新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨市山根を辿る⑧山梨市山根は往古平等村だったこともある!23-0601

2023-06-01 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

山梨市山根は、江戸時代に繁栄した村だった!

今はとても風景が開ける傾斜地の住宅地である!

落合村の西、笛吹川の支流”平等川”の上流に位置す

る。元は落合、正徳寺、山根三村を一村で構成され

、慶長6年(1601)分村したという(甲斐国

志)。慶長古高帳では、落合村に含まれ、幕府領。

今6月号は、筆者も初めての”山根”を辿ってみる!


吉国山永安寺は”古”を感じる寺だ・・・!

まさに、古刹を思わせる風情だが・・・、

もともと、曹洞宗は、甲斐国で普及するために、先に紹介の永昌院に

続き、武田時代から、江戸時代、曹洞宗寺院として隆盛したようだ!


「山根」は、元禄郷帳には、落合村枝郷と注記される。

領主の変遷に正徳寺村と同じ。貞享元年(1684)の検地帳(県立図書館

蔵)によると高221石余。反別は、田14町1反余・畑3町9反余、うち屋敷

1町3反余。宝暦6年(1756)、三郡村高帳によると、山之根村とみえ、

高222石余、うち前々改出・新田高役引12石余。文化(1804~18)

初年、家数76、人数352,馬4(甲斐国志)。明治8年(1975)落合

村など4ケ村と合併、平等村となる。鳳凰神社、曹洞宗宗禅寺、永安寺がある

鳳凰神社は6月28日に”天狗祭”礼が行われた(地誌稿)。現在、維持健闘!

永安寺の庭園は、山梨市指定名勝!


 龍華山永安寺も、江戸時代は、曹洞宗寺院として、隆盛!

永安寺は、人影もなく、とても静寂だった・・・!※人影もなく、写真借用。

裏の庭園は、指定名勝になっているので,関心は高いが、人影もなくば、

 やむを得ず、山梨県指定名勝の写真を拝借して掲載した。

しばらく庭園として眺めていると、名勝に指定されただけのことは

あると思った!山梨市のオフィシャルガイドによると、具体的に

解説があるが、特に山系を思わせる石組みに特徴がある。

当時の石職人は、凄いと思わされた。


鳳凰神社は、地元の人影もなく、静寂そのものだった!

現在は、八嶽山神社の中に、鳳凰神社の石祠がある!

鳳凰神社は。祭礼”天狗際にて、再現されている。


まるで登山のごとく、元気がいるところだ!

現在の様子では、なかなか体力がいるよう!

山梨県は、73%が山や緑と覚えるので、一見、元都会人としては憧れるが

その頃は現役の世界。70歳記念で、富士山(3776m)、北岳(3193

m)へ登れた程度ではダメなよう!今や、登山が続けられる体力がないよう

で、85歳にしてエベレストへ登山記録を持つ、三浦雄一郎氏(90歳)の凄

さを尊敬します。日頃の鍛錬が違いました。今更遅いが、慎重に考える時期

なのかもしれない。 新型コロナにすっかり運動不足になり、身近な支援者が

SIXパッドを用意してくれるも、30数年の鍛えた登山歴などは、何てことな

く崩れ、元に戻すべく努めるも、なかなか、筋力を取り戻すには、何倍かの

時間が掛かるもののようだ❕ブログは続けたいし、試案のしどころだ!


 


山梨市落合と矢坪を辿る⑦落合と矢坪村の上り坂を歩く!23-03~04

2023-04-01 | 山梨の魅力再発見!

3月号は落合、4月号は矢坪村を辿る予定だった!

しかし、落合と矢坪は、地域の区分が難しいので

4月号で、同時に紹介します!

先ず”落合村”を辿ることで、始めたいと思います!

山梨市落合は、以前は、”落合村”と呼ばれていた!

正徳寺村の西に位置し、笛吹川中流右岸に広がる。

南は、別伝(べつでん)村。天正19年(1591)

12月4日の加藤光康寺領証文(永昌院文書)に

落合郷とみえ、永昌院は同郷20俵を寺領として寄進

されている。現在は、とても景色の良い山裾の勾配

のある坂道に面して”佇まい”が映える!

今号は、山梨市にある落合、矢坪地域を紹介します。


山梨県地名辞典”山梨市”編によると永昌院に始まる!

曹洞宗 永昌院(寺院)を見上げると・・・!凄いお寺さんだ!

山梨へ移住後、登山で慣らした元気な筆者は、自転車で山登りした。

曹洞宗の永昌寺は殆ど山麓だが頂上にある。現在、山梨市矢坪に在る。


龍谷山永昌院は、矢坪集落の北方の高台にある。龍谷山と号し、

曹洞宗。本尊は釈迦如来。かつては、中山広厳院(現一宮町)の末。

甲州常法幢七刹の一つ。元は真言宗寺院であったが、永正元年(1

504)武田信昌が一華文英を開山に迎え曹洞宗寺院として創建。

一華は、甲斐国守護武田信重の孫、父は武田信守の弟竹森左馬之助

道恵光寺周檜である。初め、塩山向嶽庵(現甲州市塩山)の俊翁

冷山について会得し、後、中山広厳院開山の柚宗竜に参じて禅奥

を極め、柚門下三傑といわれ、広厳院二世を継いだ。後白河天皇

から、神獄通龍禅師の諡号を賜った。(甲斐国志、日本洞上聰灯録)。

武田信昌は、武田弥三郎信守の子。永生二年の没。法号は、永昌院

殿傑山勝公大禅定門(甲斐国志)。二世の菊隠瑞譚は永正2年から

大永4年(1524)まで、法語集「菊隠録」を著し、現在は当寺

に所蔵されている。三世一樹存松は、桜井逍遥院(現甲府市)の

開山。四世悟宗純嘉は、天文6年(1537)後奈良天皇より

禅師勅書」永昌院文書)。元亀元年(1578)武田信玄は、

「曹洞宗新法度11ケ条」を下して、曹洞禅僧の守る条目を示し

(同年10月1日「曹洞宗法度」永昌院文書)、また、当寺と

竜華院(現中道町)に対しても、六ケ条の掟書を下して、曹洞宗

寺院の統一を図った。(※年代未詳、10月18日寺中条目)


やっと、山麓トップに着いた!長く、大変な坂道であった?!

ここが「龍谷山永昌院」である。いつも思うことであるが・・・、

特に古刹は、寺院の石漂と山門を見るとホッとする瞬間であるが・・・?!


「龍谷山永昌院」には、往時の甲斐守護「武田信昌」の墓が守られている!

第10代甲斐守護「武田信昌の墓」を今も守り続けて頂いている!

武田信昌(のぶまさ)文安4年(1447)~永正2年(1505)

は、室町時代後期(戦国時代)の武将。甲斐の守護第16代の当主。

子に武田信縄(長男)、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、

女子(小笠原清宗妻)など、諸角昌清(虎定)や甲斐市竜王

(旧中巨摩郡竜王町)の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子(妾の子)

である。五郎、刑部大輔、従五位下。落合殿。・・・・・・・・・・

明応元年(1492)、長男の武田信縄に家督を譲り、矢坪に永昌院

を創建。菩提寺としている。また「落合御殿」と呼ばれていたことか

ら、※武田信縄書状(向嶽寺文書)、”万力郷落合に館(隠居館)”を

構えていたと伝わる


「落合御殿」のあった場所と伝わる現JA山梨の場所!

※武田信昌公は隠居後、落合御殿(館)に暮らしたと伝わる!

YS記自習NOTEでは、因みに、第17代当主武田信縄公については、

ブログ2月号の山梨市編の「正徳寺村」にて紹介しているので略すが、

近くの臨済宗「聖徳寺」を信縄が菩提寺としたわけがあるのではない

かと考察できるのである!※信縄公は親孝行であった・・・?!


天正11年(1583)4月19日徳川家康は万力郷内3實文と同所

5貫文、国衙(現御坂町)内1貫文、松本郷(現石和町)内20貫文

(逍遥院分)の寺領を安堵している。※「徳川家康判物写」同文書。

同年と推定される6月13日、寺中、門前での乱暴狼藉などを禁じ

いる。※「徳川家康判物写」同文書。

同19年には、加藤光康より落合郷20俵(同年12月4日「加藤

光康寺領証文」同文書)、文禄年(1594)浅野忠吉より

10俵が寺領として寄進された。

(同年12月4日「浅野忠吉寺領証文」同文書)、同4年に、浅野

長継より三ケ条からなる寺領の禁制が発給されている。

※同年正月28日「浅野長継寺領禁制」同文書)。

年代未詳の寅3月25日の永昌院領年貢手形(同文書)によると、

麦田3反余、上田2反余、上畑1反余など永昌院領合わせて8反余

があり、年貢は九貫五00文であった。慶長8年(1603)落合

村の内で、寺領」41石余を寄進された。

(寺記)この地では、歴史的に由緒高い”大寺院”であったよう!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


谷山永昌院は、この里では、代表的な”公”の大寺院であった!


「八嶽山(やつがだけ)神社」~如何にも由緒ありそうな神社があった!

落合から、登り始めると、早速、八嶽山(やつがだけ)神社があった!


落合から矢坪へ向かう道には、このような標識が目立つ!


夕狩沢古戦場:武田信昌が幼少の頃、武田家復活に寄与した記録が。

ここにも、往古、幼少の頃の武田信昌の記念碑があった!


「矢坪村」、現山梨市矢坪は、落合村の西に位置し、

笛吹川中流左岸の山間地に広がる。村内を平等川が

流れる。地名は当地が古戦場の地として伝えられ、

刀や鉾が出土したと伝わることに由来する。(甲斐

名勝誌)曹洞宗永昌院の寺領内に成立した門前村で、

慶長古高帳には村名は見えないが、落合村永昌院領

として41石余とある。旧高旧領取帳では47石

余となっている。反別は田3町5反余、畑8町4反

余(地誌稿)。落合村に属し、上万力村にある大宮

権現(現金桜神社)が、氏神で、文化(1804~

18)初年の家数38、人数113、(甲斐国志)。

寺領41石余は、慶長8年(1806)寄進の黒

印地で、寛永19年(1642)徳川家光から、

落合村で41石余、松本村(現笛吹市石和)7石余。

併せて48石余を寄進され、以後、代々、朱印寺領

して幕末まで受け継がれていく。(寺記)東平等

川の水を用水として、山根(やまんね)村と利用。

明治4年(1871)寺社領地より独立した村となる。

明治8年正徳寺村など4村と合併。平等村となる。

・・・と記される。


注:YS記自習NOTE)明治維新より、新政府は次々と

各地の再成を行っていると思う。ブログによる筆者

の判断結果については、賛否両論があるでしょうが、

自らが良いと思うことを紹介し続けることにします。

最新の撮影に出向く体力も衰え、時間も掛かるよう

なり、思うよう行かないがコツコツと続けます。

記事内容は、YS記自習の成果を記させて頂くが、

掲載写真は少しだけ古くても、以前自ら取材した

時の写真掲載する予定です。時間差はあります

ご容赦下さい。恐縮ですが・・・?!


 


山梨市を辿る⑥山梨市正徳寺を歩く!23-02

2023-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

山梨市正徳寺は、・・・?!

少し古くなったが、2012年の山梨日日新聞に

「養鰻場に温泉が出た!」と掲載され、大人気に

なっことを思い出す。その”正徳寺温泉”初花”は

現存する「温泉で育った鰻」は食欲をそそった!

筆者も妻と一度、試食したことがある。

現在、首都圏からの客で行列ができるお店「山下

フルーツ農園」の獲り立ての桃を食べられるお店

は、現代にマッチ(SNSをフルに利用)している。

頭が冴えている、新しい人が多い街だと思う!

今号は山梨市「正徳寺村」の良い処を紹介します。


正徳寺温泉「初花」、最近の観光資源!地元で人気の日帰り温泉!


「養鰻場に温泉が出た!」、「難しい、えずけ作業、出荷までに、

半年から1年!」地元もマスコミも、ヒト騒ぎあったことを思い出す!

地元もマスコミもヒト騒ぎあって、地元で、鰻の美味しい”初花”と

して有名な山梨市の観光施設になったことは、確かである!?

筆者も家内と試食に行った。美味しい鰻であったことは異存ないが、

表のサービスの体制が出来ていないで、幻滅したことを思い出す!

パートさん(だけで・・・)体制を組み立てるのは難しいのか!?

当時の新聞抜粋を見ると、「和風”樽風呂”に人気」直径約1間

(1.8m)の木製(一度に4~5人は入浴できる)、他に、

大野天風呂、うち風呂、寝湯、サウナ、超音波風呂などを完備。

一日ごとに、男湯、女湯の入れ替えなど、日帰り温泉ブームとは云

え、造ればお客が来ると云うわけにはいかない。

家内のように大浴場が好きでない女性もいることを忘れてはならない。

昔、ある温泉地に、アメリカ人夫婦を招待し、喜ぶと思って大浴場に

案内したら、激怒されたことを思い出した。その訳と同じであった。


泉質は,低張牲アルカリ泉で、源泉は40.2℃程度。神経痛、

関節痛、疲労回復などに効用がある。※山梨県内の温泉の泉質は

殆ど同じだが、やはり料理、施設、サービスが三拍子そろわないと、

長いブームを続けるのは難しいようだ!?


武田家累代党首の中で、信玄が崇めた高祖は信成と信縄公であった!

「長興院殿」は、何と武田信玄の高祖、武田信縄公の戒名であった!

そのお墓(五輪塔)が現山梨市正徳寺の「聖徳寺」にあったのだ!

実は、数年前、ある方に資料を見せられて、あの「乾徳山恵林寺の

寺伝「恵林寺50年史」を自習した時に、知ったことでるが、殆ど

山梨県人が、今も尊敬する武田信玄の菩提寺乾徳山恵林寺に菩提

寺を定めた時、招聘した快川国師に直願した恵林寺の塔頭「長興院」

「継統院」の2棟であった。「長興院」は・・・、あの武田信玄が

選んだ”武田家累代の高祖として、累代の中で武田信縄と武田信成

公の二人のみ選んで高祖と崇めたのかと考察したが、素人的には

生涯において、たった一度すら、戦に負けたことがない二人だと云

ことが分かったが、その二人の高祖を選んで、快川国師に嘆願し

てまで、塔頭を建てたのかと筆者は考察したが、「ここで記して

おきたいが武田信成公は、確かに、信玄が選んだ二人の高祖のうち

の一人だとして、信縄公は?と考えるも、武田家終焉の将として

位置づけされる武田勝頼公の代になって、「高祖二人の中に、

長興院殿がいて、尊父の信虎公が崇められていないのはおかしい」

と云い「長興院殿を聖徳寺に戻した」という話を思い出す。

「信玄が追い出した信虎ではないか?!」思うこともあるが・・・。


※確かに、その時の歴史の記録を学ぶだけでは分からないことが

多い!筆者も、後でわかってきたことであるが、現在の恵林寺の

境内に勝頼時代に、長興院が戻されたことが記された石碑が残され

いた。


日本地名大辞典~山梨市編では・・・、

笛吹川中流右岸に位置し、北は上万力村、西は落合村。村内を南北に

青梅往還が通る。天正10年(1582)9月2日の徳川家印判状

写(【巨摩郡古文書】若尾資料)に「甲州万力内常徳寺分十八貫文」

とみえ、土橋左衛門尉は、当地を含め計25實文を本領である事を

含め駿河国厚原(現静岡県富士市)の替地として宛がわれている。

・・・・・、「甲斐国志」によると、もとは、落合・山根・正徳寺

の三村で1村を構成し、慶長6年(1601)以降分村したと云う。

慶長古高帳では、落合村の高一千二五一石余りのうちで幕府領。

元禄卿帳では、落合村枝郷とあり、甲府家領。・・・・・・、

文化(1804~18)初年、家数98.人数348、※甲斐国志

現在山梨市正徳寺では、・・・

用水は笛吹川の立川堰(差出堰ともいう)を当村他、17ケ村で

利用(※甲斐国志、地誌稿)。、他に、当村で水を引き入れ、当村、

桑戸、小松(現春日居町)の三ケ村で利用した三箇村堰があった。

(※甲斐国志)、若宮社、臨済宗聖徳寺(現臨済宗向嶽寺派)があり

、・・・、明治8年(1875)上岩下、山根、矢坪、落合の四ケ村

が合併、平等(ひらしな)村となる。

など、各自治体により変遷があるが、高齢化社会によって、大都会と

違い生い立ち村の歴史を尊重する人が多く、変遷に基調を守っている。

それでいて、新しい息吹を感じられる。山梨市の今を感じる・・・!


 

 

 


2023年元旦 初詣は由緒ある甲州市塩山の菅田神社!2023-01

2023-01-01 | 甲斐国山梨の初詣

2023年元旦、明けまして、おめでとうございます!

甲州市は、歴史資源が豊富な街だ!新年の初詣は、

「菅田神社」へ詣でた!「菅田神社」も厳かです!

今迄は、甲斐国一宮の「浅間神社」へ自転車で初詣

したが、山梨県では歴史由緒の深い「菅田神社」へ

初詣した!

今号は、「2023年初詣は、菅田神社へ」を紹介!


甲州市塩山の市内中心地にありながら、今でも厳かな境内の雰囲気だ!

菅田天神社の赤鳥居を潜って進むと、正面突当りに新羅宮(国宝盾無鎧所蔵庫)

甲州市塩山上於曽に鎮座。一昨年、改めて学び直した時に、撮影した写真と

記事を再度掲載します。

祭神は、ㇲサノウノミコト及び、五男三女神、相殿に菅原道真を祭祀。

社記によると、承和9年(842)国司藤原伊勢雄が勅を奉じ、甲斐小目飯高

濱成に命じて創立したという。寛弘5年(1004)、菅原道真を相殿で合祀。


これ以来、「菅田天神社」と称した。

新羅三郎義光以来、甲斐源氏の鎮守とされ、社の位置が甲斐・府中の鬼門に

あたるので、武田家累代は、「盾無鎧」をこの宮に預け、於曽氏にその保管を

させ、大事あるごとに、出納を命じたという。

※武田氏拠点館は、石和から甲府(甲斐府中)「躑躅ケ崎」へと移転し、

信虎、信玄の時代となる。

※山梨県神社庁は、勧請当初は「神田明神」と称したと記す。


 

隋神門から本殿に向かう石段は、厳か・・・!


 

新羅宮には、現、国宝、武田家宝の「盾無鎧」が昔のまま納められている!


実はこの菅田神社で有名な話が伝わる「楯無鎧」は境内鳥居前の「解説版」

よると・・・、

「楯無鎧」は、天正10年武田家滅亡の時、塩山向岳寺大杉の下に

埋められ、※筆者も大杉の場所を探したが、埋められた場所は不詳であった。

徳川家康により、掘り出され、再び、当社に奉納された。その後、

盗難に遭って破損し、實政5年(1793)江戸にて修復が行われた

と云われる。(※甲斐国志)

現在も新羅宮に所蔵してあるが、古朽のためか?! 拝観できない。                               

山梨県立博物館にある全面的に修復されている「楯無鎧」の

「レプリカ」だが、精巧なので、じっくりと鑑賞できる。→お勧め!

第五代当主武田信光は、石和五郎信光とも称し、現石和町市部辺りに

館を構えたと伝わる。武田氏宗家とも云われる武田信義の嫡子で、

第五代当主となる。何故第五代を取り上げるかというと「石和御厨」

は、平安時代に朝廷から認められた「石和御厨」あたりに本拠を構え

ことがあり、神明神社、石和八幡宮のある寺部、窪中島辺りに比定

されている。平安末期~鎌倉初期の武将で、往時、武田家で、唯一、

鎌倉の頼朝の信頼をえて、武田家存続の要になり、承久の乱以後、

安芸守、伊豆守となっている。※武田家累代の五代までは安芸守として、

実質?鎌倉幕府に左遷されたと考察されるが、武田信義などは、武力の脅威

もあり、疎まれたと思われる。

「伊豆入道光蓮」と称した。館跡として、鎌倉名越館、甲府・小瀬の諏訪

神社(甲斐国志)、北杜市須玉町中尾城(須玉町誌)などがあるが、むしろ

鎌倉幕府にて活躍し、甲斐国での足跡は薄いのが特徴である。

墓所は北杜市伝信光寺(位牌)、静岡県韮山町、伝信光寺(五輪塔)がある

が、何故、頼朝に信頼されていたのか・・・?!左遷状態といえども、安芸守

として、数年間忍び、物語になりそうな人物像だと思われるので、

興味を持ち続けたい!


 


山梨市を辿る⑤現小原西、小原東村の往古! 22-12

2022-12-01 | 山梨の魅力再発見!

小原庄」は往古の山梨市の中心地域であった?!

現山梨市の中心地として街には風情が残る・・・!

現小原西、小原東村付近にあったとされる荘園。

建治元年(1275)、10月以前に出された

関東評定事書(陽明文庫、本式目追加)に甲斐国

小原庄が諸人越訴停止を命令した際の事例として

掲げられている。・・・小原西の妙音寺は、安田

義定の館跡と伝える(甲斐国志)。安田氏の名字

の地と云われる安田郷は、八幡庄域内であるが、

当庄と八幡庄の関係は、判然としない。


八幡庄の中心になった「大井俣窪八幡神社の本殿」も現在も健在に・・・!


安田館が構えられたと云う小原西の現状は全く往古の勢いはないが・・・、

今も市役所や中心街に最も近い。小原東も隣接する清寂な宅地圏域である!


安田義定と大井俣窪八幡のゆかり検証資料:嘗てこの地を安田義定も崇敬?

2019年、山梨県の方は、なぜ「武田信玄」ばかりを崇敬する?!

と、隣の山梨市は、安田義定ゆかりの地ではないかと、学習に没頭し

たことがある。その時に作成した学習資料で恐縮ですが、添付した!


上記に添付した資料と、大井俣窪八幡の写真は、往時、取材したものですが、

改めて、「窪八幡神社」を再学習してみたい。

当時、知った当八幡の史料では、「大井俣窪八幡神社(通称:窪八幡)は、

貞観元年(859)に清和天皇の勅願により、宇佐八幡を勧請して以来、

1千年を超す歴史を有し、後世には、武田氏を始め甲斐源氏の崇敬を集めた

伝統ある神社。YS記:当時学習した記憶では、あの甲斐源氏”始祖新羅三郎

義光が、安田館のあったと云う現小原西地区にあった大井俣神社が度々水害に

合うので、窪に場所を移転して、創建したと云う由緒ある神社です。

注)武田家の始祖とされる新羅三郎義光は、現在山梨県内にある”源氏山”が、

山城であったと云う伝説を辿って、若い頃、登山したことがあるが、山上には

それらしきものはなく、現在も特に武田氏に関して物知りと言われた平山優氏

を訪ねたことはあるが、往時、殆どの学者の研究テーマであったらしく・・・、

「新羅三郎義光は、往時、甲斐国に居を構えたことはないと学んで以来、

武田家の始祖と云われる新羅三郎義光は、歴史上の人物で祀ることにした。

それ以来、新羅三郎義光は、創建を伝えている古刹もあるが、そのことは

伝えていない。伝説・伝承は証さない方が良いと思う一人でもある。