散歩の時に見つけた!

東京都内を散策しますが、こんな所にこんなものがと再発見します。写真を添えて紹介します。

コブシ咲き・香る沈丁花

2016-03-26 06:03:39 | 日記

       

           沈丁花

 靖国神社の桜が咲いて開花宣言。近所の公園では、ふくよかないい香りの沈丁花を見つけ

ました。しばらく歩くと、民家の庭にコブシの花が咲いていて、春を実感しています。コブシの花

を見ると、どうしても千昌夫さんの北国の春を思い出しますね。    

        ユキヤナギ

  白樺 青空 南風 コブシ咲く あの丘 北国の ああ北国の春 季節が都会では わ

からないだろうと 届いたおふくろの小さな包み・・・・・・  とついつい口ずさんでいます。

 コブシの花ことば 信頼 友情とあり 乙女のはにかみ もあるようですよ。

   


世田谷城址公園

2016-03-25 06:05:06 | 日記

       

         

 世田谷区豪徳寺2丁目のこの公園は、昭和15年(1940)に開園した世田谷区内唯一の「歴

史公園」で、東京都指定文化財なもなっています。公園内には、昔の面影を残す土塁や丘、谷

があり、樹木に覆われた自然豊かな公園で、世田谷百景にも選ばれています。さぎ草伝説の

主人公「常盤姫」もここに住んでいました。  

        

 世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東官領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国

世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりと伝えられています。以後、吉良八代、二百数十

年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所とよばれました。天正18年(1590)豊臣秀

吉が小田原の北条氏を亡ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたた

め廃城となったものです。(写真Mr麹町)


豪徳寺・井伊直弼の墓

2016-03-24 06:05:58 | 日記

       

          

 井伊直弼(1815-60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、嘉永三年(1850)四

月大老となりました。勅許を待たずに日米修好通商条約など安政五カ国条約に調印しました。

 また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑える

という強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、

遂に安政七年三月、江戸城桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺されました。  

        六地蔵

 世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬されました。墓石の高さは342センチメー

トル、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚大居士」とあります。これは、昭和47年

4月19日東京都旧跡となりました。(写真Mr麹町)

 


豪徳寺(2)

2016-03-23 06:03:00 | 日記

       仏殿

          三重塔

 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建

立したと伝えられる弘徳院を前身とします。仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造

営事業の中心的建造物です。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院

のふたりであったとされます。    

       

 掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝四年(1676)建設に着手し、翌延宝五年に完成

したということです。豪徳寺四世天極秀道の代で、工匠星野市左衛門尉積則らが造営にあたっ

た伝えられます。これは建築史学上、また技術的にも価値の高いものと評価されています。

(写真Mr麹町)


豪徳寺(世田谷)

2016-03-22 06:08:32 | 日記

      

         

招き猫で知られる豪徳寺です。鷹狩の帰りに通りかかった彦根藩主井伊直孝にたいして、寺

の飼い猫が手招きしたため、直孝はここで一休みすることにしました。そして寺の住職からお茶

の接待を受けている最中に、空模様が悪くなり雷雨になってしまったのです。「猫が招いてくれ

たおかげで濡れなくてよかった。これは縁起がいい。」と直孝は喜びました。

       

                 本殿        

 これが縁でこの寺が井伊家の菩提寺となり、直孝が没すると直孝の院号「久昌院殿豪徳天

英居士」にちなみ、寺の名前を豪徳寺と改めました。聞くと、猫が耳の後ろをさすりながら毛

づくろいをしていたのを直孝が見て、猫が自分を手招きしていると思ったのではないか・・・との

設も伝えられます。面白いですね。(写真Mr麹町)