荒巻豊志の整理されないおもちゃ箱

日本一下手なドラマーです。仕事の話をすることはこのブログではめったにありません。

俺と音楽(5)

2012-07-03 00:15:18 | 趣味
長らく遠ざかっていたが再開する。
この記事を書いていく中でJ-Popの歴史とかそういったことに寄り道したりしてるとなんだかぐちゃぐちゃになっていて、それはそれで面白い記事だったとは思うが、ご破算にして簡潔に、とりあえず、この連載を短期集中で終わらせる。


編年体(時系列)で書いていくキリがなくなりそうな気がするので、トピックごとに書いてく。


先日の日記でも書いたが、布袋寅泰は俺の少ない音楽体験の中でかなり長期にわたってそれなりに影響を与えてくれたアーティストだ。

きっかけは盟友岡村隆次が1988年に教えてくれたことだ。
岡村くんの家にあったビデオに釘付けになった記憶がある。
当時、すでにBOOWYは解散しており(解散は88年3月、実質的には87年12月)、ソロ活動をはじめた頃であった。88年12月から90年11月までは吉川晃司とのユニットCOMPLEXを結成しているが、そちらは当時から今に至るまで全く興味がない。

俺は大学生までの間、コンサートと言えばクラッシックと来生たかおと松本伊代しかいったことがない(なんという組み合わせ)。簡単に言ってコンサートにはさほど興味はなかった。レコードで好きな時間に好きな曲を聴いているだけで満足していた。
だから、布袋(BOOWY)を知ったときには解散したとしても曲だけはいくらでも聴ける。ちなみに1987年くらいからレコードとCDの比率が急速に逆転していった時期だが、俺はかなり遅くまでレコード派だった。それがCDに乗り換えたのはBOOWYのおかげといってよい。レコードがすり減るまで聴いたので摩耗しない、音もいい、そして場所もとらないCDに変わるのは時間の問題だったとしても直接のきっかけはBOOWYだった。

何より、「ロック」(ロックとポップスの違いとかはここでは触れない)というジャンルは俺の音楽歴では皆無に等しかったため、すごく新鮮に聴こえたことは間違いない。

オリジナルアルバム6枚で70数曲しかないが初期の何曲を除いてとても気に入った曲ばかりだった。俺は高校のときに少しギターをかじったことがあったが、布袋があまりにもカッコいいので思わずエレキギターを安物だけど買ってしまった。まぁ、一度挫折しているわけで、このときもほとんど練習なんてしないもんだから今でも押し入れの中でそのエレキギターは眠っている。

90年代に入り、俺も働きはじめたために音楽からは遠ざかっていたが、93年に「さらば青春の光」がリリースされる、次に「POISON」が発売されると布袋熱が高まってきた。
項をあらためて書くことになると思うが、BOOWYと同時期に聴きはじめたのが尾崎豊だった。その尾崎が92年4月に死去したことは俺にとってひとつの画期となった。

「やれるときにやっておかないと後悔する」

尾崎のコンサートに一回は行ってみたいと思っていたが一度も行けなかった。BOOWYの場合は知ったときには解散していたわけで、後悔もへちまもなかったが尾崎の場合はいつでも行けることができただけに残念でならなかった。

それからだった。
なるべく時間があればライブを観にいくと決めたのは。

ちょうど来生たかおも活動が下火になり、毎年アルバムを出していたのが97年に止まってしまい、代わりに布袋のライブには行くという感じで交代することになった。

今に至るまで回数だけで言うと布袋のコンサートがダントツに多い。たぶん、60本近くは行っている。来生たかおは毎年いってるが、40回くらいなものだろう。AKB系は劇場をいれたとしてもSDNの20回近くでAKBそのものはまだ10回にも満たない。
フリーライブを入れればPia-no-jaCとタダシンヤが少しずつ増えているがそれでもまだ20回には届いていない。
21世紀に入り、地方都市が何やら大きく変貌しているということが喧伝されるようになったこともあり、コンサートにいくついでにニッポン見学、というコンセプトで各地を回りはじめた。そのため02、03の2年間で40本近くライブに参加し、北は青森から南は大分までいろんなところに行ってきた。これは今でも続けている。


布袋のライブは1996年のKing&Queenツアーから行っているが、2002年のSCORPIO RISING、03年のDOBERMANツアーが最高に楽しかった。ここが俺にとっての布袋のピークと思っている。
「俺にとっての」ということをもう少し話してみる。アーティストそれ自体が進歩しようが変化しようが、それを「悪い」と評価することはできない。だから「俺にとって」、つまり、バイブレートしなくなったということだ。
もともと03年のDOBELMANツアーで燃え尽きたこともあったが、まだ慣性で04、05と応援していたし、ここまでは楽しかった記憶がある。しかし、06年のツアーからBOOWYの曲をもう一度歌うことが多くなると、なんだか俺は好きではなかった。これを感じたのは04年の東京ドームで行われた氷室京介の「氷室VS BOOWY」というコンサートのときだった。会場は明らかに氷室の曲よりもBOOWYのほうが盛り上がっているし、その場では俺もそうだった。ところがDVDが発売されて観てみると明らかに氷室の曲の方が演奏のクオリティが高く感じる。いやクオリティというのはおかしいか。やはり、BOOWYの曲は氷室、まこっちゃん、布袋、松ちゃんの4人のものであって、氷室バンドの腕がいかに高くともBOOWYの再現はできないのだ。

布袋も最近は毎度のようにコンサートでは「Dreamin」や「BAD FEELING」「BEET SWEET」をやっているが、BOOWYのしかもCDの演奏(ライブ映像)に勝っていたと思ったことはない。俺は布袋がいろいろといわれようと実験的に毎年いろんなことをやっていた90年代後半が好きだった。山下久美子とと離婚して今井美樹と再婚したり、高岡早紀との不倫が報道されたりとそういう私生活と関係しているのかはわからないけど、2002年の「SCORPIO RISING」03年の「DOBERMAN」は90年代後半のいろいろな実験を踏まえた蓄積が一気に開花したアルバムだと思っている。

前にも書いたが、布袋が日本から出て活動するはずだったのに、その予定がポシャってしまったことは、ある意味で布袋のライブに行く機会が失われないのだから喜ぶべきであった。
ただ年を追って熱が冷めていった。その背景には2005年に出されたALL TIME SUPER BESTだった。俺としてはこういう懐メロチックな企画は99年のベスト盤だけでよかった。昨年から今年にかけては30周年イヤーということでまた昔の曲をやっている。

こうして俺の求めているものとバイブレートしなくなったが、20年以上に渡ってファンであり続けたことは言葉にできないところでかなりの影響を与えているのかもしれない。

今でもはじめてのアーティストのコンサートに行く時はジャンルにもよるが、ロックの場合には布袋のコンサートが比較対象になるくらい、俺のライブコンサート体験は布袋のライブで培われたものが大きい。

そして、何よりも布袋の後ろで叩いていたザッカリー・アルフォード、酒井愁の二人をみて「ドラムをやりたい」という気持ちが生まれてきたことは今の俺からするととても大きな影響を与えたといってよい。

ただ過去を振り返るだけではなく、いまでも変化し続ける布袋に俺がついていけなくなった、とみることもできるだろう。過去を懐かしむこともできず現在にもついていけない今の俺のおかれている状態が布袋寅泰という鏡に投影されているだけなのかもしれない。






こりゃ、いかん。

2012-07-03 00:06:38 | 日記
税金の支払いが続々とやってくる。
金が湯水のように飛んでいく。


仕事が詰まってきた。
かなり厳しい。明日締め切りの原稿は明日の昼までかたづくはず。
それと別件で原稿依頼をふたつかかえてしまった。そのうちひとつは今から寝るまでの間でかたをつけ、明日、清書して送る。

正直にドラムをやっている暇はなくなってきた。昨年も後で日記を読みなおしてみるが、夏は練習時間はどれくらいあったのだろう。
今のままでは8月は50時間も練習できないと思う。

オークションで売ればどんなに捨て値で売っても100万円にはなろうはずのものでもそれを売り切るのに5年かかり、その送る手間などを考えると捨てた方がいいということで、夏は部屋の大整理を本格的にやる!(予定)。