広島県庄原市東本町の宝蔵寺に建立されている「☆原爆犠牲軍人の碑」です。
※1953年5月11日碑建立時は比婆郡庄原町でした。
※1954年3月31日比婆郡庄原町+高村+本田村+敷信村+山内東村+山内西村+山内北村=庄原市が発足
『広島市に米軍が原爆を投下した1945(昭和20)年8月6日、
その2日後(8月8日)被爆負傷軍人約300人が庄原に輸送され、庄原国民学校(現・庄原小学校)に収容されました。
しかし、次々に84名が亡くなり、上野池の奥・論所という処で荼毘に付されそこに埋葬されたそうです。このことはいつしか忘れ去られようとしていました。
1951(昭和26)年の秋の終わりの頃、井上訓光(この碑の発案者)の夫人が論所で偶然大量の遺骨を発見しました。
翌(1953)年夏に地元有志により発掘され、遺骨は宝蔵寺境内にあらためて埋葬されました。
当時の大原博夫広島県知事の援助を得て、地元有志らでここ宝蔵寺に「原爆犠牲軍人の碑」を建立しました。』ということだそうです。
向側建物:忠魂堂 (碑裏面)
境内に入り、山門に仁王像が安置されている大きな寺院だなと思いながら「原爆犠牲軍人の碑」を探しながら本堂の方に歩いて行くうちに左手にみたのが「原爆犠牲軍人の碑」でしたので、頭を垂れた後撮影しました。
(裕編集の)(庄原市宝蔵寺)原爆犠牲軍人の碑
※1953年5月11日碑建立時は比婆郡庄原町でした。
※1954年3月31日比婆郡庄原町+高村+本田村+敷信村+山内東村+山内西村+山内北村=庄原市が発足
『広島市に米軍が原爆を投下した1945(昭和20)年8月6日、
その2日後(8月8日)被爆負傷軍人約300人が庄原に輸送され、庄原国民学校(現・庄原小学校)に収容されました。
しかし、次々に84名が亡くなり、上野池の奥・論所という処で荼毘に付されそこに埋葬されたそうです。このことはいつしか忘れ去られようとしていました。
1951(昭和26)年の秋の終わりの頃、井上訓光(この碑の発案者)の夫人が論所で偶然大量の遺骨を発見しました。
翌(1953)年夏に地元有志により発掘され、遺骨は宝蔵寺境内にあらためて埋葬されました。
当時の大原博夫広島県知事の援助を得て、地元有志らでここ宝蔵寺に「原爆犠牲軍人の碑」を建立しました。』ということだそうです。
向側建物:忠魂堂 (碑裏面)
境内に入り、山門に仁王像が安置されている大きな寺院だなと思いながら「原爆犠牲軍人の碑」を探しながら本堂の方に歩いて行くうちに左手にみたのが「原爆犠牲軍人の碑」でしたので、頭を垂れた後撮影しました。
(裕編集の)(庄原市宝蔵寺)原爆犠牲軍人の碑
8月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
24.7℃、59%
現代の平和な世の中で、新型コロナ感染者の全数把握を止めようとしていることを思えば、
戦時の中で運ばれてきた原爆負傷者の全数把握を比べるのもおかしな話ではあるでしょうが、混乱があっても不思議ではないと思います。
論所と云うのは庄原町の“字”名だと思うのですが、地図上ではわかりませんでした。
庄原国民学校での死者は、広島原爆戦災誌を読むと軍によって行われた(ので庄原町民には荼毘し埋葬した正確な場所はわからなかったのではないでしょうか?)
慰霊碑の根際の33回忌記念碑の裏面を読めば、厚生省援護局調査課からの死没者名簿とありますので軍が管理していたということで原爆戦災誌の記述の軍によって行われたが一致するように思っています。
論所と言う言葉も初めて知りました。
荼毘に付された大量の遺骨でさえ記憶の外に置かれてしまいかねません。
新たな埋葬地を得て原爆の犠牲になられた軍人さんも浮かばれた事でしょう。