新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州・「旧於曽鄕」を辿る③塩山上於曽「菅田天神社」と「甘草屋敷」21ー05

2021-05-01 | 山梨の魅力再発見!

甲斐国於曽鄕の中心は現塩山上・下於曽!

現甲州市塩山駅へ下車すると・・・、

JR塩山駅北口は甲府と同じ武田信玄坐像が迎える

駅前に「甘草屋敷」がある。真に「甲州へ来た」感がする!

その代表的な歴史遺産は、前号紹介の「塩山向嶽寺」。

今号は、JR塩山駅南口にあって旧商店街(町屋)に近く、

あの国宝「楯無鎧」が納まる「菅田天神社」、北口前に

「甘草屋敷」、直ぐ近くの「橋爪和泉守屋敷跡」を辿る!


「菅田天神社」は市中にあって、今も厳かな神社境内!

嘗て塩山のメッカであった「菅田天神社」。今も、境内に荘厳の空気が漂う!


菅田天神社の随身門から、祭神(スサノウノミコト)を祀る本殿を仰ぐ!


「菅田天神社」は塩山上於曾に鎮座。祭神は本殿に素戔鳴尊および

五男三女神、相殿に菅原道眞を祭祀する。社記によると、承和九年(842)

國司藤原伊勢雄が勅を奉じ、甲斐小目飯高濱成に命じて創立したと伝う。

寛弘5年(1004)菅原道眞を相殿で祀り、これ以来「菅田天神社」と称した。

新羅三郎義光以来、甲斐源氏の鎮守とされ、社の位置が甲斐・府中の

鬼門にあたるので、武田家累代は重宝「楯無鎧」をこの宮に預け、

於曽氏にその保管させ、大事あるごとに出納を命じたという。

※武田氏拠点館は石和から甲府(甲斐府中)「躑躅ケ崎」へと移転。

※山梨県神社庁広報は勧請当初は「神田明神」と称した・・・と記す。

またこの「楯無鎧」については、承久年間(1219~1222)武田信光が社殿

を造営し、陣中の守護たる神器「楯無鎧」を社殿に納め置き、同族の

於曽氏に守護させた伝えている。

※記:「菅田天神社」境内鳥居前の甲州市教育委員会の「解説版」。

注①「楯無鎧」は、天正10年武田氏滅亡の時、向嶽寺大杉の下に埋め

   られて、注)筆者はその向嶽寺大杉を探したが・・・、現在は不詳。徳川家康により

   掘り出され、再び当社に奉納された。その後、盗難に遭って破損し、

寛政5年(1793年)江戸にて修復が行われたと云われる。(甲斐国志)

※現在も「楯無鎧」は新羅宮へ保存されているが、古朽か、拝観できない。

山梨県立博物館にある精巧な「レプリカ」をジックリ鑑賞されることを推奨。

注②武田信光は「石和五郎信光」とも称し現石和町市部周辺に館を構えた。

甲斐武田氏の宗家とも云われる武田信義の嫡子。武田氏第5代当主。

※現在、石和御厨の痕跡はないが、その位置は御厨内分祠社とされる

神明神社、石和八幡宮のある寺部、窪中島周辺に比定されている。

平安末期~鎌倉初期の武将で、往時、鎌倉の頼朝の信頼を得て、

武田氏存続の要力になり、承久の乱以後、安芸守、伊豆守となる。

※この後武田当主は5代も安芸に居た!?その後出家して「伊豆入道光蓮」と称した。

館跡として、鎌倉名越館、甲府市小瀬の諏訪神社(甲斐国志)、北杜市

須玉町中尾城(須玉町誌)などがあるが、むしろ、鎌倉幕府にて活躍し、

甲斐国での足跡は薄いのが特徴。

「甲斐国志」石和宿の東南に市部とて人戸在る処の辺り、即ち信光の館跡なり。

「甲斐国志」、新鳳抄に下宮の神領石禾の御厨25町とあり。・・・等と記述がある。

墓所は山梨県北杜市伝信光寺(位牌)、静岡県韮山町の伝信光寺(五輪塔)。

注)往時、甲斐武田氏の父信義は、頼朝から安田義定らと勢力を疎まれていた。


武田信光の造営による「新羅宮」は「楯無鎧」を納める。武田館鬼門の守護神!


この「楯無鎧」は山梨県では有名。但し現在は古朽にて「拝観できない」。

筆者は2013年10月「国文祭」にあたって拝観が出来た時も一瞬覗くだけ。

実は、山梨県立博物館に復元したレプリカがあるので、ジックリ拝見した!

国宝に指定されるだけのことはある。

国宝の正式名称は、「小桜韋威鎧兜大袖付 (こざくらがわおどしよろい

かぶとおおそでつき)一領」と云う。

筆者を含め殆どの方は呼べないので、筆者も俗称の「楯無鎧」と呼ぶ。

注)国の指定文化財としては古く昭和27年11月22日工芸品として指定されている。

旧於曽鄕に伝わる「菅田天神社」は現在も現甲州市内の里人に崇拝されている。


「甘草屋敷」は、真に「甲州」の玄関口に相応しい!

JR塩山駅前北口のすぐ前にある「甘草屋敷跡」は駅前風景とは思えず、驚く!


甘草屋敷は、山梨県塩山上於曾にある江戸時代後期の民家で、国の

重要文化財に指定されている。重要文化財指定名称は「旧高野家住宅」。

高野家は、長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、代々「伊兵衛」を

名乗り、幕末には名主として苗字帯刀を許されていた。

高野家住宅の主屋は、切妻屋根の前面上部に2段の突き上げ屋根を

設けた代表的な「甲州民家」と云われる。蔵などの附属建築物や宅地も

含めて国の重要文化財として指定され、現存している。

高野家は、江戸時代初期頃より、薬草である甘草の栽培を始め、八代

将軍徳川吉宗の時、徳川幕府の採薬師の丹羽正伯の検分にて、幕府

ご用途なり、栽培と管理を命ぜられた。1反19歩の甘草園は、幕府官営

の小石川薬草園で栽培するための薬種として、幕府へ上納した。

こられの経緯により、高野家は「甘草屋敷」と呼ばれてきた。


「旧高野家住宅の建築物」:

国の重要文化財に指定されている「旧高野家住宅」の建築物は・・・、

主屋は:切妻造、屋根裏部屋を含めて3階建。桁行13間半(24.8m)、

梁間6間(10.9m)。1960年までは茅葺きで、現状は銅板葺きとして

いる。切妻の大屋根には、往古より養蚕に使用された2段の突き上げ

屋根を設け、往時は甘草の乾燥などに使われたと云う。

主屋は南向きに建てられ、土間の右側には2室からなる「蔵座敷」がある。

土間寄りの表側に「いどこ」、奥側に「居間」があり、「居間の東には土間

に張り出す形で「台所」を設けている。

「旧高野家住宅」は重要文化財指定されたが、居住していたため未公開。

1993年に当時の塩山市に寄贈され、その周囲も整備され一般公開された。

その後、1996年(平成8年)に敷地内の付属建物5棟(巽蔵、馬屋、東門、

文庫蔵、小屋)並びに宅地が国の重要文化財に指定されている。

1953年指定の旧高野家住宅は、指定年度の古いもの一つ。

蔵など付属建築物は居室等に改造されていたが、当時塩山市寄贈後は

旧状に復元されているとのことで、現在も江戸時代の建築物がJR塩山駅

北口前にあるのは、全国の駅前でも珍しい風景である!


東京と結んだ「青梅街道」は、この道に繋がっていた!

何もない長閑な街道並風景!の風景を辿ると「青梅街道南線」の現風景!

、この甘草屋敷の左北上してる道が「青梅街道南線」であるとは、殆ど

方がまさか知らないで素通りする。

この道が、北上してあの柳沢峠を経て、奥多摩へ通じる「青梅街道」だ。

特に東京から訪れる人は、新宿大木戸(甲州街道・青梅街道分岐)

通じていることを知ると感動している。


甘草屋敷の右隣(東側)道を北上すると現柳沢峠を経て東京日本橋へ通じる!

国土交通省や甲州市教育委員会の旧国道(甲州街道・青梅街道)の調査

報告資料が公開されていて参考にさせて頂いた次第。

筆者も移住以来、温故知新の精神で学び、かなり歩いて、地元の方に教え

を伺う等学んで来たがより正しく学ぶには結局、県立図書館や地元図書館

の郷土史コーナーへ行って、先ず地元図書や文献により学ぶのが一番と

未だ生涯学習生をしている。

移住10年を経て「新甲州人」のハンドルネームは卒業できないままです。

その時の資料に基づいて解説しています。そのまま、写していますが・・・。


往古、「橋爪和泉守」はここを本拠地に居住していた!

その「甘草屋敷」の直ぐ裏手に当たる処に、「橋爪和泉守屋敷」跡があった。

注)筆者が移住した頃は、まだ石碑が建っていたのに・・・、

時代の変遷か!? この写真は「甲斐武田」を探検つ!!によるが、

現在は宅地化して石碑も見えない。

この石碑は平成5年甲斐武田氏の研究家服部治則氏が記されたとか・・・。

現在の様子は下記の様になっている。広い屋敷であったことは確か。


時代の変遷を経て、今はこのように風景に変わった!

現在の橋爪和泉守屋敷跡は、アパートや分譲住宅等で近代化している。

 


「橋爪和泉守屋敷」は、時代の変遷を経るも今も続く!

移住して間もなくは、確かに大きな屋敷跡と屋敷跡の石碑が建っていて、

地元の物知りの人に「橋爪氏は武田の家老を務めていた」と教えられた

ことがあるが!?

甲州市教育委員会資料によると「当地は、塩山市街地を南流する重川と

塩川に挟まれた微高地上にあたり、埋蔵文化財宝蔵地「橋爪氏屋敷」の

範囲内に当たる。

橋爪氏屋敷は、「上於曽村村鑑明細帳」や「甲斐国志」によると・・・、

「橋爪和泉守」の屋敷があり、後、慶長年間の検地によって畑地になった。

在地領主の屋敷の存在が推定されている。

また、近隣にも於曽三郎屋敷や於曽屋敷など中世の館跡の伝承や堀・

土塁を残す遺跡が存在している。遺構年代は平安時代の所産と考えらる。

・・・と「平成27年度市内発掘調査等事業報告書」に記される。


嘗て塩山の中心繁華街、今は静かな本通り町屋街に!

現在、時代の変遷か!?静かな本通り町屋商店街の様子!

現在、上於曽の中心に開けた本通り筋の「町屋商店街」は、殆どの商店

高齢化が進んで、シャッターが閉まった商店街の風景になっている。

現在は、昔の中心地、JR塩山駅前から、下於曽の新道沿いに移っている

様子です。次号はその下於曽の中心商業施設の開発状況を紹介します。

お楽しみに!


 



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