新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

22)芦川鶯宿(おうしゅく)の足利伝説は謎々のように面白い!

2011-08-19 | 山梨、往古の歴史と伝説!

鶯宿(おうしゅく)は、甲斐古道「中道往還」の宿場町として栄えた歴史の里・・・!

この笛吹市芦川(あしがわ)の「鶯宿」に、山梨では珍しい”足利伝説”があったのです・・・!

以前初めて芦川を訪れた時の印象では、御坂山塊の奥深い山間に・・・、この秘境のような地形なら、平家の落人ではないかと思わせる雰囲気を感じたが・・・、甲斐国は甲斐源氏一族が累代治めて来たので、まさか”平家の落人”であるはずがない・・・!?

それでは、もしかしたら、武田家滅亡の時、武田軍の落人らが、この秘境に落ちのびて来たかと思いきや、それも違ったのです。織田・徳川連合軍に敗れて、後に徳川家康が甲斐国を支配したことから考えると、しかも駿河の隣国で・・・、それもありえないことで・・・とあれこれ想像をしていたところ・・・、

ある時、鶯宿の資料(笛吹市文化財課)を見つけて読んでみると・・・、何と・・・!?昔、足利幕府の時代、第11代将軍「足利義澄」が追放になった時、義澄の近従がこの地に落ち伸びて隠棲し、足利義澄の菩提を弔ったという伝説があったのです。

山梨に、”足利伝説”があるとは・・・!?興味津々の探訪旅になりそうです!

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ブログ5月号カテゴリー「山梨の魅力山行」の「御坂黒岳と芦川のすずらん群生」で紹介した記事をご覧になりましたか!?

そのブログでは、目的の芦川すずらん群生地が「上芦川」にあるので、新道峠から、御坂黒岳に登った際に、この奥深い「上芦川の里」を少しだけ紹介しました。

今回は、石和温泉駅から鶯宿までバスが運行されていることを知ったので、「芦川鶯宿」の探訪を目的に、路線バスで訪ねて見ることにしました。

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芦川はどんな里山なのか・・・!?

Photo_2

芦川ガイドマップ

ガイドマップのプリントはPDFよりどうぞ!

「ashigawa_guide_map.pdf」をダウンロード

笛吹市芦川支所地域住民課資料複写PDF

注)以下、芦川のことは、笛吹市文化財課の資料、笛吹市市勢概要、統計やウイキペディア百科事典などを参考

山梨県笛吹市芦川(あしがわ)

・昔は芦川郷・・・、東八代郡芦川村

・1941年8月1日、上芦川村、中芦川村、鶯宿村が合併して、東八代郡芦川村が誕生。笛吹市合併前は山梨県で最も人口の少ない村と言われ、東八代郡に残る唯一の自治体となっていた。

・2006年8月1日笛吹市に編入合併し、笛吹市芦川になった。

・現在の芦川(あしがわ)は、笛吹市役所支所、芦川小中学校がある「中芦川」を中心に、川下に「鶯宿」、川上に「新井原(あらいばら)」、さらに、若彦路の通る「上芦川」の四つの集落で編成されています。芦川の地名は村を流れる芦川の名がそのままついている。

※足利義澄の近従らが都から逃れて、隠棲して義澄の菩提を弔うため”アシカガ”の名を”アシカワ”の地名にしたとか、宝珠寺の開基とされる足利常元も芦澤(アシザワ)と改名したという話も伝わっているようです。

往古は山間高地のため、村人はアワ、ヒエ、ムギ、トウモロコシ、サツマイモ等自給自足の粉食栽培をおこなって、炭焼きなど山の恵みを換金して暮していたようですが、明治から昭和にかけて、養蚕業が栄え、芦川の良質の絹糸は、特に評判の良かった都留郡の絹織物に重用され、ともに発展した歴史もあるようです。

その頃、多くの民家の屋根が兜造りに改築されて、今も約150軒くらいが古民家に暮しています。これほどの古民家群が残るところは全国的にも珍しいようです。中には18世紀に建てられた家の屋根を改造して兜造りにしたものもあり、築200年以上の古民家も14軒ほど残っているようです。里人にお話を伺うと、「家の維持保存が大変だ!」と言われながら・・・、とても馴染んで暮らしておられるように感じました。

・平成23年6月現在、人口は224世帯、470人が暮している。現在は空き家も多くなり、甲府や都会に働きに出ている家も多いと伺う。ちなみに、合併前2006年の人口は549人であったが、その後も年々人口が減少しているようです。・・・残って欲しい、里山の原風景です。

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「~芦川~兜民家と石垣の風景」という芦川ガイドマップ(笛吹市文化財課発行)を見ながら歩いて見ました。

ガイドマップには、寺社や古民家、自然石の石垣原風景などの解説と写真とその位置がマップ上で紹介されています。ダウンロードで一部だけ紹介します。※ガイドマップを笛吹市でもらい、このマップを見ながら歩くと・・・、明解です。ashiawa_oushuku_guide_map.pdf」をダウンロード

鶯宿(おうしゅく)

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鶯宿バス停 (富士急平和観光バス)

石和温泉駅前市営バス乗り場より鶯宿行は1日3便運行

・石和温泉駅前発⇒鶯宿着  片道@1020円

 9:25⇒10:26 14:25⇒15:26 18:00⇒19:01

・鶯宿発⇒石和温泉駅前着

 8:15⇒9:16  12:55⇒13:56 16:55⇒17:56

注)富士山駅ー河口湖駅から芦川農産物直売所(上芦川)間も富士急山梨バスが1日、6~8本運行、@750円

※芦川・鶯宿散策は、石和温泉又は富士山駅・河口湖駅から芦川農産物直売所で乗継プランを組むと広域観光が可能です。

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鶯宿の散策ガイド

Photo_5 ・里山風景がよくイメージできる案内図です!

鶯宿は、東海道から甲斐国へ通じる中央の道「中道」筋にあって、信長が通った道とか、家康が駿河から行き来した道だと思うと感慨深いものがありますが、その恩恵もあって、いち早く往還道が整備拡張され、中道が歩きやすくなって、特に大勢の商人が鶯宿を訪れたということは後述のとおりです。

・しかし、それ以前には、どうしてこんな山里に人々が住みついたか?・・・今回の関心テーマです!

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室町幕府第11代将軍足利義澄(よしずみ)ゆかりの伝説

鶯宿には「足利」伝説があり、武田家支配の前(室町時代)には、足利家が支配していたといわれる説もあります。(ブログ山梨きまぐれ歴史散歩より)

注)室町幕府は、足利尊氏が初代征夷大将軍に任じられ、建武5年(1338年8月※1336年説もある)に成立し、織田信長によって追放された第16代足利義昭の1573年7月まで、235年間続いた幕府で、京都室町通りに御所を置いたことで、足利幕府を室町幕府という。

足利義澄は、室町幕府第11代征夷大将軍で、1481年(文明12年)生れ。在位は1495年(明応3年)~1508年(永正5年)。10代足利義材(よしき)が細川政元によって追放された後、11代将軍に擁立され、1508年、大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国(現、滋賀県近江八幡市牧町)の蒲生郡水茎岡山城(城主九里信隆)へ逃れて、将軍職を廃され、1510年(永正7年)九里軍は幕府軍三千の攻撃を撃破するも、その後、義澄は岡山城で1511年(永正8年)に病死している。

その結果、第12代将軍は10代義材が義植(よしたね)と改名して、復権している。

足利義澄公と芦川鶯宿のかかわり

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梅渓山長徳寺

・笛吹市文化財課資料によると・・・、第11代将軍足利義澄の近従(きんじゅう)、大勝左近将監(おおかつさこんしょうげん)と宮川右近将監の一族が芦川の地に隠棲し、大勝左近将監の子孫、大勝甚兵衛が、梅渓山長徳寺を足利義澄公の牌所(はいじょ)として菩提をとむらったという伝説が残っているところです。

まず、足利伝説を辿るには、芝おこしである大勝家の菩提寺を訪ねて見た。

・長徳寺の開山は全養蠆山(ぜんようたいざん)和尚。

 諏訪頼重の子で、幼名を図之助と称する。

・伏見宮御所祈願所となり、伏見宮家からの寄附状がある。

・開山(不明≒推定室町時代1336~1573)当時は真言宗。1479年(文明11年)か1555年(弘治元年)に臨済宗に改宗したと伝わっているそうだ。

・現在の本堂は1779年(安永8年)の建立(推定)

・旧庫裏は1478年(文明10年)再建、門口は文化3年(1806年)建立と伝わる。

・大勝家の墓があるとういう「長徳寺」を訪ねて見ると、丁度お盆参りで多忙なところを奥さまが親切に墓地へ案内して下さった。最上段に住職の累代の墓があって18代が並んでいる。

この墓地には、往古の歴史を感じるところが残っている。現住職は19代目とのこと。

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Photo_7 長徳寺に「大勝家の墓」はあった・・・!?

・大勝家の累代の古墓石が並ぶが、まさに本寺の歴史とともにあることが、素人でも推測できる。しかし、墓石の刻字名、年代等は素人では殆ど読めないので、残念ながら詳細は確認できない

※いつか専門家に伺ってみたい。

注)大勝家の直系子孫は、芦川に現在は住んでおられないようだが、最近、子孫がお参りに来られたそうで今でも家系は続いているそうです。また、一族と思われる大勝姓の家は現在も芦川に4軒あるそうですが、その一軒の大勝家へ訪ねてみたが、昔のことがわかる人がおられなかったので残念。

・一方、宮川家の姓は、今でも、この村の殆どを占めていて、墓石の刻字名を見ても、宮川姓ばかりが目立つところだ。

現在は長徳寺のどこにも、足利義澄公の位牌はない!五輪塔はどこに!?

長徳寺は、芝おこし「大勝家」の菩提寺なのです。

長徳寺を訪ねたのが丁度お盆で忙しい中でも、運よく寺が開いていて、奥さまに仏壇を見せて頂いたが、義澄公の位牌は現在ここにはないとのことで、所在はわからないとのことでした。しかし、現在は見ることはできないが、「大勝家」が足利義澄公供養のため、長徳寺に、位牌を置いていたことは確かなようです。

故あって、前住職の身内の方でも、どこかに保管しておられるのであろうと推測する以外にすべはない結果でした。※前住の親戚の方に訊ねても良くわからないとのことなので。ちなみに、某寺関係者も電話取材では、20年くらい前には見た覚えがあるような話でした。

注)実物は未確認だが、文献では、足利義澄の戒名は「法住院殿旭山道晃」。

五輪塔は長徳寺にはないことがわかったが、後日、芦川市史で所在が確認できたので、後述で紹介します!

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宿鷺山宝珠寺にも、足利家のゆかりがあった!?

開基は足利常元、開山は天祥和尚。由緒によると、開基は室町幕府第4代将軍足利義持(1386~1428年43歳没、将軍在位1394~1423年)の孫、田沢大炊介の三男、芹沢源大夫常元である。常元は(推定15世紀末頃)、天子ケ岳の山中に庵居し、宝珠庵と称した。常元は、天文5年(1536年)89歳で亡くなり、その後、境川町大黒坂の聖応寺塔頭の僧、天祥和尚が開山となり、江戸時代初期に、現在地に移り宿鷺山宝珠寺となった。

注)何故か?足利一族であっても、”足利”の名跡を名乗っていないのです!?

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この地は、当時、足利幕府の統治下にあったには違いないが・・・!?

足利一族が住みついたことも伝説の域をでないが・・・、確かなようです!

何らかの事情(隠棲、落人など)で、足利名跡を名乗れない事情がある一族が、この山奥に住みついたと”想定”することが、現段階では精一杯ですネ。

特に、駿河を越えて、甲斐へ入るにも、如何に足利一族とはいえ、甲斐源氏、武田家累代が甲斐国内に勢力を強めている時代に、国中へは、簡単には入れないし、

この芦川は、隠棲の地として、いわゆる穴場であったかもしれないと想像をふくらますばかりです。

何れにしても、この珠寺の開山の時代には、この地に足利将軍家ゆかりの人々が住みついた跡があることは、確かなようですネ。

注)足利家の”落人が隠棲した里山”であることは次第に分かってきたが・・・、さらにもっと古い時代に、この地には、縄文・平安時代の遺跡が4ヶ所で発掘されていて、古墳分布を見ると、”中道”には、4世紀中~5世紀前半に曽根丘陵の大型前期古墳勢力があったことが確認されていることから、古代より、既にこの地にも里人が暮していたことが伺えます。この奥深い山間地に・・・!?

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前述の通りだが、”足利義澄公”にかかわる伝説とは・・・!?

足利幕府第11代将軍義澄(よしずみ)は、永正4年(1507年)管領細川政元が”細川家の家督争いの内乱”によって暗殺されたことで、前10代将軍義材(よしき)(後の義稙)を擁立する大内義興軍が上洛する報を知り、近江の六角高頼氏を頼って、朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城へ逃れ、再び勢力を挽回すべく、細川澄元、三好之長などを京へ侵攻させたが、失敗、7月には将軍職を廃され、永正8年8月14日(1511年9月6日)に岡山城で病死したとなっている。享年32(満30歳没)。

その結果、将軍職は10代義材(よしき)が改名し、第12代義稚(よしたね)(在位は1508年~1521年の13年6カ月)として復権したため、義澄家は終焉。

義澄没後に、近従、大勝左近将監と宮川右近将監の一族は芦川の地に逃れて、義澄公を弔うため鶯宿に隠棲したという。

即ち、近従大勝氏と宮川氏がこの地に逃れて、鶯宿に棲みついたのは、1508年末か、義澄が没した後の1511年末頃と推定されるが、岡山城で最後まで戦に備えていたこともあり、義澄公が病死した後の1511年末以後と推定しておくのが妥当であろうと思われます。

大勝左近将監がこの地に居を構えた後、子孫甚兵衛に、長徳寺住職の幼名図之助を与え、大勝図之助甚兵衛と称して、梅渓山長徳寺を足利義澄公の牌所とし、菩提を弔っていたようです。

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足利義澄公の五輪塔は、鶯宿諏訪神社北東の丘林にあった!

足利伝説の五輪塔を探していたが、笛吹市文化財課と連絡が取れて、「芦川村史」に五輪塔の調査資料が掲載されていることがわかったので、早速調べて見ると、五輪塔の写真、図説、略図(鶯宿見取図)があることがわっかったので、資料をもとに、再度、調査に行ってきました。

しかし、それらしい場所に行ってみると、標識や道しるべがあるわけではなし、近くの民家に訊ねても、知る人もなく、二度も里道を山奥まで歩いてみるも、それらしいところは見当たらないので、一旦あきらめて、空振りで引き返し、次の予定であった「てんころりん村の大森さん」を訪ねました。

大森さんに、五輪塔のことを話すと、知らなかったので、自分も興味があるし、もう一度行ってみないか?ということになって、何と一緒に探してもらうことになったのです。道すがら、詳しそうな長老に、五輪塔のことを訊ねるも、知っている人に当らない。最後に、位置図のすぐ近くに住む大森さんの知り合い立澤さんに訊ねたら、目印になる秋葉社(石祠)をご存知で、そこへ道案内をして頂いた。

地元の皆さんのお蔭で、ようやく、足利伝説の五輪塔を確認することができました! 

何と有り難いことに、その目印の秋葉社(石祠)の処へいったら、そのすぐ下に秘かに石像が立っていたのです。小ぶりで、背面は関心がないと見過うほどの庶民の墓石のような平凡な形ですが、正面に回ると、そこに、確かに五輪塔の浮彫があったのです。これは板碑型五輪塔(後述)といって、山梨では珍しい墓石らしい。

義澄公の墓所として、隠棲の地での供養塔であることが想像できる!?

芦川村史に、鶯宿諏訪神社の北東の位置、里道の赤羽根付近にある板碑型五輪塔を安置して、秘かに参詣供養を続けてきたとあるのは、確かでした。

しかも、小さく目立たない彫刻の五輪塔なので、里人すら知らないのは無理はない。流石に文化財担当のような専門家でなければ気が就くような五輪塔ではなかったが、栄枯盛衰の哀れを滲ませる”感動の五輪塔”でした。

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4 コメント

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Unknown (世良 康雄)
2020-03-09 02:03:41
 兵庫県神戸市長田区真野出身母旧姓芳原トヨ子祖母徳之島白井めきよ親戚大勝家由来知りたく、父神戸市西区秋葉台民生委員世良英雄出身兵庫県宍粟市一宮町生栖梶原大歳神社と世良親王養母昭慶門院領【三方庄】や6代将軍足利義教殺し安積行秀由来一宮町安積等勉強中で、歴史考古学者志望です。

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Unknown (Unknown)
2021-11-13 16:50:01
私は大勝本家の主人です。
義澄公の御位牌は私の東京の自宅にて御供養をしてお守りしております。
芦川村からは親の代で離れました。
私も高校卒業後に就職で山梨を離れました。
山梨に残った母が臨終の際に御位牌をどんな事があっても守れとの遺言を守っております。
長徳寺へはお墓参りに時折訪れています。
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Unknown (UEHARASACHIKO)
2022-09-22 18:03:05
鶯宿を検索していてこちらを知りました。
以前こちらのページを拝見した際、橋の上におばあちゃんが写っている写真があったように記憶しているのですが、わたしは孫にあたります。
もし間違えでなく、写真を今もお持ちでしたら拝見させていただくことはできないでしょうか?
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Unknown (甲斐の人)
2022-10-18 11:42:30
山梨に生まれ育っても知らないことばかりです。
大勝さん、宮川さんは甲府周辺にお見受けするお名前です。高校の同じクラスに「鶯宿」の立沢君がいました。甲府に下宿していていました。足利まで結びつくとは思ってもいませんでした。
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