マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「12人の怒れる男」にみる米露比較

2016-10-05 23:40:10 | 日記
シドニー・ルメット版の「12人の怒れる男」の場合は、裁判で法と正義を守ればそれでいい、
後は自分たちが何もしなくてもちゃんと行われる、ということだったのだろうが
ロシア人であり、上映当時はソ連人であったニキータ・ミハルコフ監督にとっては、
アメリカでの法の正義などは最初から黒人は明らかに除外されていて、せいぜい白人中間層以上の
ものにすぎないのに、米国ではこの様に行われていますという映画が、
プロパガンダとの批判も浴びずに名作扱いされているのが不思議だったのだろう。
エマニュエル・トッドの言うところの核家族が、法の理念の基にやっていくのとは違う在り方も、
大家族制の影響の基に平等だが権威を受け入れる国でも在るというのを
示したかったのではないのだろうか?
そのために容疑者役がチェチェン出身の有色人種とみなされる少年になったのでは
ないだろうか?
民族や肌の色が違っても、一度自分たちの一員になれば、自分たちで守る
という大家族制のあり方を示したかったのではないか?
米国のように移民した人たちが多数派として住んでいるのとは違い、歴史的に好むと好まざるにかかわらず、
様々な民族、人種が混じり合ってきたロシアの在り方の価値も見せたかったのだろう。
「太陽に灼かれて」で描かれているような、個人や理念ではどうしようもないことを
歴史として抱えている国の懐の深さを表現したかったのだろう。