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ヨガは、有限と無限をむすぶ、動きのある循環哲学  ( 極意公開期間限定か)

2011-03-28 16:46:15 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済

 

ヨガは、むすぶ、束ねるの意味でした。

 

その意味から、あらゆる概念が生み出され、派生していきます。

 

ヨガと言えば、ポーズと思われています。

 

何故静かなポーズがヨガの象徴になって居るのでしょう?

 

それは、肉体的な荒っぽい動きに惑わされて感じにくい

 

宇宙の真理、真実を、直感するために、

 

心と身体を静に統一するためのものなのでした。



お米の入った米びつの中に、さらに一粒のお米を混ぜた後に

 

その一粒の米粒を見つける事は、至難の業でしょう。



同じものの中から、同じものを分離して、感じ取るにはどうしたらいいでしょう?

 

生きている状態で生きている事を感じ取るのは、本来当たり前のようですが、

 

実は、大変難しいことなのです。

 

難しいのに、現実には、生きていて、同じ生きている事を感じて居ます。



感じては居ますが、それは、「半分生きている状態を感じて居る」と考えるのです。

 

野生生物は、本能的に生を感じて居ます。これも半分だと考えます。

 

覚醒して居ない人間は、本能も鈍く、大脳の抽象感覚も鈍く、この場合も

 

「生」を半分しか捉えて居ないと考えるのです。

 

「生」をヒトツの全体として感じ取る?

 

それで、理性と感性との調和をはかる為に「ヨガ」を実践するのです。

 

その一つがポーズ(アサナ=瞑想的ポーズ)でした。

 

デリケートな生命の本態を感じ取る為に、呼吸を整え、心と身体の感覚を鋭敏にするのです。

 

しかし、ただ、静かなポーズを実践すれば、それで良いというものでは無いのです。といって、

 

いたずらに難しく考えることもありません。

 

ポーズ、ヨガの原理を知らずして、行えば、無駄、無理が生じることに成ります。

 

感覚が理解できなければ、継続もままなりません。

 

静を理解するには、動が必要です。

 

生きている事を理解するには死が必要です。

 

しかし、ホントに死んでしまっては、トレーニングが続けられません。

 

実は、呼吸の瞬間瞬間、睡眠中、あるいは、物質レベルでは、瞬間瞬間「生死を繰り返している」のです。

 

ですから、普通に生きていて、生きている事を無意識的に感じて居るのです。

 

回りくどい説明になって居ますが、。これもヨガが循環哲学であるが故の必然なのです。

 

あるときは、激しく、あるときは静に、細胞レベルの生もあれば、人体として、地球人として、宇宙人としての生が

 

有ると思うことが大切です。

 

総合ヨガこそヨガの原点、循環哲学であるとする所以もこのような理由によります。

 

生きている事の「原点」をポーズ、瞑想で最小限感じ取ったら、それをさらに広げていきます。

 

それを冥想といいます。

 

有限な瞑想を無限な冥想につなげて生きましょう。行きましょう。




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