Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

そおゆうこと

2006-01-31 22:45:00 | 
「そおゆうこと」

守るべきものがたくさんあることで臆病になってしまうのなら
守るものを放棄してしまうのも一つの手だ。

死に急ぐものがたくさんいることで社会問題となってしまうのなら
人はやさしくならなくてはならない

「痛い」と叫べるダンサーは舞台には立てないが、
右も左もわからない初めての街で、いったいどんな人に道を尋ねられるだろうか。

「難しいんだよ、そおゆうことは」
あなたは言う。
僕は「痛い」を知っているから臆病なんだと申し開きをする。

西風が西から吹く以上、僕に世界は変えられない
守るべきものがたくさんある以上、臆病である自分は変えられない

ダンサーに道を尋ねることで
「難しい」ことを知った僕は
明日には世界を変えるよ

「そおゆうこと」を社会問題にしないためにも
人はやさしくならなくてはならない

西風を守るべきなのは死に急ぐ自分なのかもしれない
明日には世界を変えるからね

小説 『おれたちのレクイエム』

2006-01-30 23:09:54 | 言葉・本
人はある一瞬に大人になる。
ほんの僅かなきっかけで、周りが見える瞬間がある。

 月曜のおれは、なんだかへんてこな気分だった。マークと話したことが、ほんとうにそうなってきやがって。おれはみんなから離れた場所に立って、ただ傍観してるってかんじ。まるでみんなの内側を見すかせるみたいで――考えてること、行動してる理由がみんなわかるんだ――ホントにオカしな気分だったなあ。

 おれは、もう一度幼いころにもどりたかった。ありとあらゆる答えを自分の手に握りしめていたころに。

S.E.ヒントン 『おれたちのレクイエム』
<THAT WAS THEN, THIS IS NOW>より

やり直しがきかないからこそ、人は "生き方" にこだわる。
自分は "死に方" にこだわるけどな。

ヒントン尊敬です。

すべてに

2006-01-29 20:31:52 | 
「すべてに」

一人と孤独と自立
選択と被選別と決断
存在と非協力と単独
無力と他力と独力
生命と精神と責任
冷静と孤立と自信
葛藤と自殺と生活

心を病む恐怖

2006-01-28 17:30:58 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
私の逃れられない恐怖を語ろう。
まず、伯母と姉の話から...

自分を育ててくれたのは伯母だ。
実の母親は子育てを放棄した。
伯母は、老人性痴呆というにはあまりにも早い時期から想像の出来事を本気で語るようになっていた。

姉は最後まで実の母親の愛情を求めていた。
求める気持ちが強くなればなるほど精神に負担がかかってしまい、登校拒否 → 過食症・拒食症 → 対人恐怖症 → 自殺未遂の繰り返し → 分裂症 → The End
最後は空想の中のものを現実として語るようになっていた。
心を病むほどに実の母親の愛情が欲しかったのだろう。
そして、求めても求めても与えてもらえない愛情をあきらめ、死んで行った。
頭のいい、優しい姉だった。

私も常に恐怖を感じている。 なぜなら.....
母親の愛情を知らない。叔母も姉も心に病を持っていた。そういう環境の中にいて、私もそうならないという保障はない。
むしろ、そうなる確率の方が高いのではないだろうか。
その予兆を感じないわけではない。
昔から変わり者と言われているし、それ故に本当の心の底にある本音は表に出せないでいる。
時々、自分はこのまま生きていていいのだろうかと感じることがある。
自分のような時代にそぐわない人間が存在し社会生活を送ることが、世間に対しとてもマイナスになっているのでは、などと考える。
もちろん自分が世間に対して大した影響力があるなどとは思っていない。
ただ、頼れる家族がもういない自分にとって、ほんのわずかであっても、たった一人に対してであっても、マイナスな影響を与えてしまうことがあるのなら、自分の存在は迷惑ではないかと考えてしまう。
こんなことを時々考えている自分を、正直に自分を見つめる故と信じたいが、昨日書いた映画『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』の主人公のように、自分自身を疑ってしまうこともある。
"もしかして、自分も心を病んでいるのではないか" "いつか自分を見失ってしまうのではないか" そんな疑問が恐怖と共に押し寄せる。
しかし、こんな話をできる友人はなかなかいない。"おかしい" と思われてしまいそうだからだ。 "おかしい" と思われることによって、前述の疑問が裏づけされてしまう!
言えない。直接の知り合いにはとても話せない。

だから、自分はBlogを始めた。
友人・知人には一切知らせずに。まったく見ず知らずの未知の人々の中に、"あぁ、その感じわかるな" と思ってくれる人がいないかと.....
そうすれば "あぁ、私はまだ正気なんだろう" と思えるかと.....


しかし、それさえも難しそうだ。
まぁ、気長にのんびりやっていくつもりだ。
いつか、そんな人が見つかることを待ちながら。
ここ(Blog)でこそ、変な人と思われてもいいから、本音で行こう.....
そんな風に思う今日この頃です。

映画 『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』

2006-01-27 22:54:34 | 映画 「う段」
『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』 2005年 John Madden監督

主人公の父 "数学者" は天才故に気をおかしくし、死んだ。
主人公も父の影響で "数学者" としての才能はあるものの、
自分も父のようになるのでは、と内心恐れている。
自分では正気のつもりで周りの出来事を語りながらも、
姉が主人公のことを "おかしくなったのではないか" と疑うたびに、反論しつつ内心自問してしまう。
自分の "世紀の大発見" を最愛の人に認めてもらった後、
"もう一度証明しよう" という彼の前で、
改めて "父のようになるのでは" という恐怖に涙する主人公。


つらいのです。
自分が本気で証明したいことを理解してもらえないとき。
つらいのです。
自分が正気であることを自分自身がどう信じたらいいのか。

主人公の気持ちを、気が付くと自分に置き換えて考えている。

自分も不安でならないのです。

佐世保小6事件に想う...

2006-01-26 22:12:21 | 凸凹な人々へ ∋zooquie

もうおととしになる。

04年6月1日、佐世保で小学六年生の少女が同級生の少女を刺し殺した事件。

あの事件の "最終審判" の記事を読み返していて思い出したことをいくつか。

自分があの女児の "人格特性" について書かれた記事を読んで、友人に 「自分のことを言われているかのように、多くのことが自分に当てはまったんだ」 と言った。 するとその友人は 「みんなすぐそういう事を言うんだよな。自分にも同じ性質があるとか犯人と自分は似てるだとか...。誰だって当てはまるんだよ」 とまるで冷めたことを言った。 それは "誰でも犯罪に走る可能性がある" という意味ではなく、"そうやってすぐに自分に置き換えて分かったような口を利く奴" を嘲笑していたのだ。

そうなんだろうか?

"分かったような口を利く奴" は確かにいるし、ムカつく場合もある。普段たいしてニュースなんて気にもしないヤツが、殺人に至るほどの感情の起伏を体感したことがあるとも思えない。 しかし、ホントにみんながみんな "自分にも当てはまる" と思っているのだろうか? もし多くの人がそう思っていると仮定して、"自分に置き換える" ことは良くないことだろうか?
自分に置き換えることによって、その感情をあやふやながら理解する。 あやふやながらも、そういったことを脳の片隅にでも記憶させておくことによって、もし、自分が感情的に危険な状態が近づいたとき、"あっ、これは危険な徴候だ" と自分で気付くことができるのではないだろうか。 何かを "しでかして" しまう前に一瞬躊躇することができるのではないだろうか。
自分じゃなくてもいい。 人がその状態に近づいていることに気が付くことができれば、言葉をかけることもできるかもしれない。 当人に心の余裕があれば、相談にのることだってできるかもしれない。
これって "人の痛みを感じようとする" ことと同じくらい大切な事じゃないだろうか。

ちなみに、女児の最終審判の中で自分にもあてはまるなぁと思う点は以下の通り。
その辺のヘタな占いより、よっぽど私の性格を的確に表していると思うのだが。

 自分の中にあるあいまいなものを分析し統合して言語化するという一連の作業が苦手。
 幼少期より泣くことが少なく、甘えることもなく、一人でおもちゃで遊んだり、テレビを見たりして過ごすことが多いなど、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的。
 自分の欲求や感情を受けとめてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難かった。
 情緒的な分化が進んでおらず、怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために適切に処理できず、怒りを抑圧・回避する対処行動を持ち得なかった。また、空想に逃避する傾向がある。
 このような女児の不器用さは周囲に気づかれておらず、家庭でも学校でも女児の表現できない思いが酌み取られることはなかった。
 今後、健全な人格を形成するためには、まず情緒的な受容体験に基づく基本的信頼関係を獲得させ、その後に感情や情動の認知と処理方法、自己の意思を伝える方法などの社会的スキルを習得させる必要がある。
 女児の抱えている困難は根深く、内面的には極めて幼い状態であり、基本的信頼感を獲得するにも相当時間を要すると思われる。

自分は、いちお年齢的には大人だし、社会経験もそれなりに色々してきたつもりだ。なので、そんな中で少しは成長したワケで、この女児よりは少しは大人だし、少しは自分を客観的に見たりもしているつもりだ。ただ、今でも成長しないままの部分もあるし、自分でも何とかしたいと思っている部分もあるから、この女児の記事を読み返しながら、時々あやふやながらも自分自身を振り返っているつもりだ

このBlogにも、エラそうなこと書いたりしてるけど、それはそれで、自分の思いを表現する訓練でもあったりする。


カウンセラーを探せ

2006-01-25 23:41:14 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
昨日に引き続き...
学校に対する疑問といえば、もうひとつ。

イジメとか不登校とかが問題になった時、カウンセラーを学校に派遣させるとか、常駐させるとかって話があって、そこで傑作なのは、そのカウンセラーに元校長とか教職経験者とか当てるというもの。

疑問:どーして学校関係者なんだろう。

先生が解決してくれないから、イジメとか不登校とかで悩んでるんだよ。先生に話しても分かってもらえないから、どんどん自分の殻に閉じこもってしまうんだよ。
なのに、カウンセラーまで元先生じゃ、同じことじゃない?何の解決にもならない気がする。
イジメとか不登校とかを経験し、社会に出て行くときの不安を実体験として知ってる人が理想なのではないかと。
または、社会に出て様々な経験をした人でもいい、とにかく先生と呼ばれない人々が話を聞く必要があるんじゃないかなぁ。
そういう人たちにカウンセリングの講習を受けてもらってカウンセラーになってもらう、それがいいと思うなぁ。
一度でも弱い立場に立ったことがないと、弱い人間の気持ちなんてなかなか理解できないもの。
そー思うんですがねぇ。

あー、またついついエラそうに世に批判的なことを書いてしまった。
不愉快な箇所がありましたら、ご指摘下さい。

授業 「自殺の仕方」

2006-01-24 21:37:22 | 死・自死
今思うと、恐ろしい小学校の先生がいた。

私の小学校5,6年の時の担任の先生は、時々科目の授業を返上して、"雑談" と称し、自分の大学時代の経験談とかをおもしろおかしくして話していた。

しかし、中にはかなり嘘も混ざっていたらしい。
例えば、
「自分の友人が入院しているときに、病院のそばを "アサリ" と "シジミ" を売る車が通り、大きな声で "アッサリ~シジメ" (←あっさり死んじめぇ) と言っていた」 とか。
当時、父にその話をしたら 「それは有名な落語だ」 と言われた。
子供なんて、そんなに落語に詳しいコなんていないから、自分のことのように話したってバレやしないと思ったんだろう。
それに、勉強しないで、おもしろい話してくれるから、生徒たちはみんな "雑談" が好きだった。

嘘ではないが、キョーレツなのは「自殺の仕方」を教えたこと。
子供なんて当然そんな知識はないから、なんでも興味津々で聞いている。
「一番確実に死ぬには手首を切るんだ」
「他のところではダメで、手首は動脈が出てるから、血がたくさん出る」なんて言っていた。

私の時代の小学生なんて、深刻に自殺を考えているコがいるなんて思われていなかったけれど、大人の見えないところで、イジメとかは既にあった。
当時は私も興味津々に聞いていたうちの一人だったが、今思うとソラ恐ろしくなってくる。

今でもあるのか知らないけれど、短大で教師になれる学校を出た先生で、2,3年の教師歴でまだ22,23歳くらいだった。
若いしスポーツマンだったので、生徒にも人気があり、ただただ突っ走ってたのかもしれないな。受け売りの情報を自分のこととして話してしまうなんて。

確かに、団塊の世代ほどではないにしても、私の前後の年代も生徒数が異常に多くて、校庭にプレハブ校舎建てたりしてましたから、先生も足りなかったのかもしれない。

大人になって思い返すと、あんなことを生徒に話していたなんて、と今更ながらビックリ。
あの先生もきっと今は40歳を超えているだろうし、まさか今でもそんな話をしてはいないだろうと、信じたいですがね。

それにしても、あまりにも大人になりきれていない、少なくとも生徒に道を逸らさないように心遣いのできる人間になっていない人をさっさと教師にしてしまって良かったのだろうか。
せめて、子供相手だからって嘘をつくような人だけは勘弁して欲しいですね。子供の時ってなんでも信じちゃうんだからナ。

今の子供たちの心を病んだものにしてしまってるのも、間違いなく大人たちのせいだと思うのです。

海兵隊

2006-01-23 23:57:29 | 戦争・紛争・内戦・テロ・虐殺
アメリカ合衆国の最精鋭部隊 "海兵隊" の隊員たちは、
自分たちのことを以下のように評しているそうだ。

「海兵隊は世界でナンバーワンだ」
「海兵隊は降参したことがない。ベトナム戦争でも決して白旗を揚げなかった」
「死んでも目的を果たす。それが海兵隊だ」
「イラク人を悪魔から解放し、自由を味わわせるためなら、僕にも死ぬ覚悟はある」
「まるで僕に向かって話しているようだった。大統領はこの国の父親だ。僕は米国人として、軍人として、大統領が何を決断しようと従う」

『民主帝国 アメリカの実像に迫る』 より


これってまるで宗教ですな。

「○○教は世界でナンバーワンだ」
「○○教は降参したことがない。決して白旗を揚げなかった」
「死んでも目的を果たす。それが○○教だ」
「人々を悪魔から解放し、自由を味わわせるためなら、僕にも死ぬ覚悟はある」
「まるで僕に向かって話しているようだった。教祖様は○○教の父親だ。僕は○○教の信者として、教祖様が何を決断しようと従う」


怖い.....これで人を殺せてしまうなんて。

「平和が絡まる」

2006-01-22 18:05:59 | 
「平和が絡まる」

液体が流れ落ちる
風が通りすぎる
力が抜け
足が絡まる

錨が上げられる
汽笛が鳴り響く
窓を開け
緑を嗅ぐ

猿が器を創る
時が時を重ねる
宙に浮き
青を見る

薬が使われている
空気の色が変わる
痛みを忘れ
睡眠へ落ちる

偽善が認められる
戦いが通り過ぎる
力が抜け
平和が絡まる

映画 『ホテル・ルワンダ』

2006-01-21 12:33:58 | 映画 「お段」
『ホテル・ルワンダ』 2004年 Terry George監督

あまりにもテーマが重過ぎて、映画の良し悪しなどとても語れない。

人はどうしたらあそこまで "悪魔" と成り下がることができるのだろう。
いったい何がそこまでに人間を腐敗させられるのか。

いまだフツ族とツチ族の反目が解決を見ないのは、そこに "悪" 循環の歴史があるからだ。
映画で描かれているのは、フツ族による虐殺から多くのツチ族を救ったフツ族のホテル支配人。
しかし、同様の虐殺がツチ族によってフツ族に対しても行なわれていた。
はじまりは何だったのか。

映画だけではすべては語れない。
それでも、考えるきっかけは与えてくれる。
自分に、世界と歴史のほんの "ひとかけら" ほどの知識もないことに改めて空しさと悔しさを感じた。

そして、自分の無力さが惨めだった。

せめて、考えるきっかけができたのだったら、考え続けよう。、
無力であろうと、惨めであろうと。

チェ・ゲバラ 「新しい人間」

2006-01-19 23:18:19 | キューバ&チェ・ゲバラ
「人間は他人を理解できなければならない。他人がどこに住もうと、どんな信仰をもとうと、文化が何であろうと、その人が苦しんでいるときに、苦しみを分かち合える人間でなければならない。連帯できなければならない。もし他人のことを考えることができるならば、人間は内面で生まれかわらなければならない.....。他人にとって有用な人間になれということと通じます。」

人間にエゴがある以上、究極の理想としか言いようが無いのが悲しい・・・・・・

エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ 1928/6/14生まれ
後に革命家となりチェ・ゲバラと呼ばれる
没 1967/10/9 処刑による

地球は回る

2006-01-18 20:42:46 | 凸凹な人々へ ∋zooquie
日本は今1月18日だ。
ハワイももう18日になってるころだろう。

どーやら地球は回ってるらしい。
回ってる感じはしないけど。
でも、ほっといても勝手に回ってるんだな、きっと。

そうなんだ。
何もしなくても、朝が来て夜が来る。
回り続けているらしい。

しかし、回ってるのとは関係なく、人の営みは波乱万丈。
不思議なもんだ。。。。

地球が回るのを止めたとしても、波乱万丈なのだろうか。

ところで、なんで回ってるんだ?地球は...

究極の自己チュー

2006-01-17 20:52:53 | 死・自死

とある新聞で読んでね、こんなことあるんだなぁと...

自殺防止の活動を続ける民間団体が
シンポジウムを開くという。
かなり前の記事だったから、もう終わってると思うけど。
夫を自殺でなくした女性らが体験を語ったらしい。
単身赴任の夫が電車に飛び込み、自殺した女性。
遺書らしきものには.....
"仕事ができない。全くできない。どうしようもない。
なんでか分かりません。どんどん遅れて全くできません"
「ごめんなさい」と「あかん」が何度も書かれていたそうだ。
周囲には「病死」と伝えていたが、
「なんでうそをつくの」と子どもに問われ、
それを機に「自殺予防につながるなら」と
講演の打診を引き受けたらしい。
弱い人間が勝手に死んだわけじゃない。
追いつめられたのだ。
社会問題として捉えないと、
同じ思いをする人は減らない....

こんな感じの記事です。

私が思うに、"予防" と言ってしまうと、
ちょっと違う方向に行ってしまうんではないかと、気にかかる。

生まれって選べない。国籍、家庭環境、血液型、性別。
1/2の確率の性別さえ選べない。
性同一性障害とかあるし。
生まれ持ったそうゆうもので悩んでるひとも多い。
たぶん性格もそう。 "三つ子の魂百まで" だし。
だから、"死" くらいは選びたい。

そーゆー選択した上での自殺と
突発的に感情的に自殺するのとはひと括りにはできまい。
だから自殺自体を "予防する" という考え方はどーかと。

"選択した自殺" の場合は、熟考の上だし、
その人の生きる苦痛は他人にはなかなか解らないものだから、
"死" くらいは選びたい。 ...そーゆー人もいるだろう。
わかった風な口で相談に乗ると言われても困る。
ただ、それが発作的に行なわれないようにと祈るばかり。
二度ととり戻すことのできないものだから。

後者の場合は、突発的なことが多いから、
たとえ事前に定期的に相談に乗ってもらって、
ある程度落ち着いて行ったとしても、
あるきっかけで一気に気持ちが凹んでしまえば、
そのまま自殺行為に進んでしまえるもんだ。
だから、その瞬間に手を差し伸べることが出来なくては、
事前にどんなことをしてたって、何の意味も無くなってしまう。。。
どんなに沢山のカウンセリングを受けていたとしても、
その瞬間に留守電になってしまうのでは何の意味もない。

上述の記事で言うなら、
当初、周囲に「病死」と言っていたと...、
それって、相手のことを理解しきれていなかったのでは...
と思ってしまう。
それじゃ、確かに、当人が死にたいと思った瞬間に、
手を差し伸べることは難しいんじゃないだろうか。
言ってることキツいですかね?

残された人は確かに辛い。

自殺って究極の自己中だから、
当の本人が死んだ後、周りに迷惑とか精神的負担とかかかる。
それ考えてたらなかなか死ねないね。
だからこそ後者の場合は瞬間が大事なんだよね。
カウンセリングをする側(医者とか)も、すると決めたなら
24h留守電になんかしちゃダメだし、
心療内科の先生は寿退職なんてしちゃいけないよ。

自殺って究極の自己中なんだから、
それを受け入れられるおっきな器がどこかになくちゃ、
減らないんじゃない?

あの・・・そおゆうシンポとかを批判するつもりで書いたワケではないので、気をつけて書いたつもりですが、ヒドイところあったらご指摘下さい。

でも、どうしても書きたかったので、書いてしまいました。