荒巻豊志の整理されないおもちゃ箱

日本一下手なドラマーです。仕事の話をすることはこのブログではめったにありません。

俺の仕事は?(4)

2011-07-01 23:24:52 | お仕事
TKB48の悪口ばかりをいっても仕方がない。
少しはほめておこう。
それは1997年の出題だ。この年、とてもユニークな出題がされた。

アメリカの中国学者フェアバンクの「中国~社会と歴史」の任意のページが延々と問題冊子に掲載されている。

問いは「次の文章を読み、近代と前近代における中国の対外関係について、その相違と共通点に注意しながら、要約しなさい」

というもの。「要約しなさい」???。まだ予備校講師として駆け出しだった俺は「なんじゃ、これ」と思ったことはここだけの話にしておく。
これぞ、最高の世界史の論述問題だ。要約するというのは文章を適当にまとめていくことではない。大学にはいってゼミでレジュメを切るときなんかは、この要約するという技術がとても重要になる(と思っている)。

そんなことは小論文や国語で勉強すればいいのではないかという意見もあろうが、世界史でやってはいけないということはない。実際に中国の外交観を全く知らないものが、この文章をいきなり読んでもまとめられるわけがない。
といって、自分の意見を開陳すればいいのではなく、そのバランス感覚を養うのに他人の文章を要約するということはとても理解力を高めるのに役に立つと思っている。

この形式がわずか一度だけで、現在にいたるまでTKB48だけではなくどの大学でもやっていないことである。
どこの大学もはっきりいって、1980年代からシステム化された大学入試の中でネタが切れている。センター試験ですら過去の良問の中からリサイクル(リユース)することが行われている。
この「要約」というスタイルが広がることを切に願ってやまない。




入学時期を春から秋に?

2011-07-01 23:23:48 | お仕事
ヤフーのトップページで東京大学が9月入学を検討しているというニュースが出ていた。

短い記事だが「欧米は9月入学が一般的で、日本の大学と入学のずれが留学を阻害する一因となっている」「国際的に通用するタフな東大生を育てるため」とのこと。ちなみに入学試験は現行の春のままで、「合格から秋に入学するまでの約半年間は、留学やボランティア活動などに使う」んだって。

さぁ、どうなるだろうね。東大が踏み切れば社会全体が舵を切るか?。はたまたうまくいかず10年近く続けたら元に戻すか?。


9月入学の是非という議論は新しいものではない。俺が大学生のころから出てきた。時の総理は中曽根康弘。「国際化」という英語にしづらい言葉が流行しはじめたのはこのころだ。
つまり、9月入学にしたほうがいいという議論は、この「国際標準」にあわせたほうがいいというところに全てがよっている。対して従来通りでいいという意見に説得力があるものはない。「桜の季節に卒業と入学をするのが日本人だ」というセンチメントなものだ。

まず、簡単にながめておくと、明治の初期は西欧化政策の下で9月入学であった。しかし、予算の会計年度を4月から3月の間に決めた1886年から徐々に4月入学が奨励される。一節によると、陸軍大学と海軍大学が1880年代に相次いで設立され、優秀な学生が先に撮られてしまう懸念から、学校も4月入学にシフトせざるをえなかったという見方もある。大正時代になると全てが4月入学にシフトしてしまった。

さて、この問題だが9月入学にする側に説明責任がある。世の中を変えたいときには変えたくない方に理由を求める必要はない。したがって、上に書いたように「留学がしにくい」といった「実利」を全面に出した意見になる。そして、「かつて、日本でもやっていたではないか」という根拠もつける。
このあたりは、俺の授業を聞いたものの中には「修学旅行の行き先をどうやって変えるか」という話に類似していることを思い出したものもいるだろう。

俺の意見は9月入学にしたほうがいいというものだ。しかも大学に限って、である。卒業も従来通り3月でかまわない。ただ、上の記事にあるように入学試験も従来通りの2~3月ということには同意しない。入学試験は7月終わりくらいでよい。
その最大の理由は、もっと高校生のときにしかやれないことをやるべきだと思っているからだ。別に塾・予備校に行くなと言っているわけではなく、行きたいものはいけばいい。ただ、受験勉強なんて高校を卒業する3月から7月までの4ヶ月間くらいでみっちり詰め込めばいいではないかといっているだけだ。
思考力を養うにはじっくり考えることも必要だ。そこをスポイルして目先の点数をとるために詰め込み型の勉強をしてしまうことの弊害がわかっていたから「ゆとり教育」をはじめたのではなかったのか?。

話は飛ぶが、「ゆとり教育」のどこが間違っていたのかというと、小学校にゆとりを作ってしまったことだ。ゆとりは上級学校にいくにしたがって作るべきだったのだ。高校生あたりになると、無性にハプスブルク家の本ばかり読んでみたいとか、量子力学に興味を持つとかひとりひとりの指向が異なってくる。それを探求する時間を与えた方がいいに決まっている。もちろん、遊びたいやつは遊べばいいが、自分の好きな勉強をしたい人にその時間を与えないことがどれだけの才能を摘んでいるか。
「高校3年生は高校3年生にあらず、受験生である」といわれて久しいが受験生になるのは3月から7月までの4ヶ月で十分である。

安倍晋三総理の時代から大学が各自9月入学(秋期入学)をとっていいことが決まり、徐々に実施する大学も増えているようだが、それは国際化でもなんでもない。ただ、9月入学と名前をつけて生徒を確保しようとするあさましいビジネス感覚でしかない。
学力競争ではなく学校間競争にあけくれる日本の大学は青田買いのように大学入学の時期が早まっている。推薦入学で秋になるとすでに進路が決まる生徒が毎年増えてくる。この状態で9月入学に全てが移行したらどうなるのか?。1年近く遊ばせることになるのか?。もちろん、勉強がしたいやつはここでやればいいという意見はありえる。だが、現実にはただ「遊ぶ」だけになるだろう。もちろん、「遊ぶ」ことと「勉強する」ことの優劣もそう簡単にはつけられない。
ということで、結局は俺はこの議論についてはよくわからないということになる。ただ職業人として日々生徒の姿をみていて、学校と塾の往復でたいへんだなぁと勝手に思ってしまうだけだ。
勘違いしないでほしいのは、俺は子どものためとか何も思っていない。
授業を延長したいにも関わらず、次の日も朝から学校ということを考えると、授業をやめざるをえないのが惜しいのだ。
4月から7月までまさに円覚寺の座禅研修のごとく、朝から晩まで勉強づけにしてやりたい。性根のないやつは受験なんぞやめてしまえと口で言うだけでなく体に勉強することを叩き込ませてやりたいだけだ。つまり、先に触れた「9月入学で子どもにゆとりを」はネタであって、俺の本心は「真の受験勉強(詰め込み)を貫徹させるために」こその9月入学なのだ。もちろん、推薦入学とかそんなものは全廃。

もっと、スパルタンに生きようぜ。

話は尽きない。日本人の「儀式」に関する意識などにも広がるがこのへんでやめておく。