♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

「原爆関連慰霊碑等巡り」ということにして改定中

2006年12月21日 18時11分43秒 | 原爆慰霊碑等
画像はわが町に建立の『瀬野川地区原爆死没者追悼碑』をきょう(12月21日)撮影したものです。

ホームページ項目原爆関連慰霊碑等画像一覧と平和祈念関連碑等建立地一覧をまとめて1つの「原爆関連慰霊碑等巡り」としました。
そして開いた頁に、フレームをつけて、
平和祈念関連碑等建立地一覧、原爆関連慰霊碑等画像一覧等をまとめてみれるように、改造をはじめました。

原爆関連慰霊碑等巡り

HP本体の広島ぶらり散歩


※瀬野川地区原爆死没者追悼碑碑文一部
・・・黒こげになった屍の山、眼球や内臓のとびだした死体、黒こげの満員電車、倒れた家の下敷きになり生きながら焼かれた人たち、人の世の出来ごととはいえない無残な光景であった。瀬野川地区でも建物疎開、学徒動員等で172名が死没され、4446名の方が、学校、寺院などの臨時救護所に収容された。・・・
近年建立された慰霊碑の碑文としては原爆で起きた惨禍を抑えた文章ながら後世に伝えなければという使命感を感じるのです・・・
(近年は往々にして、原爆で起きた悲惨な惨禍をぼやかし恒久平和などという言葉でごまかそうとしているのではとわたしは思っていたからです・・・)
瀬野川地区原爆死没者追悼碑
コメント

『原爆ドームの四季(全体)』として改定中

2006年12月20日 17時18分32秒 | 平和記念公園
画像は原爆ドームを今(2006)年12月11日に撮影したものです、いつの間にやら遊覧船・すいすいピンク色になっています。

ホームページ項目原爆ドーム関連の頁類を「原爆ドームの四季」として開いた頁に、フレームをつけて、
原爆ドーム、旧・廣島縣産業奨励館
原爆ドームの四季2006年、2000年~2005年
等をまとめてみれるように、改造をはじめました。

原爆ドームの四季

画像はすいすいが白かった時、2004年3月に撮影したものです。


HP本体の広島ぶらり散歩(改定中)
コメント (6)

『平和記念公園ぶらり散歩』改定中

2006年12月19日 08時26分21秒 | 平和記念公園
画像は平和記念公園内の被爆したアオギリを12月11日に撮影したものです。

ホームページ項目平和記念公園関連の頁類を「平和記念公園ぶらり散歩」だけにして開いた頁に、フレームをつけて、
平和記念公園・画像一覧、平和記念公園・周辺項目一覧表
平和記念公園の草木達、平和記念公園附近の橋
平和記念公園附近の地図、ウォーキング・コース
等をまとめてみれるように、改造をはじめました。

平和記念公園ぶらり散歩(全体)

HP本体の広島ぶらり散歩(改定中)



画像は被爆したアオギリを11月15日に撮影したもので、まだ本格的な紅葉にはまだでした。

被爆したアオギリ(2006年)
コメント (2)

『広島の橋ぶらり散歩』改定中

2006年12月18日 13時58分28秒 | 橋梁
画像は大正橋を12月13日に撮影したものです。

HPの更新履歴に利用しているこのブログなのですが、
ホームページ本体の『広島ぶらり散歩』、
あれもこれもと頁を作成してきましたが、いまいち作成頁が探しにくい、もう少し見やすくならないかと、先日より考え、改造をはじめました。

HP表紙の項目からいく
「広島の橋ぶらり散歩(全体)」もフレームの頁にしたのです。
今後、それぞれの項目もフレームの頁にしたいと思っています。

広島の橋ぶらり散歩
コメント

中区:延命院

2006年12月17日 20時15分46秒 | 神社寺院等
 中区小町、象王山普賢寺延命院の由来板を読めば、
『当地蔵堂に安置されている地蔵尊は享和3(1803)年仏生日前造立さる法印宥邦上人発願衆生済度のためあごなし地蔵さんと大衆に親しまれて霊験あらたかと古老から伝え聞かされた。原爆の業火を一身に受けられたみ仏。』と・・・

延命院

裕の広島の神社仏閣ぶらり散歩
コメント

己斐調整場送水ポンプ室

2006年12月16日 08時02分49秒 | 被爆建造物等
1932(昭和7)年3月、己斐調整場送水ポンプ室として、鉄筋コンクリート造、2階建ての建物として竣工しています。
被爆時の名称:己斐調整場送水ポンプ室
爆心地から2,310m
この建物は、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。

己斐調整場送水ポンプ室

裕が訪ねた 被爆構築物一覧
コメント

岡本敦生作品:地球電話

2006年12月15日 19時40分44秒 | 野外彫刻等
この作品も現代美術館横広場に展示されています。
作品名版をみると、電話、マイクとあるどの部分が電話で、マイクか分からなかったのですが、
そんな事を考えるのは、芸術鑑賞では無粋な事かなとも思いましたが解らないまま・・・

(岡本敦生作品)地球電話

裕がみてきた野外彫刻等一覧
コメント (4)

フェルナンド・ボテロ作品:小さな鳥

2006年12月14日 07時59分18秒 | 野外彫刻等
南区比治山公園、広島現代美術館横に展示されています。
フェルナンド・ボテロ作品:小さな鳥

野外彫刻などの頁を編集しだして改めて観にいったのです・・・後ろからみるとちゃんと肛門まである、昔十姉妹を飼ったことがあるわたしは、今にも糞をしそうな姿勢だなと思ったのはチト考えすぎではあるのでしょうがそう思ってみてしまいました・・・
あえて後ろからの画像を紹介しました。前からの画像は下の項目をクリックして見ていただければ・・・

フェルナンド・ボテロ作品:小さな鳥

裕がみてきた野外彫刻等一覧
コメント (6)

旧・逓信省電気試験所広島出張所

2006年12月13日 08時36分53秒 | 被爆建造物等
西区三篠町の現在・日本電気計器検定所広島試験所は、
1937(昭和12)年2月、電気試験所広島出張所として電気計器検定を行う全国5番目の施設で、鉄筋コンクリート造、2階建ての建物として竣工しています。
  爆心地から1,790m
この建物は、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。

逓信省電気試験所広島出張所

裕が訪ねた 被爆構築物一覧
コメント

内田晴之作品:交差する形

2006年12月12日 06時48分55秒 | 野外彫刻等
中区鉄砲町、(市内広電電車)白島線沿いに設置されています。
このまでを何度も通ったことがあるというのに、気が付いていなかったのです。
野外彫刻などの頁を編集することにして、
広島市都心活性化局作成の街歩きマップをみてこの作品を知り、撮影しました。

内田晴之作品:交差する形

裕がみてきた野外彫刻等一覧
コメント

逢分松:道標

2006年12月11日 07時41分52秒 | 道標等
今年撮影した画像がそのままになって年を越そうとしていますので少しずつでも更新の一枚にと思っているところなのですが・・・

まちづくり交流ウォークのときに教えていただいた道標です。
交流ウォーク・片岡会長に『右の道を行くと京橋町に至る、左の道を行けば平田屋町に至るという意味で、今あるお宅の前分れ道の角に建立されていた「逢」は両方から近づいて1点で出会う、これに「分」わかれるとなると、ここから二つの場所への分かれ道と言う意味と思います。』とのことで、1945(昭和20)年8月6日原爆投下されるまではここに松があったそうなのです。

逢分松の道標

裕の広島ぶらり散歩
コメント (4)

中区:原爆犠牲米軍人慰霊銘板

2006年12月10日 11時46分05秒 | 原爆慰霊碑等
今年撮影した画像がそのままになって年を越そうとしていますので少しずつでも更新の一枚にと思っているところなのですが・・・

米軍投下の原爆で亡くなった多くの人々の中には米国人もいたのです、
(米軍人捕虜が広島の憲兵隊に収容されているという情報は米国も知っていたでしょうし、英国軍からも情報が入っていたとも聞きますが)
自国民を殺すという愚行でもあったのです。

原爆犠牲米軍人慰霊銘板

裕が訪ねた原爆関連慰霊碑等一覧
コメント

中区:旧天神町南組慰霊碑

2006年12月10日 00時12分46秒 | 原爆慰霊碑等
今年撮影した画像がそのままになって年を越そうとしていますので少しずつでも更新の一枚にと思っているところなのですが・・・

ことしの原爆忌8月6日に撮影した、この旧天神町南組慰霊碑の北側(向う側)には広島市立高女原爆慰霊式典を待つ(後輩にあたる)舟入高校の生徒が休んでいました。
天神町南組は爆心から≒420m~600mだったそうですので多くの方が亡くなったのだろうと・・・
年々縁繋がりの方々も少なくなり慰霊式典を催すことができなくなってきているのなかと、頭を垂れ閉じた目頭があつくなりました。

旧天神町南組慰霊碑

裕が訪ねた原爆関連慰霊碑等一覧
コメント

南区:的場町原爆慰霊碑

2006年12月09日 12時41分46秒 | 原爆慰霊碑等
今年撮影した画像がそのままになって年を越そうとしていますので少しずつでも更新の一枚にと思っているところなのですが・・・

2001年に訪ねてから久しぶりに行ってみました。
慰霊碑の前のカイズカイブキが大きくなったのか?な~と。
1957年5月19日建立だから来年には慰霊碑建立50周年をむかえるようです・・・

的場町原爆慰霊碑

裕が訪ねた原爆関連慰霊碑等一覧


コメント

あかいわ大好き・おばちゃん情報

2006年12月09日 01時03分14秒 | 雑関連
赤磐商工会女性部情報誌なのです。

「岡山県にあります、赤磐商工会と申します・・・・」というメールをもらったのです。
わたしのHPに掲載の写真を使用させてくれとのメールでした。
あかは読めましたが、磐?ばんかな?あかばん?せきばん??
お隣の県なのに何と読むんだろうとまことに恥ずかしいわたしだったのです。

わたしの写真が背景にされた頁を取り上げても自己自慢のようでつまらないので、
メールをいただいた赤磐商工会・瀬戸支所のOさんにお願いして、『ほのぼのとした表紙』をわたしのブログに掲載することを許可していただき掲載しました。

5年程前に作成した、最上稲荷(岡山市高松)の中の初詣風景を写した画像を使用したいということでした。
裕編集の最上稲荷

☆余談です。
四半世紀以上前に福島県に住んでいたことがあったのです、そのとき“常磐(じょうばん)ハワイアンセンター”があるいわき市で仕事をしたこともあったので『磐』を‘ばん’と思ったのです、
「常磐ハワイアンセンター」は平成2年に「スパリゾートハワイアンズ」と名前を変えているとか・・・時代の流れを感じましたので赤磐と関係ないことを書きました。

コメント