失う瞬間もある。
それだからこそ、人間。

被告側も人間だ。
間違いも犯す。
場の空気に流される。
圧力を受ければ、どうでもいいと捨て鉢になり、
虚偽を真実と思い込むこともある。
弱い弱い人間だから。

凶悪犯罪が増えているのも事実だろう。
被害者の感情を汲むことを忘れるワケにはいかない。
しかし、被害者だって、
万が一間違った犯人が死刑判決を受け、
死刑執行されてしまっては、
それでは気は安らがないだろう。

自分の愛する人を殺されて、
殺した人も死刑になり、
自分より先に故人と冥界で再会されてしまっては、
それは何より不快だろう。

死刑は反対です。
刑期短縮を絶対認めない終身刑を最高刑とするべきだと。

泣くということ

2007-02-21 07:31:41 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
ふと、考えた。


子どもの頃、泣くということはイヤな事があったという意思表示だったような気がする。

友人の家からの帰途、走って転んで痛いから泣いてみた。
でも、誰も通らない道で、誰にもなぐさめてももらえず、声もかけてもらえないまま、ひとり家に向かい歩きながら泣いている自分が、少々馬鹿バカしくなってすぐに泣くのを止めたような記憶がある。
友人の家と言っても、子どもの行動範囲だから、すぐ近所なワケで、あっと言う間に家に着く。
伯母が軒先に出てきたところで、また泣き始めてみる。
伯母は擦り剥いた膝小僧を見て、泣いている理由など聞かなくても、黙って手当てをする。
だいたい、その手当ての途中が程よいタイミングだから、そこいらで泣き止む。
自分は転んで痛い思いをしたんだという表明ができたから、既に気が済んだのだ。

しかし、大人になってからは逆に、泣くということは人に隠れてするものになった。
意思表示ではなく、悔し涙がほとんどだ。
人前では必死で堪えて、誰もいなくなったところで、誰にも気付かれないように泣く。
大人泣き。


その悔し涙が人を大人にするのか。
人前で泣けなくなったとき、人は大人になるのか。

我や執着

2007-02-20 07:23:02 | 言葉・本
友人が貸してくれた本から.....


「神は人に悩みなど与えていない。神は問題のみを与えているのだ。悩むのは現世の者の勝手である。人は与えられた問題を努力し、ただ乗り越えればよいのになぜ悩むのであろう。それは我や執着である。自分が苦しいだけであるのに・・・」

「人はなぜ生まれいかに生きるのか」 江原啓之・著


そんな簡単に言わないでよ。

最近

2007-02-19 08:00:03 | つれづれなるままに
先週、今週はかなり仕事が忙しいのです。
結構参っております。

週末は死んでおりました。

3日もBlog更新を怠ったのは、かなり久々ではないかと。

みなさんのBlogへ遊びに行くことはあっても、
コメントを残したり、
ましてや自分のBlogを書くほどのパワーが無かった。

映画もなかなか観る時間が無いし。

はぁ、ただの愚痴ですな(笑)

映画 『幸せのちから』

2007-02-15 07:24:47 | 映画 「い段」
コピーだけで泣けます。
「この手は、離さない ―― 」
「暖かいベッドも、パンを買うお金も、ママもなくしたあの日。」

『幸せのちから』  2006年
原題 : the PURSUIT of HAPPYNESS
監督 : Gabriele Muccino

自分にはちょっとタイムリーな内容でもあり、
泣くに泣けない、情けない。

自分を信じる力こそが、幸せのちからなのかも。
息子を思う気持ちこそが、幸せのちからなのかも。

お涙ちょーだい的なつくりの映画かと、
ちょっと斜に構えてたんですが、
観始めてすぐ、入り込んじまいました(笑)

サクセス・ストーリーではあるけれど、
そういうことより何より、
幸せのちからってパワーをもらえた気がしましたね。

結構きましたよ、この作品、じぶん的には。
タイム・マシーンも......サイコー!

そーいえば、タクシーの屋根の広告に、
デ・ニーロの『レイジング・ブル』が載ってたっけ。
他にもそういう遊びがあったのかなぁ、見つけられなかったけど。

過去を見つめる

2007-02-14 07:22:14 | 言葉・本
― 過去に目を閉ざすものは将来に向かっても盲目となる。

Richard von Weizsaecker
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
ドイツ連邦共和国元大統領(1984-1994年)

礼拝堂

2007-02-13 07:29:51 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
昨日、夕方の一時間半ほど、礼拝堂に行きました。

自分はクリスチャンではありませんが、
優しい笑顔で迎えてくれて、
その笑顔だけで、こちらは涙が溢れてきました。

「好きなところへお座りください」

それきり、一時間半泣きっぱなしでしたね。
自分に対しての様々な疑問の解答を探しながら。

こんな自分が生きている意味があるのか。
こんな辛い思いをしてまで、生きている意味があるのか。
誰にも必要とされていないのに、生きている意味があるのか。

答えなど見つかりません。

それでも、自問を繰り返し、泣くだけ泣いたら、
少し気持ちが楽になりました。

深呼吸をして、外に出て、
なんとなく前を向く気になってきたかな、と。

勇気か度胸

2007-02-12 13:14:59 | 
「勇気か度胸」

近いようで、遠かったり、
遠いようで、近かったり、
そんなところがある

行って見たいのに、
毎日のように入口の前は通るのに、
なかなか踏み入れられない場所

一歩前に出る、
それだけなはず

その一歩が怖い

待っていても、
誰も背中を押してはくれない

今、必要なのは、勇気ってヤツかい?
それとも度胸か?

映画 『グアンタナモ、僕達が見た真実』

2007-02-08 07:26:54 | 映画 「う段」
実話だよ。
中東を民主化するとかエラソーな事言ってる国の人たちの悪事。

『グアンタナモ、僕達が見た真実』  2006年
原題 : THE ROAD TO GUANTANAMO
監督 : Michael Winterbottom

彼らは、どうしてあんな屈辱的な日々を乗り越えることができたのだろう。
彼らこそ、強い人間なんだろう。
彼らの言葉を聞いていると、米兵なんて仔犬が強がって大声で吠えているだけに見えてくる。
彼らの言葉を聞いていると、海兵隊のヤツらの弱さが際立って見える。

一人が言った。
「以前より戒律を守るようになった。前はいい加減だったけど」
そりゃそうさ、どこにでもいるありきたりの若者だったのだから。

一人が言った。
「世の中の見方が完全に変わってしまった。世界はそんなにいいところではないと.....」
そりゃそうさ、ありきたりの人間だったからこそ、そう思ってしまうさ。

一人が言った。
「今になれば、あれはあれで経験だったと思える。」
友人を失ってこそなお、そう言える彼は、すでにどこにでもいるようなありきたりの人間ではなく、人として、自分などより遥か高見にいるのだろう。


アメリカ合衆国のB氏は、最後まで自分が悪かったと言う事は無いのだろうか。

この作品は、彼らの証言を間に挿みながら、ドキュメンタリータッチで描かれている。
日々のニュースと比べてみても、誰が本当の事を語っているのか一目瞭然だ。
米国のB氏や英国のB氏や日本のA氏も観たらいい。名作だよ。
国連総会で上映会したらいい。名作だもの。

悲しさと、人恋しさと

2007-02-07 07:38:04 | 言葉・本
 日曜の夕方など沈みきった気分でいると、ときに陽気な手風琴弾きが、ハイランド・マーチなどを奏しながら流して行くのが、奥の寝室の窓から聞えてくることがある。それにまた元気な若者や、笑いさざめく物売りの娘たちが、一緒に和してついて行くのである。そうした元気な騒ぎが、わたしの不幸に対して無慈悲なほど無関心なように思えて悲しいのだが、そのくせ、しだいに遠く消えて行ってしまうと、こんどは逆にいつまでも聞いていたいような気になるのだった。

チャップリン自伝(上) ― 若き日々
Charles Chaplin

痛いほど分かる、こういう感じ。
チャップリンほどの苦労はしてないとしても.....