古代ロマンの足跡と自然の移ろいを訪ねる”大蔵経寺山”
標高715.6m!
”鎮目”にある「山梨岡神社」の御神体でもある神々しい山!
4月中旬、大蔵経寺山は新緑に映える”マルバアオダモの群生”
とヤマ桜が美しい!
大蔵経寺山登山案内掲示板 JR石和温泉駅から見る「大蔵経寺山」
往古は、獅子が蹲踞(そんきょ、そんこ=うずくまる)する形に似ているので、
「青獅子山(せいししざん)」と称し、「松本寺=現大蔵経寺」の山号になったこともある。
注)この登山案内掲示板は大蔵経寺境内登山口に掲示してあるもので、別途、巻末に、
「登山ルートMEMO」を添付してあります。
今回は、古代ロマンが眠る山梨百名山「大蔵経寺山」の山行記録を紹介します!
登山の目的は、大蔵経寺山周辺に伝わる古代甲斐国の歴史探索であるが、多くの謎々を
解かなければならない。
時間を要するため速報版として、山梨百名山「大蔵経寺山」の山行記録を紹介します。
行程:4月13日(土)晴天 ※日帰り
※標準コースタイムは上り約1時間半、下り約1時間半
石和温泉駅前9:00AM発・・・140号(雁坂みち)山神宮前交差点・・・
山神宮前宮9:05・・・山神宮口イノシシゲイト9:20・・・山神宮石段9:40・
・・山神宮奥宮9:50(小休止)・・・鞍掛塚・積石古墳10:15・・・
林道分岐10:18・・・林道終点10:25・・・大蔵経寺山頂上11:00(小休止)
・・・展望地上(昼食休止)11:50・・・展望地12:30・・・大蔵経寺境内
イノシシゲイト13:10・・・物部神社13:15(小休止)13:20・・・
大蔵経寺13:25着・・・石和温泉駅前着13:35頃
注①上記歩行時間は、スナップ写真と小休止の時間を合わせて、上り約2時間、
下り約2時間半をかけて歩いたタイム記録です。
ゆっくり歩くことで何もないと思う山もいろいろな発見に出会い、楽しいハイキングになります。
注②大蔵経寺を拝観する場合は、拝観時間を約20分程度要。14:00PM頃石和温泉駅着
の予定を組むと良いでしょう。但し、拝観料300円と”心得”が必要です。
注③登山ルートにある、山神宮(前宮、奥宮)、積石古墳、大蔵経寺山、石切場跡、
物部神社など要所の予備知識があると、なお楽しく歩けます。
※山頂には遺跡や遺構は見当たらないが、往古には大蔵経寺山(御室山)山頂に物部神社が
あったとか、古城があったとか・・・、南面には、少々痛々しいが、昔は石切場として石和
の繁栄を支えた山であったことなど、関心事は多い。
特に、マルバアオダモの群落は心地よい”癒やしの風景”になる。
さらに時間の余裕があれば、山梨の呼称発祥のゆかりがある「山梨岡神社」も訪ねて見る
ことをお薦めします。
※大蔵経寺山は、御室山と並びこの神社の御神体ですから・・・。
また、「菩提山長谷寺」も一見の価値ありです。
JR石和温泉駅前から・・・、松本の「山神宮=天狗神社」里宮へ・・・!
通称”お天狗さん”と”鞍掛塚積石古墳”が第一目標地点!
「山神宮」里宮をスタート地点に、奥宮~積石古墳を経て、大蔵経寺山頂を目指す。
※Noは、PDF資料③の位置参照Noです。
②里宮のイノシシゲート 山神宮奥宮赤鳥居
新緑も美しいが・・・、マルバアオダモの群生は、とても優しく、迎えてくれる!
閑話休題: 「マルバアオダモ」 Ask.com百科事典による
マルバアオダモ(丸葉青�丁、学名:Fraxinus sieboldiana)、モクセイ科トネリコ属の落葉高木。雌雄異株。別名:ホソバアオダモ、トサトネリコ、コガネアオダモ、コゲナヤチダモ。アオダモは(石和町誌大蔵経寺山山林の植物調査でも、別名:コバノトネリコとして確認されている
幹の高さは5~15m。花期は4~5月。白色の4弁花を蜜に咲かせる。花弁は6~7mm。果実は長さ2~2.7cmの翼果となる。
新緑の雑木の群落の中に、白色の淡い花の群落が映える!登山道の癒やしの風景をなす。大蔵経寺山に相応しい”佛”の樹花(�丁=ダモ)のよう・・・!?
③160段の石段は”山神の境地へ”(左に巻き道あり)③「山神宮・奥院」 拝殿と本殿
閑話休題: ③「山神宮」
通称:「お天狗さん」として山麓の里人に親しまれている!
笛吹市石和町松本にあり、松本山岸組小物成山字三斗六升の天狗山の山腹に鎮座する
山神宮(別名:天狗神社)と称し、祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)を祀る。
火伏の神、家運繁栄の神として広く信仰を集める。
弘化2年(1845)正一位山神宮として奉遷され、天狗の面(作者不明)があるという。
拝殿に向かう参道は、急峻なジグザグ道。赤い鳥居を経て百段余り(数えた人は160段
と書いている)の石段を仰ぐ時、霊験あらたかな”山神宮”の境地が見える!
登山道は山神宮の上から大岩のガレ場 ④鞍掛塚積石古墳(史跡)を通る
閑話休題: ④「鞍掛塚石積古墳」
大蔵経寺山周辺には、縄文、弥生、古墳、平安時代の遺跡が、数々発掘・確認されています。
鞍掛塚積石古墳は、大蔵経寺山周辺の積石塚古墳群、3つの支群の一つで、通称松本天狗山の山腹にある古墳です。
直径は15m、全長2.75mの竪穴式石室で、往古の渡来人の墓石室であったのではないかと言われている。そんな大昔から・・・、この地に人々が住み始めた証でもある。
⑤林道と合流後、この標識を右へ登る ⑥目印を頼りに登るパズルのような岩間の登山道
⑦大蔵経寺山頂 標高716m※715.6m大蔵経寺山は要害山への尾根筋
⑧下山は分かりやすい登山道をゆっくりと満開のヤマザクラが青天にたなびく!
御坂山塊”黒岳の向こうに富士山が覗く 大蔵経寺を眼下に覗く
富士山・御坂山塊を背景に甲府盆地の展望 ⑨大蔵経寺口のイノシシゲート
⑩古代の謎が眠る”物部神社” ⑪甲斐の名刹「松本山大蔵経寺」
⑩物部神社
往古は、御室山(大蔵経寺山)山頂に鎮座していたと神社で、後世になって現在地に
遷座されたと伝えられている。
江戸時代は、別名:”物部十社明神”と称し、「古事記」によると神武天皇(イワレビコ)
の神武東征において名を残す饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を物部氏の元祖として
10代までを”10神”として祀る。
貞観5年(863年)、清和天皇56年御代、甲斐国従五位下勲12等~、
元慶3年(879年)、陽成天皇57年御代、正四位上、物部�・従三位の位と田34町歩を賜る。
往古は、山梨郡御室山(=大蔵経寺山)に鎮座したが、後世に現在地に遷座されたと伝わる。
この往古の年代が推定できればロマンは膨らむが、大蔵経寺山頂には遺跡や遺構も
発見されていないようで、専門家の探求を期待したい。
注①2代目「宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が、物部連(もののべのむらじ)、
穂積臣(ほづみのおみ)、采女臣(のごめのおみ)の祖とも言われている。
注②物部氏は古代の話であるが、神武天皇が大和国の平定の折に、功をなして以来、
代々朝廷に仕えて、垂仁天皇の御代に朝廷を警護し武事を掌握する部族の総称として
「物部」の姓(かばね)を賜る。
注③神武天皇(推定BC660~BC585年在位)は神日本磐余彦尊(かむやまといわれ
ひこのみこと)といい、日本神話に登場する日本初代天皇76年(古事記、日本書紀による)
※神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人淡海御船が歴代天皇の漢風諡号(しごう
=おくりな)を一括撰進したときに付されたといわれる。
注④垂仁天皇(推定BC29~AD70年在位)は活目入彦五十狭茅尊(いくめりいびこい
さちのみこと)といい、第11代天皇と言われている。
しかし、いずれも古事記や日本書紀の神話の時代の話であるので、史実の特定は難題ですが、
それは専門家にお任せしたい。凡人としては、謎々の多い魅力のある「大蔵経寺山」周辺に
存在する古墳や数々の史跡、伝説を訪ねることでいろいろな感慨があり、素直に歴史ロマンを
楽しみたいと思っています。
BC300~100年頃~弥生時代に小国家が生まれ、AD1年、倭国百余国と邪馬台国卑弥呼
を共立した大和国が誕生する神話時代以前の話でもあるし、大和政権の国家統一が進むのは、
AD360年頃と言われているので、時代考証を確認することと物部氏が朝廷より甲斐国開拓
と支配のために最初に派遣された人物だとすれば、渡来人の来朝と物部氏族80~100氏族
とも言われる子孫の誰かを特定することなどは、専門家の間でも難題なようです。
筆者は、延喜式神名帳三代実録等で、古代において甲斐国一宮(後世は浅間神社)の格式
を有したこの「物部神社」こそ、”大和朝廷と繋がる由緒深い神社”として興味をもっている。
この「物部神社」の存在こそ、甲斐国開拓(甲斐国最初の支配)のため朝廷から派遣された
物部氏族の足跡を証すゆかりの神社ではないかと・・・、
現在、知りたい謎々のテーマである。
この大蔵経寺山とその山麓には、往古の歴史ロマンがたくさん眠っている!
もしかしたら、古代の甲斐国を最初に支配した歴史上の人物こそ、物部氏族であった
のではないかと・・・、興味は深まるばかりである!?
興味本位の素人ですが、詳しく調べた方がおられたら教えを乞いたいと思っています。
⑪松本山大蔵経寺 寺記略伝によると・・・
松本山大蔵経寺は奈良時代西暦722年(養老6年)、法相宗の行基菩薩を開祖として創建。
略縁起によると、往古は「菩提山長谷寺」の本坊で「松本寺」と呼ばれており、
山内に「物部神社」を勧請し、大寺院であった。
南北朝時代の応安年間(1368年~)、足利三代将軍義満の子、観道上人が中興開山として
入山する際、甲斐国守護武田信成に命じて、七堂伽藍を建立させたと伝わる。
その時、山の形が獅子が蹲踞する形に似ているので「青獅子山」と号し、大蔵経を五重塔
(三重塔?)に納めたことにより「大蔵経寺」に改名。
その後「旧松本寺」の寺号を山号に変え「松本山大蔵経寺」となった。
この時、武田信成の代より、武田家祈願所に・・・、
天正年間(1590~1年頃)に徳川家康が祈願所と定め、葵の紋を寺紋として戴き
御朱印地を拝領・・・、江戸期には、新義真言宗談林能撰寺格(学問所)を有し、
甲斐国真言宗七檀林の一寺として、寺運興隆の一途を辿ったと記されています。
また、往古の松本寺は、物部神社の鎮守の神であったと伝わる。
「大蔵経寺」のことは、http://www.daizokyoji.org/info.html をご覧下さい。
往古は、御室山にあったと伝わる物部神社は、松本寺が創建される前からあったと
推定されるので、物部神社と松本寺はどちらが先に創建されたかは興味深いところです。
そうすれば松本寺が物部神社を勧請したこと、鎮守であったことなどの意味が説けると
考えている。
大蔵経寺山の新緑に彩りを添える「マルバアオダモ」の花!佛の木に相応しい。