ヨガは、むすぶ、束ねるの意味でした。
その意味から、あらゆる概念が生み出され、派生していきます。
ヨガと言えば、ポーズと思われています。
何故静かなポーズがヨガの象徴になって居るのでしょう?
それは、肉体的な荒っぽい動きに惑わされて感じにくい
宇宙の真理、真実を、直感するために、
心と身体を静に統一するためのものなのでした。
お米の入った米びつの中に、さらに一粒のお米を混ぜた後に
その一粒の米粒を見つける事は、至難の業でしょう。
同じものの中から、同じものを分離して、感じ取るにはどうしたらいいでしょう?
生きている状態で生きている事を感じ取るのは、本来当たり前のようですが、
実は、大変難しいことなのです。
難しいのに、現実には、生きていて、同じ生きている事を感じて居ます。
感じては居ますが、それは、「半分生きている状態を感じて居る」と考えるのです。
野生生物は、本能的に生を感じて居ます。これも半分だと考えます。
覚醒して居ない人間は、本能も鈍く、大脳の抽象感覚も鈍く、この場合も
「生」を半分しか捉えて居ないと考えるのです。
「生」をヒトツの全体として感じ取る?
それで、理性と感性との調和をはかる為に「ヨガ」を実践するのです。
その一つがポーズ(アサナ=瞑想的ポーズ)でした。
デリケートな生命の本態を感じ取る為に、呼吸を整え、心と身体の感覚を鋭敏にするのです。
しかし、ただ、静かなポーズを実践すれば、それで良いというものでは無いのです。といって、
いたずらに難しく考えることもありません。
ポーズ、ヨガの原理を知らずして、行えば、無駄、無理が生じることに成ります。
感覚が理解できなければ、継続もままなりません。
静を理解するには、動が必要です。
生きている事を理解するには死が必要です。
しかし、ホントに死んでしまっては、トレーニングが続けられません。
実は、呼吸の瞬間瞬間、睡眠中、あるいは、物質レベルでは、瞬間瞬間「生死を繰り返している」のです。
ですから、普通に生きていて、生きている事を無意識的に感じて居るのです。
回りくどい説明になって居ますが、。これもヨガが循環哲学であるが故の必然なのです。
あるときは、激しく、あるときは静に、細胞レベルの生もあれば、人体として、地球人として、宇宙人としての生が
有ると思うことが大切です。
総合ヨガこそヨガの原点、循環哲学であるとする所以もこのような理由によります。
生きている事の「原点」をポーズ、瞑想で最小限感じ取ったら、それをさらに広げていきます。
それを冥想といいます。
有限な瞑想を無限な冥想につなげて生きましょう。行きましょう。