湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

いつとはなしに眠りにおち微風を禿頭に感じて目が覚める。
このような生活に変わったらブログが更新されないかもしれません。

◇ 「明八橋(メイハチバシ)」

2015年12月16日 23時38分45秒 | 日常・その他
熊本県内には数多くの石橋が残っています。
近隣の鹿児島県、大分県などにも多く残っていますので
九州は石橋の宝庫(*)といえます。

   * : 「日本の石橋を守る会」(事務局:熊本県にある通潤橋資料館内)が
      調べられた数字によると、全国にある石橋アーチ橋の約90%が九州に
      あるそうです。

「種山石工(**)」と呼ばれる石工集団が熊本県外にも出かけて、
多くの石橋を造ったそうです。

  ** : 種山石工(タネヤマイシク)とは、
      江戸後期、熊本藩八代郡種山手永(現熊本県八代市東陽町)に
      居住していたとされる石工の技術者集団。
      その末裔や弟子などが、江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、
      熊本県内はもとより県外にも、多数の眼鏡橋を架けた。
                         -Wikipediaより-

これは熊本市内の下町に架かっている「明八橋」です。
新町(シンマチ)2丁目と西唐人町(ニシトウジンマチ)を結んでいます。

   ※長さ:21.4m、幅:7.2m、径間:17.0m

希代の名工といわれた種山石工の「橋本勘五郎」(***)さんの手により、
明治8年に(1875年)に造られたものです。
"明治8年" なので「明八橋」という名前になっています。

  *** : 熊本県内にある、水路橋として有名な「通潤橋(ツウジュンキョウ)」や、
      日本最大級の石橋「霊台橋(レイタイキョウ)」を造った人です。
      技量を見込んだ明治政府に招かれて東京の「万世橋」、「日本橋」、
      「浅草橋」、「江戸橋」そして「京橋」などを造り、
      皇居の「二重橋」架設にも関与したと云われています。
      そうした大仕事を終え、熊本に帰郷してから造ったのが
      この「明八橋」などです。

この橋は現在は歩行者と自転車だけしか通れません。
自動車は隣(下の写真の向かって右側)に架けられている新しい橋を走っています。


  私は公民館囲碁サークルの例会へ行くときなどに通ることがあります。
  この橋の近辺には城下町らしい古い町並みが所々残っています。

  ちなみに、明八橋から上流の二つ目にある橋も橋本勘五郎さんが造った石橋で、
  こちらは明治10年に架けられているので「明十橋(メイジュウバシ)」と
  呼ばれています。

橋の下を流れるのは「坪井川(ツボイガワ)」です。

   ※橋の上から上流方向を見たところです。
     「明十橋」は、上流にある一つ目の橋の陰になっています。
   ※今は流れる水が澄んできており、大きな鯉が悠然と泳いでいます。


  「肥後モッコス」といわれる熊本県人の頑固さ(良い意味での)は
   "硬い物(石)に拘って固い仕事をする" 石工集団の気質から
   きているのかもしれません。          -冗談です-



【明八橋の場所】