この著書で書かれているような、途上国の貧困地帯において、
援助する相手に社会的インフラがあまり無かったり、
警察などが庶民を助けるわけではない所に住んでいると、
援助する相手が様々な嘘をつく、不正をするなども、その人達が
そこで生き延びるために必要な生き方として接するのだろう。
曽野綾子氏自身が、親の暴力や、敗戦後の混乱などの体験を通じて
そのようなことも有る、として解るようなった点も多いのだろう。
相手の不正や悪を糾弾する訳でも認める訳でもなく、気づかないふりをして
計算して接するというのは、
相手の置かれた様々な不条理や困難な状況においては、
様々な方法をとって切り抜けようとするという認識にたってのことだろう。
リベラルで進歩的な方たちは、そのような懐の深さを見習うべきだろう。
「都市を生き抜くための狡知」小川さやか著:に書かれている、
タンザニアの零細小売商の青年の言っていた、
友だちを信じるということは、彼が絶対に嘘をつかないとか、絶対に裏切らないとか、
困ったことがあれば、絶対に助けてくれるはずだと信じることではない。
そういう「絶対」というのは友だちに一方的に期待していることであり、
彼を信じているということではない。友だちを信じるということは、
彼は困ったらこうするというのを他の人よりも自分が理解しているということだ。
… あいつならこうするに違いないと知りながら、気づかないふりをしたり、
騙されてあげたり、怒ってみたりしながら、うまくまわっているのがオレたち
の友情だ。(pp.183-4)
というのに通じることだろう。