荒巻豊志の整理されないおもちゃ箱

日本一下手なドラマーです。仕事の話をすることはこのブログではめったにありません。

今の自分にできる最高の授業

2014-07-24 13:51:41 | お仕事
今年に入ったくらいから、新しい講座の収録を予定していた。
なかなか雑事に追われていると着手できなかったが、さすがにタイムリミットとなり、久しぶりにテンションを上げて収録にのぞんだ。

教壇に立ってはや四半世紀が経つ。今までに自分が考えたことや学んだことを含め、短い時間だけどそれなりに出すことができた。

麻雀プロになろうと思ったこと。競艇場に毎日通ったこと、二輪ジムカーナでバイクに毎日触れていたこと、日々のドラムの練習も、そして、パズドラも、ぜーーんぶ俺の人生の大切な一コマ。これらが全て今の仕事の糧になっていることが聴いている人にはわからないだろうけど、自分でははっきりとわかる。

今の時点での最高の授業だった。これが一回きりではなくて、収録授業ということもよかった。いつか、このビデオを見直したとき、「今ならもっとうまく教えられてるよ」と思えるように、これからもがんばっていきたいと上を見上げる姿勢を持つことができたのがなによりの収穫だった。

この授業を準備するにあたって、スタッフと今までになく打ち合わせをして、俺のコンディションにも気を使ってもらい、感謝、感謝。

今の東進ハイスクールはこういう授業を作り上げていく体力と余裕がある。かつてならこういう授業はZ会でしかできないと思っていたのだが、いつの間にか逆転していたようだ。

後悔してもはじまらない。いよいよ人生も南二局のはじまり。残された時間で「仕事」をきっちりやっていきたい。



ニコ生出ます

2014-02-24 16:25:27 | お仕事
今週はいよいよ国立大学の2次試験の週になる。

東京大学の入試問題の解説なるものをニコ生でやるようで、その出演依頼が来たので快諾しておいた。

興味ある方は木曜日の夜11時すぎからはじまるらしいのでよろしく。

真面目ではあるけれども傍からみたらふざけているとしか思えないかもしれない。いつも話が広がって(飛んで)しまうのを避けるために手綱をとるアシスタントが隣席する予定。もちろんこれは俺が頼んだこと。

とはいえ、解説に値する問題が出題されないことには話すことなどない。近年、質が劣化していると思っている東大の世界史の問題だが今年こそはかつてのような骨太の良問が出題されることを祈っている。



終了

2013-02-09 12:27:58 | お仕事
2012年度の授業が完全終了。

まだ、入試までは生徒の質問を受け付けたりしなければならんし、入試の後もまだ解答作成などの仕事はあるが、授業はもうない。

大学入試なんぞ、どういう結果が出ようと人生を大きく左右するものではないことは大人になればわかることなのだが、それは試験を受ける当人には絶対にわかり得ない。
だからこそ大学入試問題を作る側は、そのような切羽詰まった気持ちに追い込まれている人たちに失礼のない問題を出題していただきたい。



コーンハウザーの分類では

①エリートに接近できる可能性が高い&非エリートを操作しやすい
②エリートに接近できる可能性が低い&非エリートを操作しやすい
③エリートに接近できる可能性が高い&非エリートを操作しにくい
④エリートに接近できる可能性が低い&非エリートを操作しにくい

の4分類に分け、①を衆愚社会、②を全体主義社会、③を多元社会、④を共同体社会とした。

日本社会がどのように推移してきたかはおいといて、現状が①に近いという認識を俺は持っている。それでも②よりはマシだと考えている。

はたしてエリートへの接近性が大学入試で決まるのか、それともそれ以前の中学高校段階の選別で決まるのか、様々な捉え方はあろうが、やはり大学入試は中学高校段階での選別に対する敗者復活、つまりエリートへ接近できる可能性が高い制度的保障になっていることを考えると、大学入試のあり方は日本社会のあり方の行方を左右するひとつになっていると思っている。

なんか、書いてるといつもの癖でとまらなくなりそうなのでこのへんでやめておく。

試験を受ける諸君にかわって前線に立つことができず、銃後から見守るしかないにもかかわらず、何も励みになる言葉はかけてあげられない自分が少し歯がゆい気もするが、それが俺なのだということは俺の授業を受けていたものにはわかるはず。許せ。


少しだけ雑感

2012-02-29 00:46:24 | お仕事
今年の東大の問題は簡単すぎてつまらなさすぎる、つまり、ひねりがなさすぎると思っていたのだが、どうやら必要以上に複雑に考えてしまうのが子どもというものらしい。

プロクルステースの寝台(知らない人は調べてね~)に乗せてしまうような文章の展開にならないようにすること、しかし、事実の羅列にとどまる愚かな解答にはしないこと、このバランスをとることが意外に難しいのね。






なんかアメリカ外交史のことを少し書いてみた

2012-02-15 01:43:34 | お仕事
現在への問題意識から過去との対話を試みる行為を歴史と呼ぶならば、過去のとらえかたは一定ではない。もちろん事実は変えられないにせよ、その事実をどのようにとらえるのかということは時代によって異なってくる。現在は過去から照射される光を屈折させるプリズムに他ならない。

アメリカの歴史も第二次世界大戦以前はアメリカ史のドラマを進歩主義の立場からとらえていた(これを革新主義学派と呼ぶ)。当然、これはアメリカ合衆国がよかれあしかれ、国際政治において責任ある立場にまだ立っていなかったことが背景にある。

この革新主義学派にかわって1940年代からはパックス=アメリカーナの到来と西側諸国を牽引する必要から過去のアメリカ外交の理想主義的側面を非難する見方が出現した。それがコンセンサス史学だ。革新主義学派が南北戦争をはじめとして、合衆国の内部対立がヘーゲル的に止揚され社会正義が実現される、ととらえるのではなく、表面的には対立こそあれ、自由を基調とする思想はアメリカ国民に共有される基本的価値という前提にたち、植民地時代からのアメリカの連続性を強調する立場だ。

1960年代からはベトナム戦争の影響が新たな流れを生み出す。ニューレフト史学と呼んだり修正主義とも呼んだりする。冷戦の起源ですら、コンセンサス史学がソ連有罪論を主張するのに対してニューレフトはアメリカ有罪論を展開する。
その後もニクソン以降のアメリカ社会の保守回帰の流れや、冷戦の終了といった出来事の中で新しい歴史の見方があらわれている。ただ、コンセンサス史学とニューレフトの流れを洗練させ受け継ぐというかたちであり、研究方法はより精緻になったが両者の対立は依然として続いているともいえる。最後にこれらのことを踏まえてクラウス=オッフェの「アメリカの省察」をもう一度読みなおしてみたい。

冷戦期の外交については依然として対立する見方があるとはいえ、大きな見解の違いは19世紀までのアメリカ外交ではみられなくなった。そこで、およそ20世紀に入るまでのアメリカ外交について素描していく。

建国以来19世紀後半にいたるアメリカ外交は革新主義学派が主張するように、アメリカ外交の理想への追求や動機の純粋さとは裏腹にきわめて現実主義的であった。それは19世紀を通じてアメリカと政治体制から言えば対極にあったロシアと友好関係が続くことにみてとれる(南北戦争期はロシアは北部を支援、クリミア戦争でもアメリカは好意的中立)。後述するモンロー宣言も、ヨーロッパ諸国がイギリスと対立してまでラテンアメリカ諸国の独立運動を抑えにくることはないという現実的な判断があった。だいたいにおいて、独立戦争の時点からしてブルボン朝絶対主義フランスと同盟を結んで戦っているのだから。

むしろ、アメリカ外交が理想の追求というようなことを掲げはじめるのは20世紀になってからといってよい。それがウィルソン大統領のときである。ウィルソンは伝統的な孤立主義的外交にメスを入れた。それを国際主義的と表現することにしよう。このウィルソン的国際主義は国内の反発もあり1920年代には後退をみせる。確かにワシントン会議をはじめとしてアメリカの国際政治におけるプレゼンスは高まっており、世界がアメリカを必要とする場面は多々みられた。ただ、アメリカはこれらの関わりが軍事的なコミットメントを伴うことについては断固として距離を置き続けた。それは国際連盟に不参加や不戦条約の主唱国であることからもわかる。

この孤立主義路線は第二次世界大戦後になると完全に決別することになる。これがトルーマン=ドクトリンだ。ところが、このトルーマンドクトリンはモンロー主義の拡大と言われる。つまり、孤立主義とモンロー主義は大きく異なる。

アメリカ合衆国の外交と言えば、その代名詞とも言えるのが「モンロー主義」だ。以下はアメリカ大使館のホームページに掲載されているモンロー宣言の全文だ。


「モンロー主義は、1823年12月2日に、モンロー大統領の7回目の年次教書で表明された。
  ・・・わが国に駐在するロシア皇帝の公使によってもたらされたロシア帝国政府の提案を受け、北米大陸の北西沿岸部における両国それぞれの権利および利益に関する問題を、友好的な交渉によって取り決めるための全権と指示が、米国の駐サンクトペテルブルクの公使に送付された。ロシア皇帝陛下は同様の提案を英国にも行い、これも同じく受け入れられた。アメリカ合衆国政府はこの友好的な手続きにより、皇帝陛下の友情を常に高く評価してきたこと、ならびに皇帝陛下の政府に対する最良の理解を深めたいと切望していることを、是非明らかにしたいと考えてきた。この件が重要性を帯びるに至った議論と、これを終了させる取り決めを行う中で、合衆国の権利および利益にかかわる原則として、これまで自由で独立した状態をもち、それを維持してきた③南北アメリカ大陸は、今後、ヨーロッパのいかなる国によっても将来の植民地化の対象とみなされてはならないということを、この機会に主張するのが適当であると判断した・・・。
  前会期の冒頭で、スペインおよびポルトガルでは、両国民の状況を改善するために多大な努力が払われ、それは極めて温和な手段で行われているようだ、との陳述があった。その努力の成果がこれまでのところ大きく期待外れに終わっていることは、論じるまでもないことである。我々と深い交流があり、我々の出自に由来する、地球上のその地域で起こっている出来事に関して、我々は常に懸念と関心を抱く観察者であり続けてきた。合衆国の市民は、大西洋の向こう側に住む同胞の自由と幸福を好感する、最も友好的な感情を心に抱いている。合衆国は、ヨーロッパ諸国間の、彼ら自身の問題にかかわる戦争には、全く参加してこなかったし、またそうすることはわが国の政策にそぐわない。我々が損害に対して憤ったり、祖国防衛の準備を行ったりするのは、我々の権利が侵されたり、重大な脅威にさらされたりする場合だけである。わが国は、西半球での動向に、より直接的に関係しており、その理由は、賢明で厳正な観察者であれば誰にも明白である。この点において、①同盟諸国の政治体制はアメリカの政治体制と本質的に異なる。この違いは、それぞれの政府に存在するものから生じている。そして、非常に多くの生命や財産を失って成し遂げ、最も賢明な市民の知恵によって完成し、ほかに例を見ない幸福を享受してきたわが国の政治体制を守るために、全国民が献身している。従って、アメリカ合衆国と列強の間に存在する誠実な友好関係のおかげで、②わが国は、西半球のいかなる地域であろうとも、ヨーロッパ列強がその政治体制の拡大を試みた場合には、わが国の平和と安全に危害を与える行為とみなすと宣言することができる。いかなるヨーロッパ諸国が現有する植民地もしくは属国にも、わが国はこれまで干渉しなかったし、今後も干渉しない。しかし、独立を宣言してこれを維持している政府であって、大きな熟慮と公正な原則に基づいてわが国がその独立を承認したものについては、これを弾圧するため、もしくはその他いかなる方法であろうともその運命を支配するためヨーロッパ列強が介入を行った場合には、アメリカ合衆国に対する非友好的な気持ちの現れとみなすしかない。これらの政府とスペインとの戦争においては、わが国は新政府を承認した時点で中立を宣言した。そして、これまで中立を堅持してきたし、本国政府の有能な当局の判断によって、合衆国側の対応の変化が安全保障上不可欠とされるような変化が起きない限りは、今後もこれを堅持する。
  スペインとポルトガルの最近の出来事は、ヨーロッパがまだ安定していないことを示している。この重要な事実の最も明確な証拠は、同盟諸国が、彼ら自身の満足する原則に基づいて、スペインの内政に対する武力介入が適切だったと考えたことである。同じ原則に基づいて、このような介入がどこまで許されるのかということは、政体がヨーロッパ列強のものと異なる独立国であれば、どれほどヨーロッパから離れていようともすべての国が関心を持っている疑問である。その中でも、アメリカ合衆国ほど強い関心を持っている国はない。ヨーロッパに対するわが国の政策は、地球上のかの地域をこれほど長く苦しめてきた戦争が始まったばかりの段階で採用されたものだが、今でも変わっていない。それは、ヨーロッパのどの国であろうと、内政には干渉せず、事実上の政府をわが国が認める正統な政府とみなし、この政府と友好関係を構築し、あらゆる場面において、すべての国の正当な主張に合致し、誰からも損害を被ることなく、率直で確固たる、雄々しい政策によって、この関係を保持するという政策である。だが南北アメリカ大陸に関する限り、状況は顕著に異なっている。④同盟諸国が、わが国の平和と幸福を危険にさらすことなく、南北両大陸のいずれかの地域にその政治体制を拡張することは不可能である。また、我々の南の兄弟たちが自由意思に任された場合、自発的にそれを採用すると考える者は誰もいない。従って、いかなる形であっても、かかる介入をわが国が無関心に眺めていることも、同様に不可能である。スペインとこれらの新政府が持つ力および資源を比較し、両者の距離を考えた場合、スペインが新政府を服従させることが決してできないのは明白だと言わざるを得ない。物事を当事者の手に委ねることが、依然としてアメリカ合衆国の真の政策であり、ほかの諸国もこれに従うことを期待する・・・。



このモンロー宣言はフランス革命戦争に中立を宣言したG.ワシントン外交を受け継ぐもの、つまり、孤立主義と同一視されることがあるのだが、それは正確ではない。下線部②④をみればわかるようにアメリカ合衆国は南北アメリカに興味関心をもっていることがわかる。むしろモンロー宣言は「明白な天命(マニフェスト=デスティニー)」とのつながりが強い。ヨーロッパとアメリカ合衆国が相互不干渉(=孤立主義)というのは、アメリカ合衆国がアメリカ大陸に影響力を持つ(=モンロー主義)と矛盾するわけではないが、それはあくまで19世紀までのことだ。アメリカ合衆国がヨーロッパ情勢に介入する(=国際主義)ようになってもモンロー主義は否定されない。アメリカ合衆国は建国以来膨張主義的傾向を持っていたのだ。ただ、国力のなさが、それを実行に移せなかっただけだ。だから、南北戦争以後アメリカにその力がついてくるとモンロー主義の持つ膨張主義的傾向が強くなる。そして、世界最大の経済力を持つに至って、アメリカの製品を売ることがアメリカの文化・思想の電波につながるという理想主義的側面を強くもたせていく。
だいたいにおいて、マニフェスト=デスティニーもモンロー主義もアメリカが勝手に決めたことであり、それを外交方針にするというのはいかなるものか。そこでよくいわれるのが「アメリカの外交は内政の延長」と言われるものである。外交が他国との交渉、というよりもまず、外交にあたってその方向性を国民に納得させなければならない。そのためアメリカ国民の精神性に訴え(アメリカの外交に正統性=レジティマシーを与える)なければならないのだ。

俺たちはバカなヨーロッパとは違うんだ(=孤立主義)という姿勢も、俺たちは優れているから俺たちの考えを広める(=モンロー主義)もアメリカ国民のメンタリティーからは全く矛盾しない。つまり、アメリカ国民のメンタリティは、植民地時代から築かれた要素(キリスト教の要素が強い=マニフェスト=デスティニー的精神)と大西洋という地理的特性が生み出した要素(孤立主義)、さらにはそれらを政治家はネタとしてとらえていたもののマジに受け取ったアメリカ国民によって随時再生産されていったものといえよう。
このモンロー宣言が拡大解釈されていく可能性を残したのは①の部分であった。南北アメリカという地理的範囲を超えて「社会主義の脅威に対抗するために」ヨーロッパへの介入を試みるトルーマンドクトリンはまさにこの①を拡大解釈した20世紀版モンロー宣言といってよい。つまり、モンロー主義が変質するというのは第二次世界大戦後であり、19世紀末にアメリカ合衆国が膨張主義的傾向を実際に見せ始めることをもって変質とは呼ばないのだ。

以上のことをふまえると「モンロー宣言の内容を60字以内で述べなさい」といわれたら、上の文を2行に要約せよということになるのだが、これが意外と答えにくい。「内容」というのがどこまでが内容なのか判断がつきにくいからだ。当然のように「膨張主義的傾向をはじめて表明した」ともいえる。②④の部分を強調したものだ。ところが後に拡大解釈のタネになる①の部分を使って「ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国の政治体制の違いをふまえ双方の相互不干渉を主張した」という解答だとだめなのか?。さらにいえば、③の部分から「ロシアの太平洋岸南下とラテンアメリカ諸国の独立運動への弾圧への抗議からヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸へ勢力を拡張することを警戒したもの」という解答もありえる。まぁ、現実には最後のものが受験性的と言えばそれまでだ。



アメリカ合衆国は帝国主義政策をとったのか?。という問いを立てる。「汚れなきアメリカ=ヨーロッパとは違うアメリカ」という像からは、帝国主義政策をアメリカがとっているはずがない、という物言いになってしまう。実際に革新主義学派は米西戦争にみられる植民地獲得政策を「大いなる逸脱」と呼んで例外扱いしていた。ただ、不思議なことにラテンアメリカ諸国に対する高圧的な態度(棍棒外交)はアメリカ国民にはさほど帝国主義的政策とは映らなかったようで、このあたりはアメリカ国民のアジア・アフリカに対する視線とラテンアメリカに対する視線およびパターナリズムの観点からもう少し考えてみる必要がある。

アメリカ合衆国が帝国主義政策をとったのか?という問いは結局のところ「帝国主義とは何か」というとらえかたによって答え方が異なってくることになる。ギャラハーとロビンソンらによる「自由貿易帝国主義」という概念の導入をみれば明らかなようにアメリカも「門戸開放帝国主義」と呼ぶものをとっていたととらえるのがよいだろう。自由貿易帝国主義と門戸開放帝国主義にさして違いはない。圧倒的な経済力を背景に実効的な政治支配を伴わずに影響かにおこうとするものである。

門戸開放宣言が出される背景には、米西戦争とそれによるフィリピン併合および中国における義和団事件があった。1898年に米西戦争に勝利したアメリカはフィリピンを獲得するがここで反米闘争が展開される。これを武力で鎮圧していく際にアメリカ国内では「我が国もヨーロッパのような帝国主義外交を展開するのか」という批判世論がおこっていた。この批判の矛先をかわさなければならない。さらにフィリピンに主力を投入しているために中国の義和団事件には大軍を投入できなかった。もしかすると義和団事件鎮圧に乗じてさらなる中国分割がヨーロッパ列強によって進められるかもしれない。これを抑制しなければならない。このふたつの要請が門戸開放宣言につながる。

門戸開放宣言の両義性は国内の反帝国主義者の矛先をそらすだけでなく、中国進出を進めたい国内の帝国主義者の希望にも沿ったところである(ヨーロッパ列強が中国進出を進めたらアメリカの中国進出の余地がなくなるから)。この帝国主義者の希望にも沿った、というところを強調すれば先に行った門戸開放帝国主義になる。この門戸開放宣言をかたちだけでもヨーロッパ列強が受け入れたのは義和団事件における中国ナショナリズムの爆発がこれ以上の中国分割を困難にすると判断したことであり、結局中国は半植民地状態と呼ばれる状態が続く。

「米西戦争後のアメリカ合衆国の対中国政策の特徴を90字以内で説明しなさい」といわれたら、誰もが門戸開放宣言のことを思い浮かべるところまではよい。それをどうやって解答にするかだ。ここで前提となるのは、この出題者の日本語の使い方が誤っていないということだ。「特徴」という言葉を踏まえたら、「他のヨーロッパ諸国の中国政策との違い」ということになる。もちろん、90字もあるので、門戸開放宣言の内容に触れることはいた仕方ない。ただ、それだけではたんなる内容になってしまうのでいただけない。結局は先に触れた門戸開放帝国主義についての理解がなければならないことになる。「植民地支配を目論むことなく」という言葉を入れておけば十分に違いは表現できる。後は好きに書け。

疲れたのでもう終わり。本来は第二次世界大戦くらいまでいっぱい書いていたんだが専門的なこともあり、5分の一くらいに削った。いずれ、暇ができればだが、そして、もっと読みたいというやつがいればこのあたりを書いてもいいが、こんなことくらいアメリカ外交史の本を読めばだいたいわかるわけで俺の手による必要はないと思われる。