Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

泣くということ

2007-02-21 07:31:41 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
ふと、考えた。


子どもの頃、泣くということはイヤな事があったという意思表示だったような気がする。

友人の家からの帰途、走って転んで痛いから泣いてみた。
でも、誰も通らない道で、誰にもなぐさめてももらえず、声もかけてもらえないまま、ひとり家に向かい歩きながら泣いている自分が、少々馬鹿バカしくなってすぐに泣くのを止めたような記憶がある。
友人の家と言っても、子どもの行動範囲だから、すぐ近所なワケで、あっと言う間に家に着く。
伯母が軒先に出てきたところで、また泣き始めてみる。
伯母は擦り剥いた膝小僧を見て、泣いている理由など聞かなくても、黙って手当てをする。
だいたい、その手当ての途中が程よいタイミングだから、そこいらで泣き止む。
自分は転んで痛い思いをしたんだという表明ができたから、既に気が済んだのだ。

しかし、大人になってからは逆に、泣くということは人に隠れてするものになった。
意思表示ではなく、悔し涙がほとんどだ。
人前では必死で堪えて、誰もいなくなったところで、誰にも気付かれないように泣く。
大人泣き。


その悔し涙が人を大人にするのか。
人前で泣けなくなったとき、人は大人になるのか。