小林よしのり、中森明夫、宇野常寛、濱野智史の4人による対談。
いつの間にかいろいろと引用していたり書いていたらとてつもない量になってしまった。
逐一チャチャを入れていくのもいいのだが、なんかそこまでする必要があるのかと思い、書いたものはご破算にして、端的にこの本を読んで感じた違和感を述べるだけにとどめる。
この本は誰にむけて作られたのか?。「AKBって何だろう」と興味を持ち始めた人に通じるのだろうか?。AKBが大好きな人ならば面白く読めるのかもしれないが、そうじゃない人には伝わらないと思う。
もちろんAKBに全く興味がない人間はこの本を手にすることすらないわけで、やはり何ほどか興味を持っている人がこの本を読むことになるだろう。
大きくそのとき3つに態度が分かれると思う。俺のように「何いってんの、こいつら?」というグループと「難しくてよくわからない・・・」というグループと、「うん、うん!。それそれ!」と同意してしまうグループとに。つまり、「AKBのすごさを知ってほしい」と言ってはいるが、すごいと思っている人にはそれを認識させるものではあろうが、そうでない人にはなんにもすごさが伝わらない内容だったと思う。
いつしか小林よしのりがAKBに熱中していることは知っていた。まえがきを読むとすでに2009年の「River」のときから好きだったらしい。ここによくありがちな新規が古参ぶる姿をみてとることも可能だ。なぜといって、好きになっていくスピードがあまりにも遅いからだ。どうして急に熱中するようになったのか?、それがこの対談を読む限りは最後までわからなかった。
楽曲を聴いて好きになった、というのは俺と全く一緒だがそこからのフットワークが小林はあまりにも重い。俺は柱の会にさっさと入会し、それが理由となってまだ競争率が今ほど高くなかった時代に9期10期研究生公演を何度も観にいっている。小林がその気になればこの2010年で幾度となく研究生公演にいくことができたはずだ。ところがたぶん秋葉原の劇場公演に行ったのは今年が最初と思われる。しかもたぶん関係者席であろう。ただ理解できるところもある。それは握手会には一度も行ったことがないようだ。ところが「あえてハマっているわけではなく、どっぷりハマっているのだ」といいきってしまうところが、全く俺には理解ができない。握手会にも行かず、どこがハマっているの?という感じだ。
結論から言えば得られることはなにひとつなく、2ちゃんねるを見ている方がよほど面白い。特に濱野の発言は大本営発表を鵜呑みにして勝利に沸くただのパンピーレベルの発言のオンパレードで、CDを58枚も買ったとか、HKTまで観にいったなどといった昨日今日AKBを好きなったピンチケレベルのことしか言えてない。宇野の発言は少し小難しい言葉を使いながら話してはいるが、やはりAKBが好きということを超えてAKBが日本を救う的な発言になっているところが痛々しい。中森はいつもの博識を武器にさまざまなたとえ話で含蓄深い話をしてくれているがやはりAKB万歳というところから一歩も出ていないのが残念だった。
183ページからももくろがAKBにとって脅威か?という話になる。濱野は「ももくろは飽きる。AKBは何度行っても飽きない」とモモクロを脅威と感じてきた小林と意見の相違をみせるが、が中森が強引に話をそらしてしまったために議論が進まなかったのが、この本のすべてを物語っている。
結局のところAKB万歳をひたすら語るだけの本になってしまった。まぁ、AKB好きの4人による対談なのだから仕方がない。「論争」にはなりようはずもない。ひとつだけ論争と呼べるものがあったとすれば、宇野・濱野がAKBは日本を超えて世界に広がっていくと主張するのに対して小林が日本の枠内での展開にとどめておくべきという主張をしたところだった。ここから宇野が一神教を超える多神教としてのAKBといった、かつて大塚英志が言ってたようなことを焼き直して強弁していたのが少し寒くなった。このあたりまで読み進めたら、宇野・濱野に比べて小林の感覚はいたって普通に感じる。
俺は96年から約10年程度プロレスと総合格闘技に興味を持っていた。世の中の流行りと呼応するように00年前後からプロレスから総合格闘技に比重が移り、03年には全くプロレスはみなくなってしまった。
いろんな雑誌とかに目を通したが、週刊ファイトというタブロイド紙があった(廃刊になったが)。「AKB白熱論争」はこの「週刊ファイト」を読んでいる感じに近かった。そういえば、俺もAKBに興味を持っていたとき、いろんなブログをみさせてもらったが、こうしたプロレス的に裏事情を妄想したり、自分たちでそこから物語を紡いでみたりといったものがいくつかあった。「AKB白熱論争」もそうだし、こうしたブログもそうだが、ファイトを読んだときの胡散臭さと同等の臭いを感じた。
握手会で、コンサートで、こんなバカなやつがいたとかハプニングがあったとか、ステージの感想を語り合うのは大好きなのだが、こういう「ウラ読み」とでもいえばいいのか、こういった語り方がどうにも受け付けない。
と思っていたら171ページくらいからAKBはプロレスの進化版、といったような話がしばらく続けられた。やっぱりAKBをプロレスと同じような感じでうけとっているわけね。そういえばよく「AKBはガチです」といわれるがプロレスもまた「プロレスはガチです」といっていた。そのプロレスがガチで弱いことが白日の下にさらされた時、現在に至る長期低迷期を迎えているように、AKBもガチで弱いことがさらされたときにプロレスと同じ運命をたどるかもしれないといった危機感を感じないのだろうか?。
よく「AKBは成長を楽しむ」とか「アイドルは完成されていなくていい」といった物言いがされることがある。俺も最初はそう思っていた。しかし、2年近くもみているとAKBは永遠に成長しないようなシステムになっている。もう1期生たちは7年近くやっているというのになんのスキルが身についたというのであろうか?。俺がファンになった時9期生ががんばっていた(と思っていた)。しかしあれから2年、9期生はいまだにポンコツよばわりされている。つまり、AKBは永遠に未完成でいることを義務づけられているわけで、新規ファンほどこの言葉に惹かれるが長年見ても成長が感じられないところに見切りをつけるか、それとも相変わらず成長を信じて応援し続けるかにわかれるのだろう。
本気で芸能界でやっていきたいと思っているメンバーは、AKBにいることが芸能界に残る最大の手段であると同時に、AKBにいる限り芸能界を渡っていく力をなんら身につけることができないというジレンマを抱えているのかもしれない、ということを考えたらAKBがどうのこうの、という議論はAKBメンバーの将来を考えたことが前提になったうえで語られるべきだ。そういう話が全くなかったのは残念だ、というよりもこのファンになったばかりで一番熱中している時期の4人(中森は少し違うが)には無理だろう。
これは俺の持論だがアイドルとはΦ(空集合)でしかない。だからアイドルを論じる、ということはできない。いや、むしろ、だからこそ自由に論じることができるといってもいいのだが。いずれそのアイドル自身が自らに何か位置づけをしようとすればするほどΦではなくなり、論じるべき対象になるはずが逆に論じる対象からはずれてしまう。AKBにはなぜ論じる楽しさがあるのか、それは中身が空っぽだからだ。7年経ってもいまだに大きくなるばかりで中身が空っぽであることの不気味さが論じる楽しさを持っているのだということがこの本を読んで再認識させられた。
了
いつの間にかいろいろと引用していたり書いていたらとてつもない量になってしまった。
逐一チャチャを入れていくのもいいのだが、なんかそこまでする必要があるのかと思い、書いたものはご破算にして、端的にこの本を読んで感じた違和感を述べるだけにとどめる。
この本は誰にむけて作られたのか?。「AKBって何だろう」と興味を持ち始めた人に通じるのだろうか?。AKBが大好きな人ならば面白く読めるのかもしれないが、そうじゃない人には伝わらないと思う。
もちろんAKBに全く興味がない人間はこの本を手にすることすらないわけで、やはり何ほどか興味を持っている人がこの本を読むことになるだろう。
大きくそのとき3つに態度が分かれると思う。俺のように「何いってんの、こいつら?」というグループと「難しくてよくわからない・・・」というグループと、「うん、うん!。それそれ!」と同意してしまうグループとに。つまり、「AKBのすごさを知ってほしい」と言ってはいるが、すごいと思っている人にはそれを認識させるものではあろうが、そうでない人にはなんにもすごさが伝わらない内容だったと思う。
いつしか小林よしのりがAKBに熱中していることは知っていた。まえがきを読むとすでに2009年の「River」のときから好きだったらしい。ここによくありがちな新規が古参ぶる姿をみてとることも可能だ。なぜといって、好きになっていくスピードがあまりにも遅いからだ。どうして急に熱中するようになったのか?、それがこの対談を読む限りは最後までわからなかった。
楽曲を聴いて好きになった、というのは俺と全く一緒だがそこからのフットワークが小林はあまりにも重い。俺は柱の会にさっさと入会し、それが理由となってまだ競争率が今ほど高くなかった時代に9期10期研究生公演を何度も観にいっている。小林がその気になればこの2010年で幾度となく研究生公演にいくことができたはずだ。ところがたぶん秋葉原の劇場公演に行ったのは今年が最初と思われる。しかもたぶん関係者席であろう。ただ理解できるところもある。それは握手会には一度も行ったことがないようだ。ところが「あえてハマっているわけではなく、どっぷりハマっているのだ」といいきってしまうところが、全く俺には理解ができない。握手会にも行かず、どこがハマっているの?という感じだ。
結論から言えば得られることはなにひとつなく、2ちゃんねるを見ている方がよほど面白い。特に濱野の発言は大本営発表を鵜呑みにして勝利に沸くただのパンピーレベルの発言のオンパレードで、CDを58枚も買ったとか、HKTまで観にいったなどといった昨日今日AKBを好きなったピンチケレベルのことしか言えてない。宇野の発言は少し小難しい言葉を使いながら話してはいるが、やはりAKBが好きということを超えてAKBが日本を救う的な発言になっているところが痛々しい。中森はいつもの博識を武器にさまざまなたとえ話で含蓄深い話をしてくれているがやはりAKB万歳というところから一歩も出ていないのが残念だった。
183ページからももくろがAKBにとって脅威か?という話になる。濱野は「ももくろは飽きる。AKBは何度行っても飽きない」とモモクロを脅威と感じてきた小林と意見の相違をみせるが、が中森が強引に話をそらしてしまったために議論が進まなかったのが、この本のすべてを物語っている。
結局のところAKB万歳をひたすら語るだけの本になってしまった。まぁ、AKB好きの4人による対談なのだから仕方がない。「論争」にはなりようはずもない。ひとつだけ論争と呼べるものがあったとすれば、宇野・濱野がAKBは日本を超えて世界に広がっていくと主張するのに対して小林が日本の枠内での展開にとどめておくべきという主張をしたところだった。ここから宇野が一神教を超える多神教としてのAKBといった、かつて大塚英志が言ってたようなことを焼き直して強弁していたのが少し寒くなった。このあたりまで読み進めたら、宇野・濱野に比べて小林の感覚はいたって普通に感じる。
俺は96年から約10年程度プロレスと総合格闘技に興味を持っていた。世の中の流行りと呼応するように00年前後からプロレスから総合格闘技に比重が移り、03年には全くプロレスはみなくなってしまった。
いろんな雑誌とかに目を通したが、週刊ファイトというタブロイド紙があった(廃刊になったが)。「AKB白熱論争」はこの「週刊ファイト」を読んでいる感じに近かった。そういえば、俺もAKBに興味を持っていたとき、いろんなブログをみさせてもらったが、こうしたプロレス的に裏事情を妄想したり、自分たちでそこから物語を紡いでみたりといったものがいくつかあった。「AKB白熱論争」もそうだし、こうしたブログもそうだが、ファイトを読んだときの胡散臭さと同等の臭いを感じた。
握手会で、コンサートで、こんなバカなやつがいたとかハプニングがあったとか、ステージの感想を語り合うのは大好きなのだが、こういう「ウラ読み」とでもいえばいいのか、こういった語り方がどうにも受け付けない。
と思っていたら171ページくらいからAKBはプロレスの進化版、といったような話がしばらく続けられた。やっぱりAKBをプロレスと同じような感じでうけとっているわけね。そういえばよく「AKBはガチです」といわれるがプロレスもまた「プロレスはガチです」といっていた。そのプロレスがガチで弱いことが白日の下にさらされた時、現在に至る長期低迷期を迎えているように、AKBもガチで弱いことがさらされたときにプロレスと同じ運命をたどるかもしれないといった危機感を感じないのだろうか?。
よく「AKBは成長を楽しむ」とか「アイドルは完成されていなくていい」といった物言いがされることがある。俺も最初はそう思っていた。しかし、2年近くもみているとAKBは永遠に成長しないようなシステムになっている。もう1期生たちは7年近くやっているというのになんのスキルが身についたというのであろうか?。俺がファンになった時9期生ががんばっていた(と思っていた)。しかしあれから2年、9期生はいまだにポンコツよばわりされている。つまり、AKBは永遠に未完成でいることを義務づけられているわけで、新規ファンほどこの言葉に惹かれるが長年見ても成長が感じられないところに見切りをつけるか、それとも相変わらず成長を信じて応援し続けるかにわかれるのだろう。
本気で芸能界でやっていきたいと思っているメンバーは、AKBにいることが芸能界に残る最大の手段であると同時に、AKBにいる限り芸能界を渡っていく力をなんら身につけることができないというジレンマを抱えているのかもしれない、ということを考えたらAKBがどうのこうの、という議論はAKBメンバーの将来を考えたことが前提になったうえで語られるべきだ。そういう話が全くなかったのは残念だ、というよりもこのファンになったばかりで一番熱中している時期の4人(中森は少し違うが)には無理だろう。
これは俺の持論だがアイドルとはΦ(空集合)でしかない。だからアイドルを論じる、ということはできない。いや、むしろ、だからこそ自由に論じることができるといってもいいのだが。いずれそのアイドル自身が自らに何か位置づけをしようとすればするほどΦではなくなり、論じるべき対象になるはずが逆に論じる対象からはずれてしまう。AKBにはなぜ論じる楽しさがあるのか、それは中身が空っぽだからだ。7年経ってもいまだに大きくなるばかりで中身が空っぽであることの不気味さが論じる楽しさを持っているのだということがこの本を読んで再認識させられた。
了