ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

今季のドラマはVIVANTが最高

2023-09-02 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

毎日暑いですね。

テレビ見てますか?

私は内職始めたらテレビを見る暇もなくなってしまい、あれこれ撮りだめしているんですけど、今季のドラマは結構優劣つけやすいですね。

トリリオンゲーム」は2話で挫折。「この素晴らしき世界」もつまんなくなってやめました。月9とかは全然見てないし。

刑事7人」あっさり終わったけど難しすぎた~~~~

で、今期の話題は「VIVANT」ですね。

最初見た時、びっくりしました。私、撮影しているのはてっきり鳥取砂丘だと思っていたんです。でもそのわりには砂漠のうねり方がリアルだなと思って。

CGまさかね~~って思ってたら何とモンゴルに行ってた!

今時珍しい海外ロケ。堺雅人はすごくこの撮影が楽しかったようですけど、他のメンバーは食事にちょっと・・・かな。

知らなかった事だらけで。いやー自衛隊に「別班」って本当にあるの?から始まって。その出演者の豪華なこと。

二宮和也が初めてハンサムに見えたな~~~とか。

乃木さんの家って、都心の一等地にあるのかな?え?お邪魔したら抹茶が出てくるの?あのお赤飯の色はなんだ?とか、様々な事を考えてしまい。

あっさり殺された珠城りょう!! これだけかい?うっそ~~~

二重人格の乃木さん、もしかしてもう一つ人格が?

癒しのドラムや~~

ドラム、日本でもこの格好なのね。

展開が見えないというか、先が気になる。久しぶりのドラマですね。

最後の「別班」は竜星涼なのか?

 

で、次はね「ばらかもん」これは杉野遥亮の出世作になりそうな。

五島列島がこんなに彼に似合うとは。

今時いそうな若者で、それと子供達の可愛いこと。

実際に、あんなプライバシーのない生活は耐えられるかどうかわからないけど、やっぱりどこか懐かしくて憧れます。

書道に悩む彼の存在が身近であるし、かっこいいし、ぴったりですよね。

毎回楽しみに見てます。

特にこの女子高生2人がいい味出しているのよ。

 

さらに「ハヤブサ消防団」

いやいや、まさか何だかオカルトっぽい話とはね。

ここではよそ者の山本耕史が結構、すぐにはやぶさに入り込んで重要な役回りをしているのが面白いのと、

古川雄大が・・不気味な所が素敵 舞台、見たいわ~~~

池井戸潤ぽくないと最初は思ったけどとんでもない。

すっかり池井戸小説になってます。

 

それと意外にはまる「転職の魔王様」と「シッコウ」です。

何だかやめられないドラマですね。

転職なんて私にはもう関係ない話なんだけど、妙に説得力があるというか。

でもな~~宮野守でしたっけ?彼の大げさな演技には笑ったわ。

「シッコウ」もまさか織田裕二が脇で出てくるとは思わなかったんですけど、いやいや年寄も頑張るぞみたいな感じで面白いです。

「執行官」って国家公務員なのに歩合制だなんてやってられない仕事だなあと思いつつ見てます。

 

正直、他のドラマはね、ぜーーんぶだめかな。

全部勝利は「VIVANT」に持ってかれた。

堺雅人と阿部寛じゃ勝ち目ないって。

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録49

2023-09-01 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2007年3月16日 奥志賀へスキー旅行

 2007年3月20日 帰京

 2007年4月7日 都バス六本木ヒルズから「ちいぱす」体験

 

 2007年4月15日 オール学習院

 2007年5月3日 御料牧場

 2007年5月15日 新宿御苑に遠足

 2007年5月21日 両陛下東欧旅行見送り

認知・・というのは「起きた出来事への感情」です。

例えば、雅子様の場合、最初の挫折はお妃教育での「神道」についてでしょう。

何を書いてあるのかさっぱりわけがわからない。

何の意味があるのかわからない。けれど目の前の講師は大真面目で話してくる。

普通の「認知」では「理解出来ない→自分は馬鹿かもしれない」と思ってなやみます。

しかし、「認知」が歪むと「これは日本語で書いてあるからいけないのだ」と考えます。

つまりご自分には一切責任がないので、成長もないのです。

これでは、日々何を失敗しても落ち込むより先に「こうなったのは〇〇が悪いせいだ」と考えるので、それを矯正するのは大変な事です。

愛子様が生まれた時、「女の子が生まれたのは堤医師のせい」で、その子が発達障害だったのも堤医師のせい、もしくは天皇家の血筋のせい。

そう考えるととても楽ですし、責められる事もないように思えました。

 

愛子様を育てる中で、雅子様はどんどん「お子様」に退化していきました。

皇太子様を盾に愛子様が遊ぶ名目で、実際のところ、ご自分がお楽しみになっていたのですから。それは叶えられなかった小さい頃の体験を追体験したいという願望がそうさせたのかもしれません。

雅子様の心に湧き上がるのは「〇〇をしたい」「反対された→パニック→自分は否定されている→悔しい→しかえしをしたい」という恐ろしく歪んだ感情なので、こればかりは大野先生の手にも負えませんでした。

電気治療を施したとしても、認知のゆがみをとる薬はありませんし、ご自分から自覚して変わっていくしかないのです。

けれど、雅子様の心は決して変わりませんでした。

次第に、犯罪者の認知に近づいていっている事にも、ご本人は気づかずただただ、日々遊んで嫌いな事はしないと言う生活を送っていたのです。

公務をすれば、手順が覚えられないから注意される→不愉快になる→同じ失敗はしたくない→公務に出なければいいのだ。

カウンセリングでその認知のゆがみに気づかれればよかったけれど、雅子様は真夜中でも大野先生と話し込む五程に心許してはいましたが、それでも頑として自分の気持ちの方が正しいと言い張っていました。

 

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録48

2023-08-29 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

年末が近くなると、雅子様の行動はより「自分本位」に拍車がかかって行きました。

国賓を招いての晩さん会に欠席して乗馬へ行くとか、式典をサボるなどと言う事は珍しくありません。

雅子様の中の線引きは「出たくないもの」「やりたいことをやる」ですから、当然の結果であるとは思います。

しかし、それを助長させていっているのは大野医師によるお墨付きで、もはや先生は雅子様の言い訳の為に存在しているようなものでした。

さらに愛子内親王も、幼稚園を度々休む事があり、理由は風邪だったり「お疲れ」だったりするのですが、要は母も娘も夜更かしで朝が苦手という共通した癖を持っていた事です。

皇太子殿下は毎朝決まって7時にはダイニングに入り、朝食を召し上がりながらNHKを見たり新聞を読んだりします。いつも一人です。

愛子内親王はいつもぎりぎりに起きて、せきたてられるように食事をして幼稚園に向かいますが、そうでないときは昼間で寝ています。

雅子様は完全に夜型になっていますので、朝食は昼の12時、昼食は夕方、夜食はお腹がすいたら・・・当然夜は眠れませんので広い東宮御所の庭を一人で歩き回ったりします。

そこで犬を見つけたり狸をみつけたりされるのですが、かなり異常な行動です。

また、一晩中大野先生に電話をして医師の睡眠を妨げる事もやっていました。

通常、夜中に電話するのはあまりにも礼儀知らずといえますが、雅子様の場合は「カウンセリング」と言う名目があり、大野先生もお断りする事が出来ないのです。

妻が他の男性と夜中に電話をしていても、皇太子様はまるっきり、意に介しません。

雅子様の行動にケチをつけると、後が大変だからです。

こんな半分怯えたような生活を送る皇太子様は、それが10年も続けばすっかり慣れてしまい、異常だとも思わなくなりました。

 

恒例の「新年の天皇ご一家」の写真撮影は12月11日に設定されていましたが、愛子様の体調不良でドタキャン。急きょ14日になりました。

 2006年11月10日 皇太子一家と池田礼子一家、恵比寿でパスタラン

 2006年12月14日 新年写真撮影会と夕食会の為に参内

そこでまたも、福迫出仕を撮影会に立ち合わせた東宮家に、天皇陛下は怒り心頭でした。

ただ怒ったり怒鳴ったりすると必ず美智子皇后が助け船を出す事がわかっていますので、

それも出来ず、ただただ陛下はストレスをためこんでしまいました。

 

 2006年12月20日 東京ミレナリオを見ながらウェステインホテル最上階で池田礼子一家と食事

そもそも雅子様の写真を撮る時には「ストロボ禁止」命令が出ているのに、その一家が東京ミレナリオを見て、ホテルの最上階でクリスマスパーティなどありえない話です。

しかし「これも治療の一環」と言われたら誰も何もいえません。

池田家も交えて、高額の食事会は夜中まで続きました。

 

 2006年12月23日 天皇誕生日

この年、天皇陛下は記者会見で

残念な事に愛子は幼稚園生活を始めたばかりで私どもと会う機会が少ないことです。

いずれは会う機会も増えて打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています

と、おっしゃいました。

要するに内親王も含めて東宮家の参内が少ないと言う事です。

小和田家のご両親には何度も会うけど、両陛下には会わない。

このご発言は何度も週刊誌に取り上げられ、皇太子一家の「親不孝ぶり」を世間に広める結果となりました。

 2006年12月28日 皇居の餅つき

 皇居で行う餅つきは元々は皇后陛下の発案で、一年働いてくれた職員へのお礼もかねて、餅つきをして職員たち、皇族らと一緒に楽しもうという企画です。

しかし、ここでも参加したのは皇太子殿下と愛子内親王のみ。雅子様は「体調不良」の為に午前中一杯参加せず、お餅が出来上がった頃に登場して召し上がるだけでした。

 

 2007年1月1日 天皇ご一家

この年の主役は悠仁親王でした。誰もが生まれたばかりの赤ちゃんに目がいき、微笑ましくしているのですが、愛子内親王はそれが誰だかわからないように見つめるばかり。

心のどこかで自分が主役じゃない事に怒っていたのかもしれません。

それを察した眞子様と佳子様が一生懸命に愛子様に付き添い、お相手を務め、ようやく少し笑顔が出ました。

 2007年1月2日 一般参賀

 2007年2月23日 皇太子殿下誕生日

雅子については,天皇皇后両陛下よりご理解とお励ましを頂き,また,多くの国民の皆さんからも温かいお気持ちやお力添えを頂いていることに心から感謝を申し上げます。

雅子も体調を見ながらできるだけの努力をしており,それに伴い,少しずつ活動の幅が広がり,徐々に快方に向かっておりますが,お医者様が,個々の活動の後に疲れが残ることがあると指摘されているように,活動をどのくらいまとめて行うことができるかその時々で判断せざるをえない状況です。

今後大切なことはお医者様のご指導の下,公務であるかどうかを問わずに更に活動の幅を広げていき,そして,個々の活動に自信を深めていくことであると考えます。活動に自信が持てるようになれば,公的な性格のある活動を行う幅もおのずと広がっていくものと思います。

国民の皆さんにも状況をご理解いただき,長い目で見守っていただきたくお願いいたします。

愛子はお陰様で幼稚園の生活をとても楽しんでいるようです。

また,幼稚園に入り,大きく成長したように見受けられます。園児一人一人を同じように扱うという幼稚園の方針の下で集団生活に溶け込んでいます。

この4月から年長組になることを今から楽しみにしています。

私たちの教育方針は一昨年のこの会見でも詳しくお話しましたので繰り返しませんが,これが幼稚園の教育方針と合わさって,愛子が名前のとおり,人から愛され人を愛すような人間に育っていってほしいと願っております。

愛子の健康管理には常に気を配っております。

風邪を引くこともありますけれども,これは私自身の幼稚園時代を振り返ってみましてもよく風邪を引いては幼稚園を休んでおりましたので,このようなことを通して,体も丈夫になっていくのだと思います。

幸いに大きな病気や怪我(けが)をすることもなく健やかに育っていることを嬉(うれ)しく思っております。

天皇陛下の愛子に対するお気持ちを大切に受け止めて,これからも両陛下とお会いする機会を作っていきたいと思います。

愛子は両陛下のいらっしゃる御所に上がらせていただく前には,畑で作った野菜をとったり,花を摘んで花かごを作ったり,カルタや双六(すごろく),折り紙などご一緒に遊んでいただけるものを用意し,両陛下にお会いすることをいつも大変楽しみにしております

皇太子様は、悠仁殿下には言及せず、また、「愛子に会えない」といおっしゃった天皇陛下には「私もよく風邪をひいて」と言い返したのでした。

皇太子様は天皇陛下の「言外」のお気持ちを汲む事がお出来にならない人でした。

それは雅子様も同じで、そこにコミュニケーションが苦手という生来のものが加わってしまったので、まさに会う方にはよい思い出を作って差し上げる事が出来ないのでした。

相手に対し、それがどんな意味を持つのか、どのような気の使い方をするのかがおわかりにならない両殿下ですので、特に海外の王族の方々からはあまり好かれていません。

気の毒なのは、その事にお二人全く、未来永劫気づく事がないと言う事でした。

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録47

2023-08-26 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2026年10月20日 美智子皇后誕生日行事を欠席

2006年10月20日。その日は皇后様のお誕生日でした。

各皇族は参内し、お祝い申し上げ東宮家と秋篠宮家は夕食会にも招かれていました。

東宮家は最初、3人で参内する予定だったのですが、実際に現れたのは皇太子様一人。

あまりの事に、皇后様はいたく失望され「どうしたの」とお聞きになりました。

雅子は喪中なので失礼します。愛子は幼稚園の行事が続いて疲れたみたいで

しらっとそういう皇太子様に、誰もが怒りを抱きました。

というのも、愛子内親王はちゃんとその日は幼稚園に行っていたからです。

雅子様としては「もし愛子と皇太子だけで参内させたら私についてあれこれ聞くかもしれない。悪口を吹き込むかもしれない」

そう思うとたまらなかったので、内親王も行かせなかったのです。

そうだろうなというのは、両陛下にも宮家にもわかってはいた事です。

でもこの世で孫に会いたくない祖父母がいるでしょうか。

雅子様はついこの間、江頭家のおじい様を亡くされました。

オランダでは小和田家のご両親に内親王を預けたりされていました。

なのに両陛下にはほとんど会わせないのです。

愛子様は5歳。本来であれば着袴の儀をなさらなくてはいけません。

しかし、そのスケジュールについて、皇后陛下が何度尋ねようとも返事もしなければ、ご相談もしませんでした。

仕方なく皇后陛下はお誕生日の文書で「愛子の可愛い着袴の姿を見る事ができるでしょう」と書き、やっと回りも「そう言えば・・・」と思ったのです。

すでに、内親王には両陛下より装束を賜っていました。

けれど、こういう儀式が大嫌いな雅子様はずっとほおっていたのです。

雅子様にとって「儀式」「習わし」「しきたり」は禁句でしかありません。

なぜなら準備が面倒なのと手順を覚える事が出来ないからです。

週刊誌は散々「愛子さまを天皇に」と書いているのですから、それを考えれば着袴の儀を盛大にすればより箔漬けになる筈です。

けれど、着袴の儀は神事で、内親王がそれを出来るとはとても思えませんし、ぎゃあぎゃあ嫌がる娘に無理に装束を着せるのも嫌でした。

お祝いをしてくれた方々に配るボンボニエールなどを選ぶのも嫌いで、出来ればスルーしていたかったのです。

お誕生日に参内しなかったのはそういう理由もありました。

けれど、皇后様の方が一枚上手で、これは必ずやらなくてはいけないという事になってしまいました。

それを小和田家に相談すると

あら、盛大にやったらいいわ。姫の装束ってえびちゃで地味よね。本番ではそれを着せるとしても、皇居に行く時くらいはもっと可愛いのにすればいいわ。おばあちゃまが見立ててあげるわよ」

と母君は大乗り気になってしまいました。

 

 2006年11月7日 着袴の儀習礼

そして、とうとう着袴の儀の習礼の映像を残す事になりました。

内親王の袴は未婚の場合は濃き色、既婚は赤と決まっています。

福迫他、沢山の女官の手を借りて着付けを行うのですが、古くからの女官があまりいなくなっている東宮御所では、その手順を行う事が大変でした。

おまけに内親王は黙っている事が出来ず、身体をくねくねさせたり、叫んだり、ぶつぶつ言ったり、走りだそうとしたりとそれはもう大変な事でした。

漸く、1枚の写真は撮影出来たのですが、すぐに体が崩れてしまいます。

それでもまあ、金屏風の前で両陛下からプレゼントされた装束と檜扇を持って立つ娘はそれなりに可愛らしく、威厳があるような気がします。

 

 2006年11月11日 内親王着袴の儀

そして本番が来ました。

親王の場合は碁盤から飛び降りますが、内親王はそれをしません。

この時も神事に向かう為の着替えに手間取り、うまくいかなかったのですが撮影されるわけでもなかったので、そこらへんは適当にと言いました。

そして、無事に着袴の儀を終えた事報告する為、両陛下にご挨拶する時、愛子様が着ていたのは費用は東宮、デザインは小和田の母君と雅子様で決めた前代未聞の「道中着」でした。

下の袴は濃き色に見えますが、染めが安っぽく、上着は蛍光色のピンクに裏地が黄色という、何ともコスチューム感満載のもので、得意気に見せてはいましたが、いわゆる「古典色」とは別物です。

見る人が見れば「これは・・・」と思う筈です。

しかも、一緒に参内する雅子様はシルクとはいえスーツでした。

こういう時はローブモンタントでなければいけないのに、裾長ドレスは気にくいとPTAスーツになってしまったのでした。

愛子内親王の装束に両陛下は驚き、特に着物にうるさい皇后陛下はまたも失望させられました。

でも何よりも哀れなのは、自分の娘が安物のまがい物を着ているというのに、全くそれに気づかずにこにこ笑っている皇太子殿下です。

皇太子様はきちんとモーンニングを着用しているのに、雅子様はPTAスーツ。いつまでたってもTPOがわからない嫁に、ひたすらため息しか出ない皇后陛下。

それでも、皇后様は慈愛の人ですので、突き放したり𠮟りつけたりはなさいません。

やさしく「可愛いわね。愛子。気に入ったの?どう?」と優しく語りかけられました。

内親王はなぜ自分がここにいるのかさっぱりわからず、ぽかんとしています。

この子は一生皇室で面倒を見なければ)皇后さまはそう思いました。

頭には「ねむの木」学園や旭出学園の子供達の姿が浮かんでいたのです。

 

 2006年11月17日 多摩動物園遠足

 

オランダから帰国すれば、公務復帰されるだろうと期待された雅子様でしたが、そんな約束はしていないとの如く、生活はどんどん愛子様中心になり、公務にはお出にならなくなりました。

雅子様は愛子様と一緒に遠足や芋ほりを経験する度に、自分の子供時代を取り戻しているような気がしてとても楽しいのです。

国民の為とか、国家の為とかそんな話は雅子さまには通じません。

皇室に入って皇太子妃という立場なのだから、その地位を使ってより有利に物事を運びたいと思うばかりです。

遠足にもついていくし、送り迎えもされるし、ママ友たちとお茶もする。

そんな「専業主婦」のような生活が好き・・・とはいっても雅子様は家事はなさいませんし、育児とはいっても、内親王の面倒は福迫出仕が見ていますので、いわば「ママごっこ」のようなものでした。

 

 2006年12月1日 愛子内親王5歳

 2006年12月9日 雅子妃43歳

雅子さまは12月9日に43歳のお誕生日を迎えました。

実は、お誕生日文書というのはお誕生日の朝1番に新聞に載るように事前に手渡されます。

つまり12月7日にはマスコミの手に渡っていなくてはならないのです。

しかし、その年は違いました。

7日が終わっても手渡されず、8日になってやっと渡されたのです。

雅子様が文書を大幅に書き直しているのではないか、具合が悪いのではないか・・・等々憶測が飛び交いましたが、書き直しというより、締め切りを護れない雅子様は7日の夜になって書き始めたというのが正直なところです。

ご優秀な雅子様はコミュニケーションをとる事が苦手であると同時に、文章を書くことも苦手です。実際、あまり本を読まないし、自分の心を正直に文章にする事も、飾る事も出来ません。

ゆえに大野医師による「認知行動療法」はさっぱり進みません。

そもそもご自分を客観視する事が出来ないのです。

 

国民は40年ぶりの「親王殿下」誕生になにかしらコメントがあるだろうと楽しみにしていたのですが、雅子様の文書は「愛子にも可愛いいとこが増えました」とだけ触れました。

そして恒例の医師団見解は

妃殿下におかれましては、徐々にではありますがご快復に向かわれており、今後も焦ることなくひとつひとつ可能な活動を積み重ねていただくことが重要だと考えております。
 今年は、まだ体調に波がおありの中、日常のご活動に加えて、オランダのご静養や奈良県への地方行啓など、活動の範囲を広げるようにご努力いただいたことは、治療を進めるうえでとても有意義でありました。

また、今年から愛子内親王殿下のご通園が始まりましたが、幼稚園生活をはじめとして育児に心を配られていることは、妃殿下の心身のご健康にとっても大きな意味があるものと考えております。
 なお、妃殿下のご活動の幅はこのように広がってきてはいらっしゃいますが、ご活動の後に予想以上の疲れが残られるために、ご自身が思っていらっしゃるようには行動がおできになれないこともあり、引き続きご治療が必要な状態でいらっしゃいます」

医師団は何を目指しているのか、この文章ではさっぱりわかりません。

当然、全て雅子様が考え出した文章ですから。

元気だけどそんなに元気ってわけじゃない」という絶妙な間合いが大事なのです。

自分を客観視は出来ないけど、自分を持ち上げる事は出来るというのが雅子さまの得意技ではありました。

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録46

2023-08-23 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2006年9月18日 皇太子トンガ訪問見送り

オランダから帰国後の雅子様は、国民の期待とは真逆の方向に進み始め

ました。静養から帰られたのだから、きちんと公務が出来るようになっている筈だと、誰もが考えていたのです。

しかし、雅子様は相変わらず地方公務にはお出になりませんでしたし、より一層愛子様にかかりきりになるように。

皇太子殿下がトンガに行く折にも同行せず、お見送りだけです。

雅子様としては「自分が嫌だと思った」事は絶対しない・・・そんな決意をオランダでされたのではないかと。

9月には、チッソの元会長で雅子様の祖父、江頭豊氏が亡くなりました。

通常、こういった場合、通夜や葬儀には出席しないものですが、雅子様は皇太子様と愛子様とお通夜の席に着きました。

これには回りの反対が相当ありました。

雅子様のおじい様はチッソの元会長で未だに水俣事件は解決していません。そのような方のご葬儀に家族そとってお出ましになるのはよろしくありません。行かれるなら雅子さまだけで」と宮内庁には言われたのですが、雅子様は「私の大事な祖父よ。という事は殿下の祖父でもあるんですけど」と反論、

「恐れ多い事を・・・・」現場が真っ青になるなか、とうとう雅子様は皇太子様と愛子様を連れて通夜にご出席。

それだけではありません。

翌日の葬儀にはご夫妻で参列されたのです。世の中には水俣病患者やその遺族は多数おり、解決したわけではありません。むしろ泣き寝入りの方が正しい見方です。

雅子様は皇太子妃という立場よりも「小和田家の娘」の立場をとり、皇太子様や内親王もそういう立場に忌避図られました。

日頃は雅子様はを「チッソ」とは関係ないように見ていた人でも。この一件で改めて雅子様が江頭豊氏との血のつながりを感じた人もいた事でしょう。

 2006年9月26日 江頭豊死去に伴い弔問

 2006年9月27日 江頭豊葬儀

香淳皇后の葬儀には出席しなかった雅子様は、ご自分の身内には通夜や葬儀まで出られる。

そういった行動が皇族としてどうなのかとは考えが至らないのでした。

 

 2006年10月8日 学習院幼稚園運動会

10月には愛子様の運動会があり、皇太子夫妻は一般の父兄席を陣取って、大笑いしながら写真を撮影していました。

周りの保護者にはそれは許されなかったのですが。

 

 2006年10月14日 学習院初等科運動会見学

それから幼稚園生は、学習院初等科の運動会も見学しました。

園児たちは席でおとなしく座って競技を見なくてはならないのですが、愛子様は、立ち上がったりきょろきょろしたりと落ち着かず、回りをはらはらさせました。

この初等科の運動会には、佳子様の応援に紀子様もいらしていたのですが、一方的に

久しぶりね」とお声をかけた雅子様は、少々お疲れ気味の紀子様の真横で延々と話しかけていました。

それというのも、雅子様は人見知りで、取り巻はあれど、本当に会話が出来る人がいなかったからです。

落ち着きがあるかどうか、黙って座っていられるかどうか、そんなものはどうだっていいのです。要は愛子内親王が楽しんでいれば。

雅子様にとって大事なのはそこでした。

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録45

2023-08-21 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2006年9月2日 帰国報告の為参内

無事にオランダから帰国した東宮一家でした。

早速皇居に参内し、両陛下にご挨拶をしたものの、会話は続かず、僅か20分で退出する事に。

美智子様はともかく、陛下の頭の中には数日後に生まれるだろう秋篠宮家のお子様で一杯だったのです。

あいにく9月6日は北海道での公務が予定されており、皇居にいる事は出来ません。

皇居で待ちたい。でも特別扱いをしたと雅子妃が怒るだろう」との配慮で、あえて公務を入れたのです。

秋篠宮家に生まれる子はそれが女子であっても男子であっても大した出来事ではない」という印象操作をする為です。

 

 2006年9月6日 秋篠宮家に親王誕生

9月6日の朝、その日は曇りでいつ大雨が来てもおかしくないという天気でした。

けれど、空には龍の形の雲が飛び、誰もが瑞兆を信じていました。

愛育病院の分娩室の前では、SP数人の他に銃を携帯した女性警官も立っていました。

紀子様ご懐妊以来、政府の左翼、フェミニストからのひどいバッシング、週刊誌等によるバッシングに危機感を感じていた宮内庁は、万が一の事があってはならないと、厳重に分娩室をお守りする事にしたのです。

朝、病室を出る時、紀子様は「行ってまいります」と殿下に挨拶され、分娩室に入り、帝王切開の処置をお受けになりました。

響き渡った産声、それは間違いなく男の子、つまり親王殿下のものでした。

帰ってまいりました

ご苦労さん」の会話は穏やかで幸せに満ち、産着に包まれた親王殿下はもう泣くのをやめて、すやすやと眠っていました。

テレビ局、内閣各所に「親王誕生」の一報がもたらされました。

号外には人が群がり、国内でも海外でも大きく「40年ぶりの親王誕生」は喜びをもって伝えられました。

小泉首相は「よかったね」といい、安倍官房長官は「親王殿下のご誕生を心からお喜び申し上げます」と祝意を見せました。

北海道にいた両陛下にも吉報はもたらされました。

陛下はアドリブで「只今の秋篠宮家の出産に際し、皆さんから祝福を頂いた。ありがとう

と満面の笑みでおっしゃいました。

正式なコメントは「秋篠宮より、無事出産の報せを受け、母子ともに元気であることを知り、安堵し ました。様々な心労を重ねた10か月であったと思いますが、秋篠宮夫妻が、その全 てを静かに耐え、この日を迎えたことを喜び、心からのお祝いの気持ちを伝えたく 思います。2人の内親王も、この困難な時期を、一生懸命両親に協力して過ごして きましたので、今は、さぞ安心し、喜んでいることと思います。医療関係者を始め、 出産に携わった人々の労をねぎらい、この度の秋篠宮家の慶事に心を寄せ、安産を 祈願された内外の多くの人々に、深く感謝の意を表します

秋篠宮家にとっては短いようで長い数か月でした。

眞子様と佳子様はお母さまの留守を守り、夏休みには病室で宿題をするなど、一生懸命妃殿下にご心配をかけないようにふるまわれました。

心無いバッシングに早熟な眞子様は傷つかれ、でも妹君やお父様には愚痴を漏らすまいと耐えました。

例え、「バッシングをやめさせて」と言ったとしてもご両親は「一々反論していたら、全てのバッシングに反論しなくてはならない。自分に非がないのであれば黙っていればいい」というお考えです。

眞子様達からすると、泰然自若としているご両親には見えますが、一方で糠に釘、ご自分達が傷ついている方がおかしいと言われたらそれまでです。

「宮家に子が生まれる」という目出度い事の筈なのに、なぜ「雅子様に気を遣わない紀子様」とか「そうまでして男子が欲しいか」と言われてしまう愚、わかってはいても、幼い内親王にはアイデンティティの問題も含めて重大な傷になってしまいました。

佳子様は単純にご自分の下に「弟君が生まれた」という事に素直に喜んでいらっしゃいました。手先が器用な佳子様は、もうすでに手作りおもちゃなどをご用意してご誕生を待っていたのです。

その日の東宮御所はしんと静まり返っていました。

東宮職の職員は、雅子様の様子が怖くて私室棟へは近づけません。

とりあえず、東宮御所からはすでに用意していたコメントが発表されました。

ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。 両殿下も親王殿下もお身体をお大切に

「妃殿下の手術?」と誰もが思ったでしょう。

秋篠宮殿下からは8時40分に報告があったとの事ですが、それを無視してのコメントです。

川嶋夫妻からは「誠におめでとう存じます。『清流に臨みて詩を賦す』心に重なる感慨を覚えます。 お健やかな御成長を謹んでお祈り申し上げます」

(清流に臨みて・・帰去来という詩の引用。自然に任せて清流の側で詩を作ろう)

川嶋教授のような「何もかも自然に任せ俗世を離れ清流の側で」の心境に至る事は眞子様には無理でしたでしょう。しかし、その生きざまは紀子様に受け継がれていたのです。

黒田清子夫妻「ご無事にご出産になり、妃殿下、新宮様御共にお健やかでいらっしゃることを伺 い、お喜び申し上げております

 

日本中がお祝いに湧きたつ中、東宮御所だけは静でした。

別段、親王が誕生したからといって、それが話題になる事もなかったですし、雅子様は次のお遊びをどうするかを一生懸命に考えていました。

 

 2006年9月9日 恐竜展

 2006年9月10日 大相撲観戦

9月9日は大恐竜展、10日は大相撲観戦と歩き回る東宮ご一家。

特に大相撲観戦は、愛子内親王が相撲好きで知られていたので、内親王の前には取り組み表が置かれ、それを見ながらの観戦となりました。

しかしながら、事件はその後、起こりました。

観戦を終えて帰る時、立ち上がって挨拶した後、雅子様と愛子様だけが皇太子殿下と正反対の方に向かって歩き出したのです。

違うよ!雅子、こっちこっち」と慌てて手を振る皇太子様に気づき、はっとした雅子様も慌てて愛子様の手を取り、一緒に退出しました。

「やっぱり親王様誕生が・・・?」と誰もが思ったに違いありません。

 

 2006年9月11日 愛育病院にお見舞い

秋篠宮家に親王殿下が生まれたのが9月6日。

その日は、殿下と眞子様、佳子様がお見舞いに駆けつけ、両陛下は北海道から帰京するとすぐに病院に向かわれました。

しかし、肝心の東宮ご一家はいつまでも愛育病院に行こうとしませんでした。

小和田家と違い、慎み深い川嶋家は、東宮様他皇族方がお見舞いを済まされるまで病院に行くのを遠慮していました。

勿論、皇族方や黒田夫妻もいつ皇太子一家が愛育病院に行くのかとやきもきしています。

そして、やっと訪問したのが11日。

しかも、この日、皇太子一家はディズニー展にお出ましで、その帰りに立ち寄られたのです。

愛子様は外出で疲れているのかご機嫌斜めで、マスコミが駆け付けているのを見ると、すぐに皇太子様の後ろに隠れようとします。

雅子様は一生懸命に愛子様を真ん中に入れようと思ったのですが、愛子様は「やめろよ!」とどこから覚えて来たのかわからない暴言を吐かれ、それでも皇太子様はへらへらと笑い、その場をごまかしてしまいました。

 

病室に行くと、紀子様と秋篠宮さま、そして生まれたばかりの親王様がおくるみにくるまれていました。

おめでとう」と皇太子様は屈託なくいい「元気そうな赤ちゃんだね」と笑いました。

愛子様は無表情で親王様の方を見るでもなく、ただ不機嫌そうな声を上げておられます。

雅子様はそれに気を取られて紀子様どころではない様子。

紀子様は優しく「敬宮様、こちらにいらっしゃいませ。赤ちゃんをご覧になりませんか?

とお声をかけ、内親王に向けて親王様のお顔を向けました。

内親王はやっと眠っている赤ちゃんに手を伸ばしましたけど、触るのは怖いらしくつんと皇太子様の方へ行ってしまいます。

大人が多いから緊張するね」と秋篠宮様はおっしゃり、それから皇太子様と病院の施設の事などを話し始めました。

雅子様は戸惑ったように「小さいわね。愛子のいとこになるのね」とおっしゃいました。

いとこと言えば、眞子様も佳子様も愛子様のいとこなのですが、何か初めてのようなおっしゃり方をするので紀子様もどう返したらいいか迷い、「よろしくお願いします」とおっしゃいました。

皇位継承権第3位の親王殿下がお生まれになり、皇太子一家へのプレッシャーはこれで終わったと誰もが思ったのですが、とんでもない事で。

「愛子天皇」の夢はまだ潰えていないのでした。

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  44

2023-08-17 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2006年8月18日 オランダ到着

 オランダの土を踏んだ雅子様は弾ける笑顔をお見せになりました。

ようこそオランダへ。アベル・ドールン城はこじんまりとしていい場所よ。きっとあなたの心を癒すと思うわ」

そんな風に女王にいわれた雅子様は、(なんて優しい人なんだろう)と思いました。

批判ばかりの日本とは大違いよ。考えてみればヨーロッパの王族ってバカンスで外国へ行ったりするのが普通よね。だって王族なんだもの。それに比べて日本は頭硬いったらありゃしない)

ベアトリクス女王は心から雅子様を労わっているように見えましたし、ウィレム・アレキサンダー王太子とマキシマ妃もくったくなく温かく迎えてくれました。

お世話になります」と皇太子様はおっしゃり、頭を下げます。無論、雅子様も同じ気持ちでした。

オランダ王室メンバーと皇太子ご一家は、宮殿のよこにある馬車庫でマスコミの取材をうけました。

優雅で素敵な馬車を見れば、愛子内親王も喜ぶと思われたからです。

王太子家のアマリア王女達は興味を持って、馬車を見たり触ったりしています。

その前で雅子様は、「弾ける笑顔」でお応えになり、日本から来た取材クルーをびっくりさせました。

「日本では見た事のない笑顔。やっぱり雅子様は海外に出ると元気になられるのだ」

雅子様の笑顔の理由は、海外に来た事というよりも、むしろ「勝利」の笑顔でした。

両陛下の裏をかいて、まんまとオランダ行きを承知させ、そして行動出来たという達成感です。今までの惨めな(何を惨めと思っていたのか)ご自分が急に価値ある者のように思えるようになったのです。

カメラマンたちは勢いよくシャッターを切ります。

フラッシュの光も何度か来ましたが全然平気でした。

 

「アマリア!」あちらの記者が叫びました。

愛子様の2歳年下のアマリア姫は気づいて手を振りました。

「愛子!」オランダの記者が今度は愛子様に声をかけました。

最初は何がなんだかわからない風だった愛子様は突然、反射的に笑いました。

その様子をみた皇太子様も雅子様も嬉しさのあまり、やっぱり大きな笑顔をお見せになるのでした。

もしかしたら内親王も、ここで正常になるかもしれないと思ったからでした。

しかし、その期待はすぐに終わり、愛子様はその後は笑顔をお見せになる事はありませんでした。

皇太子一家はアベルドールン城に入りました。女官は数人で、あとのスタッフはオランダ王室からだされ、随行した宮内庁職員や大野先生はホテルに待機となり、毎日することもなく、ぼんやりと休暇を過ごす事になりました。

2週間とはいえ、ここが自分のものになるのだと思っただけで雅子様の気持ちはたかぶります。

すごい。ずっとここで暮らしたい

そうだね。でもあくまで借り物なんだから調度品なんかには触らない方がいいよ」

皇太子さまは少しきつい口調でおっしゃいましたが、雅子様は全然動じる事もなく

なにを貧乏ったらしい事言ってるの?馬鹿みたい」

皇太子様は(何を言っても今は無理)と諦めて、すぐに愛子様がいる部屋へ行ってしまいました。

殿下は、両陛下の表情が頭から消えないのです。

こんな事をしてあとあと大丈夫だろうか。事あるごとに叱られるんじゃないか・・・そんな不安が常に心に残るのでした。

 2006年8月22日 ブルへルス動物園へ

いくら城を借り切っての静養とはいっても、何もかも自由気ままにとはいきません。

プライベートなりにゆるりとしたスケジュールが組まれていました。

城に閉じこもっているばかりではつまらないだろうという、王室の配慮からです。

22日は、雅子様が車を運転し皇太子様と愛子様を乗せ、城の庭を回りました。

どこもかしこも緑があふれていて、鳥の声が響き、まるで別世界です。

自然にふれれば愛子様も表情を取り戻すのではないかと思われましたが、内親王は車に乗るのがあまり好きではないらしく、不安そうに顔をしかめています。

しょうがないので早々に切り上げ、午後にはアーネム市のブルヘルス動物園に行きました。

これも、小さな内親王を抱えてのご静養と言う事で王室が予約したもので、近くのレストランで食事も出来るようになっていました。

レストランでは日本の皇太子一家と随行員らの為に立食パーティを企画していました。

その事は、随行員から皇太子様にも伝えられていたのですが、雅子様は

ビュッフェ?そんなのしたくない。愛子だって落ち着かないじゃない」と言い出したのでした。

実は、雅子様は例え随行員といえども、今、愛子様の様子をそのまま見せたくないと思われたのです。自分達だけならともかく内親王が一緒では落ち着いて食事も出来ない。もし、内親王が口からものを吐き出したりしたら・・・そう考えるとぞっとします。

でも、雅子、せっかくあちらが良いしてくれたんだから

じゃあ、ちょっと寄るだけにすればいいじゃない」

皇太子ご一家は。そのレストランに立ち寄り、恭しく挨拶をされ「今日はごゆるりとお食事をお楽しみください」と言われたのですが

トイレ、借りれる?」と言って、さっさとトイレを使うと挨拶もなしにレストランを出てしまいました。

唖然とするレストラン関係者に随行員の末綱侍従長は「妃殿下はお加減が悪いので」と英語で話し、日本人はみな、冷や汗をかきながらレストランを出ました。

雅子様は「静養」なんだから何をしてもいい筈だと思い込んでおられました。でも誰もそれは間違っているとは言えないのでした。

皇太子様の名誉も傷つく」と末綱は考えましたが、もうどうしようもない事でした。

ちょうど、その頃、随行していた大野医師は自分の講演会がある為に帰国しました。

マスコミの取材には「治療のめどがたったので」とだけ答えましたが、何がどう回復したのかは語らず仕舞です。

主治医が先に帰国する事などあるのだろうか。

そして、それでも平気だという雅子様の体調は一体どんなものなのだろうか。

 2006年8月23日 小和田夫妻と渋谷夫妻が来る

23日には、オランダ在住の小和田夫妻と、海外赴任していた妹の節子夫妻が城にやってきました。

自称「準皇族」の夫妻と妹君は遠慮なく城にやって来て、あちらの女官らがお茶を出すたり、軽食を用意したりするのを、品定めするように見つめていました。

どうだ?ここの生活は

父君は顔色もよく機嫌もよさそうな娘の要するにすっかり安心していました。

もう最高よ。ありがとうお父様。お父様のお蔭だわ」

私からもお礼を申し上げます」と皇太子様もおっしゃいました。

まあ、こんな事が出来るのはお前くらいなものだ。日本の皇族だからっていつもこういうことが出来るわけじゃないぞ」

ええ、本当に

さすが王室よね。この茶器・・ウェッジウッドかしら。年代物だわ。それにしちゃサンドウィッチの中身がしょぼいけど」

と母君は褒めているのかけなしているのかわからないコメントを出します。

夕食の方がすごいわよ。一緒に食べていって。礼子も。一流ホテル並なの。ワイン飲む?ここのワイン蔵も品ぞろえが豊富よ」

いいわねえ。お姉さまは。私も病気になりたいわ」

何を言ってるの。あんたは旦那様のお蔭で海外暮らしじゃないの。そっちの方がずっと羨ましいわ。私なんて・・東宮御所なんか大嫌いよ。私を宇宙人のような目で見るんだから。いいこぶりっこの秋篠宮家も大嫌い」

その秋篠宮家なんだが・・生まれる子は男じゃないかと言われている」

それは・・・」皇太子様が口を挟みます。

噂ではないのですか

それはまもなく生まれればわかる事だ。男子が生まれたらお前達はどうする?愛子を天皇にするのを諦めるつもりか」

いえ。愛子は私の娘です。皇太子の娘であり、将来の天皇の娘です。称号も持っているし宮家の内親王とは格が違う

その通りだ。秋篠宮家を追い詰め、臣籍降下に持っていければ、皇室では愛子しかいなくなる」

しん・・臣籍降下」皇太子様は驚きのあまり少し声が大きくなり、はっとして黙ります。

馬鹿ね。ここでは日本語は通じないわよ」と雅子様に叱られてしまいました。

でも、臣籍降下だなんて。陛下がお許しになる筈ないでしょう

命が危ないと思えば、臣籍降下するさ。実際に命を奪うわけではない。そう思わせればいいだけの話だ。それもこれも君達を思っての事だ。金がかかる」

お金の事は心配しないで」と雅子様は胸を張りました。

そんな事より、ワインをあけましょう」雅子様はすぐにグラスを用意するように命じました。

 

 2006年8月24日 ウィレム・アレキサンダー皇太子一家とサル公園に

24日はかねてからの予定通り、王太子一家と、有名なサル公園に遊びにでかけました。

これも「子供達の交流をかね、次世代の王室と皇室の交流を深める」という名目だったのですが。

愛子様は一生懸命に皇太子様に手をひかれて歩くものの、ついに一度もアマリア王女の方を向く事もなく、笑う事もなく終始無表情でした。

最初は一生懸命に愛子内親王に「ほら、あのおさるさんを見て」などと声をかけていた雅子様ですが、次第に面倒になってきましたし、愛子内親王の無表情さが、ウィレム王太子達の不安を煽っているようで不機嫌になってきました。

アマリア王女を見ていると「これが子供というものか」とつくづく思い知らされます。

金髪がゆれる王女は愛くるしく、活発でよく喋り、よく笑います。

マキシマ王妃の態度も余裕があり、自分の王女だけでなく、愛子様にも気を遣い

アイコ、楽しい?」と聞いたりします。

そんな普通の態度がより雅子様の神経を逆なでするというか、

静養に来ているのに何気を遣わせるのよ)と不愉快になってしまうのです。

次第に無口になっていく雅子様の分も元気でいようと、皇太子様はウィレム王太子達に喋りかけてばかりいました。

また王子たちも気まずい雰囲気にさせるまいと、殊更に明るくふるまうのでした。

でも、王太子夫妻には、いわゆる「雅子様の状態」は相当悪いと感じられたのでした。

そして女王の判断は誤りだったのではないかと感じ始めたのです。

 

 2006年8月25日 女王陛下とマウリッツ美術館を見学

25日は愛子内親王を小和田邸に預けて、まずは王太子夫妻と昼食会でした。

どんなにプライベートな静養とはいっても、一方では「皇室外交」を無視する事は出来ません。

実はオランダでは、「どうしてオランダの城を日本の皇太子一家に貸さなければならないのか」

「日本に媚びを売ってどうする」

「税金の無駄遣いではないのか」

などの批判が起きていました。

国民の支持がなければ王室などあっさり潰されてしまいます。

王室は「国際親善」の一環であると主張し、ところどころに「公務」らしいものを入れて形を整えようとしたのです。

ですから、前日のサル公園も、今回の昼食会もその一つです。

皇太子様はその論理はよくおわかりになっていたのですが、雅子様は静養に来ているのにわりと自由が制限され「社交」が求められている事に疑問を覚え始めました。

アベル・ドールンの城を自由に出たり入ったり出来るのかとおもいきや、予想以上に行事が入っていて、時間に縛られてしまうのです。

本当にゆっくり出来たのは最初の数日間だけ。

思えば、縁もゆかりもない王室の城を借りる事がそもそも常識外れという概念が、雅子様には欠けていました。小和田の父君がセッティングしたのだから、自分達は「もてなされて当然」と思っていたのですね。

それでもまあ、気さくな王太子夫妻のおかげで昼食会はなんとかうまくやりすごしたのですが、午後のマウリッツ美術館訪問は女王陛下と一緒で、雅子様としてはかなりハードルが高かったのでしょう。

女王の前では緊張してしまうし、得意の英語もあまり役に立ちません。

話しかけられてもどうしたらいいかわからず、結局、美術館では15分が限度。

私、体調が悪いので失礼します」というなり、踵を返して玄関の方に歩いて行ってしまったのです。

あまりの事に呆然とする女王陛下。

女王陛下はこの美術館に皇太子夫妻をお連れになるのを大変楽しみにしていたのです。

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」をお見せしたいと思われていたのに、雅子様は何の感想もなく帰ってしまいました。

残った皇太子様は、そんな妻に怒るでもなく「いつ体調を崩すかわからなくて」と笑い、

フェルメールの絵に魅了されたように「これは素晴らしいですね」とおっしゃいました。

まるで最初から雅子様がいなかったかのように振舞う皇太子様を見て、女王陛下は人知れず首を横に振りました。

これが病気といえるの? 静養どころじゃないわ。病院に入院した方がいいんじゃない?

 

夜は、愛子内親王を迎えに行き、小和田邸でディナーです。

ここでやっと雅子様は心からリラックスする事が出来ました。

ご両親が一緒なので緊張せず、安心して内親王を任せる事が出来るし、余計な女官達もいないし。

何が美術館よ。堅苦しいったら。私、絵なんか嫌いだし、動物園も暫く行きたくない

雅子、女王陛下にあの態度はあまりにも・・・

私が行きたいと言った?言いましたか?美術館なんてあなたの趣味じゃない。あなただけが行けばよかったのよ。ほんと、ムカツク」

でも女王陛下はね」

女王なんてくそくらえよ」雅子様は、少し・・・というか大量に飲んだワインに酔って言いたい放題でした。

お父様、こんなの静養じゃないわよ。毎日どこかに引っ張りまわされて。昼間からワインも飲めないじゃない。夜は眠れないし」

その分、今日は飲めばいい」と父君はおっしゃいました。

そうよ。愛子ちゃんは私が面倒みるから」と母君もおっしゃいます。

雅子様はすぐに笑顔になってグラスを空けました。

お酒が何よりお好きな殿下も、さっそくウイスキーに手を出し、その日は久しぶりにどんちゃん騒ぎが出来たのでした。

 

 2006年8月26日 女王陛下のヨットクルーズをドタキャン

事が起きたのは翌日です。

実はこの日は、女王陛下主催でヨットクルーズの予定でした。

女王陛下は、「緑の竜」という名前の豪華なヨットを所有しており、朝早くから6時間ものクルーズを手配して下さっていたのです。

このヨットはベッドもトイレも装備され、食事も豪華で、オランダを訪れた各地の王族はぜひ、このクルーズに招待されたいと思う程のものです。

陛下としては、ここで王室の威厳を見せたいところでした。

ところが。

朝、姿を見せたのは皇太子様だけだったのです。

おはようございます。ご招待頂きありがとうございます。今日はよろしくお願いします」と殿下は丁寧にごあいさつされました。

あら、あなたの奥様とお子さんは?」

申し訳ありません。二人とも体調が悪くて。本日は失礼させて頂きます」

二人とも?アイコもなの?何かおかしなものでも食べたの?」

いいえ、そうではありません」

体調が悪いならすぐにお医者を呼びましょう」

それには及びません。眠れば治ります。いつもこうなので。どうぞお気になさらず

そう言われても、このクルーズは雅子妃の為に計画されたものであり、この静養の目的は雅子妃で・・・それなのに当事者が来ない。医者もいらない。母娘揃って原因不明の体調不良とは。

クルーズ終了後、女王陛下は末綱以下、随行員に事情を聞かれ、宮内庁にも問い合わせ、仰天の顛末をお知りになったのです。

妃殿下は元々朝が弱く、昼夜逆転の生活が当たり前であったこと。内親王はとてもヨットを楽しめる状態ではないことを。

ここにきて、ようやく女王陛下は、この静養計画が失敗だった事がわかりました。

そして心からがっかりされたのです。

裏切られたような、日本政府は雅子妃の状態をよく知らせもせずにこちらに依頼して来たのだ。なんという国だろうか。こんなのと将来的に付き合っていかなくてはならないとは。

こんな重荷は嫌だ・・もう歳なのかもしれないわ。女王陛下はご自分の目の曇りを責めるのでした。

 2006年8月28日 女王主催のディナー

そして、いよいよ。

帰国を前にしての女王陛下主催のディナーが開催されました。

やめたかったけど、もうやめるにはいかないものでした。

このディナーには、ウィレム王太子夫妻、ベルギーのフィリップ王太子夫妻、ルクセンブルクのアンリ大公夫妻も招かれていたのです。

フィリップ王太子夫妻は、結婚式にも参加していましたし雅子様とも顔見知りでしたけど、あの「流産」事件があり、ベルギー王室は天皇家にひたすら謝罪されました。

これらの王族を前に、雅子様は

ヨーロッパの王室は近くていいですね。すぐに遊びにこられて」と言ってしまい、みんな一斉に口をつぐんでしまいました。

確かにその通りではあるのですけど、王室同士が常に遊ぶために交流しているわけではないと、女王陛下は噛んで含めるようにおっしゃいました。

それはヨーロッパの王室の成り立ちから姻戚関係までの説明になってしまったのですが、雅子様は頷いてはいましたが、ほとんど聞いていませんでした。

確かに、ベルギーやルクセンブルクの方々が、「スキーはやっぱりスイスでないと」などと言われると心から羨ましくなるし、しょっちゅう城の外に出ているような印象があり、それに比べて旧弊な皇室…と雅子様は訴えるように「皇室なんか」ととくとくとおっしゃったのです。

フィリップ王太子夫妻は「またか」と思ったのですが、他の方々はこんなに自分がいる所の悪口を言うお妃は初めてという目で見ました。

しかし、その視線にも気づいていませんでした。

 2006年8月31日 帰国

そして、長いようで短かったオランダ静養は終わり、8月31日、皇太子一家は帰国したのです。

なぜか、高速を品川で降りて隠れるようにして東宮御所に入りました。

日本では紀子様が出産を前にして、厳しい入院生活を耐えていました。

野村東宮大夫はひそかに「辞意」をもらしていましたし、末綱侍従長も、オランダで胃がキリキリと痛む経験ばかりさせられて、げっそりとして、こちらももう辞めたいと思っていました。

雅子様も、思いのほか自由がなかった静養に、何となく敗北感を感じていました。

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録 43

2023-08-14 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

元々、オランダ静養への布石は1年も前から小和田家では検討されていました。

何とかして雅子様に海外へ行ってストレスを発散した欲しいと思うご両親は、雅子様の好きそうな国を色々考えたのです。

最初はスイスでスキー三昧と思いましたが、年末年始は皇室行事が多い為、夏がよろしいだろうと思われました。

そうなってくると、小和田の父君が赴任されているオランダが最も適しているし、向こうで親子水入らずの時間を持てば「マイドーターイズプリンセス」を周りに実感させることが出来るだろうと・・・そんな風に父君はお考えでした。

皇族は相手方の「招待」がなければ外国へ行く事は出来ません。

その為、父君は長い時間をかけ政府を説得し、小泉首相に対しては高飛車に出て、オランダへの資金援助とその見返りとしての静養を取り付けました。

オランダのベアトリクス女王は、大そう雅子様に同情され、快く「ヘッド・アウデ・ロー」城を2週間もの間、お貸し下さるとおっしゃいました。

けれど、ひそかに小和田傘下の外務省職員と首相側近の間であうんの呼吸で進めていたものの、さすがに宮内庁はこの静養に反対しました。

皇族が遊びで海外へいくなどとは考えられない」

「なぜオランダなのかわからない」

「国内の公務はされないのになぜ外国なら行けるのか、整合性がない」

という理由です。

しかし、そんな宮内庁幹部の反対をほぼ無視して、小和田の父君のいいなりになったのが野村一成東宮大夫です。

彼は外務省時代、父君の部下として働いており、雅子様とも顔見知りの仲なので、東宮大夫に就任した時から、ほぼ何でも雅子様のいいなりでした。

オランダからの快諾はあったものの、それは内側の話で、野村東宮大夫はこの事を両陛下にご報告しませんでした。

報告したら潰されると懸念したのでしょう。

日程もどのように決めたらいいかと思案しました。

7月から8月の間、愛子内親王の幼稚園の夏休みを利用。けれど、7月には那須への静養が入っているし、そうなると8月。

8月は6日、9日、15日を外さなければなりませんでした。

というのも、両陛下のご意向で6月23日、8月6日、8月9日、8月15日は静に過ごすように厳命されていたからです。

とはいえ、雅子様は終戦記念日にテニスをした事もありますし、戦争の記憶など雅子様にとってはどうでもいい事でした。

とにもかくにも15日を避けると、出発は8月17日となります。

実は8月17日はかなり重要な日でした。

それというのも、戦前、日本が占領していたインドネシアが、日本軍の撤退と同時にオランダに占領され、独立運動が起きました。この戦いには元日本兵も多数参加しており、以後、インドネシアは親日となり、オランダは反日となりました。

その記念日が8月17日なのです。

オランダには、まだ日本への根強い反日感情を持つ人達もいました。

そんな国から恩を受けるというのは、本来であれば国益に反する事なのですが、そんな事は小和田の父君は最初から承知。

そもそもが「日本は永遠に戦争犯罪人として謝罪し続けるべき」と独自の理論を繰り広げる小和田閣下は、オランダに頭を下げることなど簡単な話だったのです。

6月23日、おりしも沖縄が負けた日に、野村東宮大夫はオランダへの静養を正式に発表したのですが、両陛下にとってはね耳に水、が、決まった事である以上、裁可せずにはいられませんでした。

 8月13日 両陛下に挨拶

笑顔で参内して来た雅子様を見て、両陛下は複雑な気持ちになりました。

「決して失礼のないように」とだけ言われましたけど、雅子様はほとんど聞いていませんでした。

勿論、出国前の祭祀も雅子様は行いませんでした。

そしてこの日、実は小和田のご両親も帰国していたのです。

 

皇室内は、実はかなり大変な事態になっていました。

秋篠宮妃の紀子様が「前置胎盤」と診断されたのです。

ご懐妊が発表されてからも普段通りの公務を続けてこられた紀子様ですが、ここにきてとうとうドクターストップがかかってしまったのです。

一歩間違えれば大出血を起こして死んでしまうかもしれない。

しかも高齢出産という事もあり、宮内庁も宮家も緊張状態です。

8月16日、紀子様は愛育病院に入院されました。

いつもはお付き添いなどなさらない殿下がご一緒である事から、相当厳しい状態なのだと言う事も感じられました。

秋篠宮ご一家は万が一を考え、ご一家で記念写真を撮られる程だったのです。

しかし、この事に対して女性週刊誌は「16日はオランダに出発される前日。この日にわざわざ入院して雅子様にご心配をかけるなんて紀子様は配慮が足りない」と書き立てました。

前2回出産時とは明らか違う体調に紀子様自身が戸惑われ、その辛さに涙を流されたというのに、週刊誌が追い打ちをかけ「もし男子が生まれても皇位は愛子様に」とか「男子を出産する事が嫁の使命とは古すぎる」とか様々な形で秋篠宮家に対し誹謗中傷を繰り広げます。

そのご様子にポーカーフェイスを貫いていた眞子様の心情、まだよくわからないけど、悪口を言われているような気がしている佳子様を思えば、秋篠宮両殿下も何か言い返したい所だったでしょう。

しかし、紀子さまの入院で言い返す事も出来ず、ただただ母子共に健やかにと祈る事しか出来ません。

紀子様にとっては長い半月の始まりでした。

 

しかし、そんな秋篠宮家の事情などみじんも気にすることなく、雅子様はオランダへ行く事を楽しみにしていました。

今回は公務ではないので一般機を使います。

随行員は20名近く、その中には大野医師や美容師までもが付いてきます。

一般機のファーストクラスを貸切り、ビジネスクラスもいくつか抑え、同乗する一般客にはかん口令を敷き、どこまでも「雅子様ファースト」です。

愛子様の状況もみなに見られてはいけませんので、ファーストクラスにはカーテンが敷かれ他人をシャットアウトしました。

費用は総額1億円。

内廷費からは出せないという事で、東宮家からお金を出す事にしたのですが、実際は機密費に手をつけたと言われています。

 2006年8月17日 オランダへ出発

颯爽と現れた東宮一家は、ラフなスタイルで愛子内親王のピンクのワンピースがとても可愛らしい・・・これが一般人であれば誰も何も言えなかったのにと。

内親王にとっては初めての外国です。

空港で見送りの宮内庁関係者に挨拶をするご両親を無視して、無表情のまま。

さすがに雅子様がお辞儀をさせようとしたのですが、内親王は決して頭を下げようとはしませんでしたし、一言も何もおっしゃいませんでした。

そんな内親王を笑って見ている皇太子様に陰でため息をつく随行員もいたのです。

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録 42

2023-08-10 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

雅子様の「欠席」はまるっきり改善されていませんでした。

愛子内親王を幼稚園まで送っていくと、そのまま帰宅せずラウンジでおとり巻と一緒にお茶をして笑っている。

愛子内親王がお休みの日には一日中部屋に引きこもっている。

昼夜逆転の生活は相変わらずです。

紀子様はご懐妊中にも関わらず、地方公務も赤十字大会もお休みになりませんでした。

意地悪な女性週刊誌は「紀子様は少し運動をした方がいい。体調管理の為に動いている」などと書き立てます。

時が経つにつれて「やっぱり将来の天皇は愛子様にすべき」という意見が出始め、女性議員達が「男女平等の観点から皇室典範の改正を望む」と言い始めます。

どうしてこんな事がいわれるようになったのかと言えば、紀子様がお産みになるお子様は「男子」という噂が流れていたからでした。

誰も何も言ってないのに噂が一人歩きして、それがある一定の人々の気に障ってしまうと言う事はありますが、高齢出産の紀子様に対してはあまりにもひどい言いようでした。

 

雅子様も、本当は気になってしょうがありませんでした。

結婚当初こそ「子供なんて馬鹿でも産める」と思っていたのに、そう思っていた自分が全然かなわないことだったのです。しかも8年かけてやっと授かったのは内親王。

それに比べると紀子様はあっという間にご懐妊されたように見えます。

まるでネズミの子じゃないの」と毒づいてみても、もし男子だったら・・・と思うといてもたってもいられません。

 2005年6月8日 両陛下東南アジアへ出発の見送り

それは、両陛下の海外訪問の前日にもたらせた吉報でした。

オランダの王室が雅子様の為に城を貸して下さるというのです。

交渉したのは、オランダの国際司法裁判所の所長である小和田家の父君でした。

父君は、紀子様のご懐妊で大そう傷ついている娘を何とか元気にしてやりたいという思いと、「皇太子妃であればここまでできず」という権力を表す為に、わざわざ外務省を通してオランダ王室に交渉させたのです。

外務省は今や小和田閣下の天下ですから、イエスマンばかりです。

オランダのベアトリクス女王は、夫君のクラウス殿下をうつ病で亡くされている事から雅子様にとても同情的になりました。

さらに、オランダ政府の目の前に「金」という人参をぶら下げられたら、城を貸すくらいどうって事ありません。

そこで、オランダ王室から招待状を取り付けて、「オランダ静養」は決定したのです。

まさに、両陛下不在のおり、さっさと発表してしまえばこちらのものです。

見送る雅子様の笑みは、すでに決まった事にとても喜んでいたからなのです。

 2006年6月19日 電気自動車を見る

それからの雅子様は一層、自分勝手な行動に拍車がかかるようになりました。

自分が気に入らない事はとことん拒否して、好きな事だけ行うという姿勢。

これは「治療の一環」として大野医師が許可したので、誰も文句を言えません。

 

香淳皇后の祭祀はお休みになりつつ、翌日にオペラ鑑賞をした時は、さらに批判を招きましたが、「緩やかな回復を促す為」という大野医師のお墨付きがある為、誰も何も言えませんでした。

雅子様にとって「宮中祭祀」は永遠に理解出来ない壁のようなものです。

その意義がどうのと言う前に、雅子様は手順を覚える事が出来ないのです。

ご優秀な筈の雅子様に「覚えられないこと」があるなどとあってはなりません。

ゆえに「宮中祭祀を理論的に説明できない限りやらない」という事になっているのです。

 

オランダ静養については、結果的に両陛下には事後報告になりました。

両陛下は大変驚かれ、そして失望されました。

日本の皇族がバカンス目的で海外へ行くというのは今まで一度もない事です。

しかも、公務を全くしないで地方すら行かないのに、なぜ海外へ行くというのだろう。

オランダ王室から招待を受けたと言っても、無理やりとりつけたに違いない。

そのような「借り」を王室につくるなどもってのほかなのです。

私達は静養目的で外国へ行った事はない。どうしたらそのような考えが浮かぶのか

皇太子様は「お医者様の判断です。雅子は日本にいると具合が悪くなるんです」

しれっという息子に陛下は「それなら皇室を出て自分の力で外国へ行けばいい」と大声でおっしゃいました。

陛下、お身体が」

皇后様は慌てて止め、皇太子様に「もう決まった事なのね」とおっしゃいました。

皇太子様は、叱られている風なので、少し目を伏せて

それでオランダ静養の話をもっと詳しく申し上げたいので、葉山の静養にご一緒させて頂けませんか」と申し出ました。

てっきり快く応じて貰えると思っていた皇太子様ですが、陛下が「いや、来なくていい」とはっきりおっしゃったので、とても驚かれました。

でも・・・雅子も私も両陛下と一緒に静養する事を楽しみにしています。愛子だって」

別に静養に一緒しなくても、その気があるならいつでも愛子を連れてくればいい

そうよ。私達に何を言いたいのかわかりませんけど・・・今回はお断りするわ

さすがの皇太子様も、両陛下が気分を害している事はわかります。

でも東宮御所に帰れば帰ったで、今度は雅子様が怒り出すでしょう。

葉山に合流したいと言ったのは雅子様なのですから。

これは小和田の父君からの厳命で「せいぜいご機嫌取りをしてこい」との意思表示だったのです。

困ってしまった皇太子様は、暫く無言でもじもじなさっていたのですが、やがて諦めて東宮御所に帰られました。

何でダメだったのよ。言い方が悪かったんじゃないの?」と雅子様に責められ

わからない。ごめんね。またチャンスがあるかもしれないし」

チャンスが意外と早く巡って来ました。

7月1日、その日はちょっと雨模様だったのですが、両陛下主催のホタル狩りに、東宮一家、秋篠宮一家、黒田夫妻が招かれたのです。

広い客間から見える闇の中に、沢山のホタルが光っています。

雨の音と、蛍、幻想的な風景に、雅な一時を過ごしていたのです。

やがて、眠くてぐずり始めた愛子様を連れ、東宮一家が一足先においとまをする事になりました。

皇太子様はその時「葉山静養の件、よろしくお願いします」とおっしゃいました。

秋篠宮家も黒田夫妻も何の話か分からず、「?」という顔を向けたのですが、両陛下はあからさまにご不快な顔を見せて「あれはもうお断りした事だから」と皇后様がおっしゃいました。

すると、雅子様は血相を変えて皇后陛下に食ってかかります。

どうして一緒に行っちゃダメなんですか?私達が行きたいと言っているのに。いつもは全然訪ねてこないとか言うくせに何で今回はダメなの?」

人には予定というものがあるのですよ」皇后さまは諭すようにおっしゃったのですが、雅子様は顔を真っ赤にして

オランダへ行くのがお気に召さないって事ですよね。私達だけが海外に招待されるのが。両陛下だって何回も行ってるじゃないですか」

雅子、もうやめて・・・」と皇太子様はぶるぶる震えながら雅子様の手をひっぱります。

最悪!私達がいい思いをするのが気に入らないんだわ。わかりました。一緒にと言われてももう一緒に行きませんから」

と言うなり、雅子様はドアをどんと叩きつけるように閉めて行ってしまいました。

ついほんの数分前までの穏やかな雅な雰囲気は失われ、雅子様の暴言の響きだけが部屋に残りました。

眞子様も佳子様も凍り付いてしまいましたし、紀子様や秋篠宮殿下、黒田夫妻も黙り込んでしまいました。

皇太子様は大きくため息をついて「それじゃ、あとはよろしく」とおっしゃって部屋を出て行かれました。

 

結局、東宮一家は葉山ではなく、那須へ行かれたのです。

 2006年7月24日 那須静養

那須の御用邸では、通常、両陛下などは近くの農家を訪れたり、満蒙開拓団の一部が帰国した際に作った村などを訪れたりするのですが、東宮一家が来た時は、急にSPでものものしくなり、店はばたばたと閉まり、全ていつ雅子様が来てもいいように準備をさせられます。

静養期間中、皇太子様は一度か二度東宮御所に戻られ、結果的に帰京は雅子様と愛子様だけになりました。

 2006年8月3日帰京 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  41

2023-08-08 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

ディズニーランドでの楽しかった思い出は雅子様に達成感と勝利の味をもたらしましました。妹一家も「準皇族」としての役目を果たしてくれて、少なくとも自分には味方がいるのだと少しホッとする事が出来たからです。

「準皇族」という立場は日本にはありません。

しかし、小和田の父君は「我々は準皇族なのだから」と妻や子供に言い聞かせました。

皇族である雅子様の身内なのだから皇族ではないけれど、それに準ずる立場で、そういう扱いをしてくればなければ困るという話です。

さあ、次は鴨川シーワールドへ行こうと日程を決めてホテルも予約して・・・と思った時に思いがけない言葉が皇太子様から。

両陛下と一緒に葉山で静養すべきと思う」

「え?何で、一緒なんて嫌に決まってるじゃないの。それに鴨川はどうするの?」

申し訳ないけど雅子、今回は諦めた方がいいと思う

何で?

ディズニーに行った事がかなり批判を受けているようなんだよ。それに今回は、愛子が幼稚園に入るから、両陛下に今後の事を話さないと」

そういう風に皇太子様がおっしゃる時は、皇后陛下から厳命が来ている時。

雅子様は最後まで抵抗の姿勢を示しましたが、結果的に鴨川をドタキャンして葉山に向かいました。

 

 2006年3月27日 葉山静養

葉山の御用邸は、基本、本邸しか使わないのでまさに両陛下と一緒に宿泊する事になります。

雅子様はすぐに不機嫌になってしまい、ご挨拶をしても、あとは黙り込んでしまいました。愛子様は、どこに連れられて来たのかわからず、ぼやっとしています。

天皇陛下は「愛子は元気なんだね」と確認するようにおっしゃいましたが、言われた本人は無言、雅子様も無言、皇太子様だけが「ええ。元気です」とお答えになりました。

皇后陛下からは「これから学習院幼稚園に通う事になるけれど、大丈夫なのですか?集団行動が出来ますか?」と質問を受けました。

雅子様は「愛子なりにやるんじゃないでしょうか」とお答えになりました。

あの幼稚園は浩宮の為に作ったようなもの。懐かしいわね。制服を着た愛子ちゃんを見るのが。愛子ちゃん、園長先生にお会いしたらちゃんと、ご挨拶をするんですよ

そう言われても内親王は何を言われているのかわからず、無言のままでした。

雅子様は内心、皇后陛下の干渉を疎ましく思っていました。

姑ってこれだから困ると本気で思っています。

皇后陛下が心配しているのは、愛子内親王が幼稚園に入る事で、その「和」を乱してしまわないかという事だったのです。

皇太子夫妻の内親王あまやかしは千代田にも伝わっていますし、例の2時間40分事件で、内親王の障碍は相当重いのだと両陛下も理解しました。

集団行動をきちんと学べるといいですね」と皇后陛下はおっしゃいました。

先日のお遊びはあまりよい事とは思わない」と天皇陛下はおっしゃいました。

どうしてですか」と雅子様は反論しました。

私達は私的な楽しみより、国民を思う立場である事を忘れてはならない。自分のお楽しみの為に国民を犠牲にするような事があってはならないのだ」

愛子は喜んでいましたよ

雅子様はハチの1針のような言葉を投げかけました。

全て愛子の為です。私は、愛子を普通の子のように育てたいんです」

普通って・・・」

普通です。普通の子です。愛子は。回りと違うからって愛子が特別なわけじゃありません。いろんな体験をさせればきっと治ります」

目がキラキラと輝いている雅子さま。いつになく語る雅子さま。そんな雅子様を見て両陛下は少し怖くなりました。

皇后陛下には、またもや皇太子様がが不憫で仕方ありませんでした。

こんな時も嫁のいいなりになっている。

けれど、この嫁を庇っていかないと、今後、皇太子様がどんな目にあうかわからない。

皇后様は何もおっしゃらなくなりました。

結局、天皇皇后両陛下と皇太子一家が共に海岸を散策するという場面は見られることなく、ただ一緒にいたという既成事実を作っただけでした。

 2006年3月30日 帰京

 2006年4月11日 愛子内親王幼稚園入学

さて、いよいよ、愛子様の入園の日がやってきました。

内親王は少し大きめの制服に帽子をかぶり、鞄を持っています。鞄の刺繍はお母さまがすると決まっていいるのですが、雅子様はさっさと外注しました。

これから幼稚園に入れば何とかなる・・・雅子様はそう思っていました。

青山劇場でのリトミックや体操だけでは友達もそんなに出来なかったし。でもこれからは・・・

園長先生の名前は小山とおっしゃいます。

皇太子ご夫妻は「これからよろしく」とお辞儀をしました。

しかし、愛子様はしませんでした。慌てた雅子様が一生懸命に頭を下げさせようとしましたが、かえっておむずかりになるのでやめました。

とりあえず、園の関係者に引き渡したのですが、愛子様はぐずぐずと後ろを振り返ったり、横をむいたり指を振ったりと落ち着きません。

そんな様子を心配そうに見守る雅子様。

大変自然なお子様ですね」と小山園長はマスコミの取材に答えました。

自然な」という言葉の裏には何があるのかと、色々意味深な言葉ではありました。

早速クラス分けされました。

愛子内親王のクラスの前には、常に屈強なSPが護衛に着く事になっており、他お子供達と保護者をびっくりさせました。

実は、愛子様のご入園が済めば、雅子様も地方公務が出来るのではないかと計画を立てていたのですが、雅子様は拒否されました。

理由は「育児で大変だから」というもの。

しかし、学習院の毎日のお弁当は大膳課が作るのであり、制服を着せるのは女官で、雅子様がやる事はほとんどありません。

でも、週刊誌には「入園ストレス」で雅子様は公務が出来ないと書かせました。

16日には早速「オール学習院の集い」が行われ、幼稚園から大学生に至るまで、様々な文化的催しをします。

通常、あまりこれに親子で参加というのは少ないのですが、皇太子一家は、嬉しそうにかけつけました。

雅子様はこの手の遊びが大好きで、ヨーヨー吊りをやってみたり、屋台で買い物をしてみたり宇土存分に楽しんだのですが、愛子様は無表情。

少しも楽しそうではありませんでした。

また、舞台での演技を見る時、幼稚園生はみなまとまってみるのですが、愛子様だけはご両親と皇族席に座りました。

つまり、この時から「ヒエラルキー」をはっきりと示されたのです。

というのは、このオール学習院の時、学習院にやってきたマスコミの連中は、ところかまわずにヨーヨー吊りなどを楽しむ雅子様達を撮影していました。

それを東宮職が一生懸命になって「写真は撮るな!」「誰が取材をしてもいいと言った」と声高に蹴散らしたのです。

学習院側からは誰も出てこない事で東宮職はなおの事、怒りまくり、それがのちに宮内庁と学習院の長くて冷たい戦争に発展していくのでした。

 2006年4月16日 オール学習院の集い

 2005年4月29日 車椅子バスケットボール大会

雅子様は春の園遊会も欠席しましたし、赤十字大会も欠席しました。

しかも赤十字の欠席の翌日には乗馬を楽しむという事をやってのけたので、またも批判にさらされる事になりましたが、「治療の一環」という言葉が雅子様を救います。

つまり「治療の一環」は伝家の宝刀、水戸黄門の印籠と同じ効力を持つのです。

そこまで雅子様が何をやっても平気だったのは小和田家の父君の力が大きいです。

父君は小泉首相に直談判して、オランダ王室からの招待状をとりつけていました。

つまり雅子様を「海外」で静養させようという腹積もりなのです。

それは雅子様の為ではなく、小和田の力がここまで影響するのだぞという事を皇室中に知らしめる為でした。

 

 2006年5月16日 学習院幼稚園遠足

雅子様は雅子様なりに愛子内親王の幼稚園生活を一緒になって楽しんでいました。

愛子様が幼稚園に行ってる間、他のママ友と一緒に園内のラウンジで珈琲を飲みながらおしゃべりする。そんな普通の生活が気に入っていたのです。

勿論、相手方は本当は皇太子妃とお話などしたくありません。

でも逆らったらどんな目に合うかわからいので、自分達のグループに来た時には「ようこそ、ごきげんよう」と受け入れるしかないのです。

それを週刊誌は「雅子様の親衛隊」などと書き立てるので、本当はみんな迷惑していました。

5月には初の遠足があり、雅子様は嬉々として参加しましたが、愛子様はあまりそういうのは好きではないように見えました。

新宿御苑ではシートをしいてお弁当を食べるのですが、あいにくの空模様で突如雨が降ってきました。

みんな慌ててシートを畳み、雨が入ってこない場所まで逃げたのですが、ふと、みると、雅子様と愛子様が雨の中でぼーっと立っているではありませんか、

この日は、女官はついてきていませんでした。

あの人、何をしているの?」と一人が言うと「シートを敷いてもいないわよ」

敷き方が知らないんじゃない?

え、まさかあ」

だって、棒立ちになってるもの」

誰か、行って傘をさしかけてあげたら」

えーーお付きの人いないの?」

仕方なく、いつもラウンジで一緒に珈琲を飲むママ友の一人が傘を持って走り、シートを片付け、雅子様達をつれて木の下まで避難させました。

風邪をひいてしまってよ

ええ・・・どうして誰も来ないのかしら」

え?」雅子様は放心したようにぶつぶつと言っていました。

何で誰も来ないのよ・・・馬鹿にしてるわ」雅子様は自分から女官を遠ざけた事をすっかり忘れているのでした。

けれど、この時の出来事は少し経ってからようやく週刊誌に載りました。

最初に載ったのは愛子様が「(傘が)ふたつあるから、ひとつ貸してあげましょう
「(カメラマンの)みんな寒いところで待っていてくれるから、ワンちゃんの手を振ってあげましょう」

そんな、今時ありえないようなセリフだったのです。

この時も東宮職のSPが何人も取り巻くようにしており、保護者達に写真を撮るなと厳命していました。

保護者達は「なぜいけないのか」と抗議しましたが「許可なく両殿下を撮影することは許さない」の一点張り。

だけど、あっちはマスコミがいい写真をがんがん撮ってるじゃないの。何で私達だけいけないの?」

保護者の不満は募る一方でした。

 

 

一見何事もなく、内親王の幼稚園生活は始まったように見えましたが、実は全くそうではありませんでした。

新学期早々、愛子様はお休みされたのです。

ゴールデンウイークには風邪を引いたので休まれたとか、あるいは溶連菌、あるいは下痢といった症状で幼稚園を休みがちになっていました。

先生に呼ばれても全然気づかに、どこか遠くを見ているようなときもありますし、誰とも仲良くする事なく、教室の中をうろうろ歩き回っては自分の世界に引きこもっているような事もありました。

一番大変なのか「お弁当」の時間です。

学習院幼稚園は子供のしつけに大変厳しい場所で、幼稚園生は全員がお箸を使って食べなくてはなりません。

基本、お弁当はお母さまの手づくりではなくてはなりませんが、愛子様の場合は、大膳が用意したもの。

さらにお箸が使えないので、おにぎりとフォークなどが入っています。

他の園生は「ずるい」「フォークじゃダメなんだよ」と直接内親王にいう子もいましたが、話しかけられるとびくっとなって、叫び出すので、先生が慌てて止めます。

愛子さんはいいんですよ」と。

 

子供からそんな話を聞いた保護者が抗議する事もありましたが、園長は「愛子様は特別」なのだと言ってはばかりませんでした。

いくら皇族が通う場所とは言っても、眞子様や佳子様はきちんとルールに従って来たのに、なぜ愛子様が?とみな不思議がるし、露骨に嫌な顔すらしました。

 

 2006年6月18日 学習院幼稚園父親参観日

 そんな事は意に介さない皇太子様は、嬉々として父親参観の時は、愛子様の手を取って歩きました。

いつもなら玄関口まで車を寄せるのに、この日はわりと遠くまで歩きます。

しかし、内親王は父殿下に一瞥もくれず、どこかあさっての方向を見てぶつぶつ言うだけです。

問題だったのは、この写真が世界に配信されてしまったということ。

皇太子様も雅子様も、それでも世界を騙せていると思っているのでした。

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