世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

イケイケドンドン般若心経

2010-06-30 21:03:23 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
木魚のリズムは、一拍子有限。鐘のの一発は行ったっきりの0拍子でも有限。お椀・鈴の縁を繰り返しこすって出る「おわ~ん おわ~ん」はオワランオワランと聞こえて無限拍子。






教えてグーより転載

そもそも人間の生活(生き、活かし合う)が即ち哲学なのだとすればいいのです。ヨガの語源は「ユイ ユヒ ムスヒ 結い」と聞いています。インド本土というより、南インド地方の言葉の様です。ヨガよいうと何か特殊のイメージをもたれるのが世間一般の認識でしょうが、真理を求める目で認識するとなれば、表面上の認識では浅すぎます。ヨガ=ムスヒというイメージにすればまた、ニュアンスの違った認識が広がると思いますが。世我とすれば、人間と宇宙のむすび探求、つまり「人間生活すべて」が世我となります。言葉の持つ「象徴性」に囚われず、独自に広く深く認識解釈すればいいのです。ただし、対話する者同士でそのことを共有して居なければ無意味では有ります。本当のヨガ=世我を実践実行されたことはありますか?愚問ですね。人間生活そのものが世我なのですから、ほとんどの人は知らず知らずのうちに世我っている訳でした。イノチの働きも「ムスヒ バランス 循環 調和」と定義されます。生きていることはそのまま「バランス」現象なのです。病気はバランス回復作用・現象と観ます。世我的認識です。究極の時間に単位は不要です。空間にも単位は入りません。しかし、日常生活の便宜のために単位が有ります。究極の尺度と人間スケールでの尺度は違うのが当然なのでしょう。ところで、時間と空間の共通する単位が有りますが、それは「回転」です。瞬間にも一単位の長さがあり、一番小さな空間にも大きさがあります。量子論です。単位は秒でもメートルでもない、もっとも物理的ながいねんで「回転」なのでした。つまり、時間と空間とが区別つけられない状態、現象が、宇宙の究極現象で、論理に反しません。もっとも論理的です。哲学とはこういう結論を導き出す作業でもあるのです。科学には出来ません。
断定して譲らなければ「偏執宗教」にナリマス。あくまでも哲学の立場は、仮説ですから、皆さんのご意見を期待するわけです。わくわくしながら、別の見方の出るのを楽しみにして居ます。これが、哲学の醍醐味では無いでしょうか。自説を無理やり押しつけません。これ以上は解説不能というどん詰まりまで、テーマを追い詰めるのです。一人の力では限度が有ります。皆さん一緒に、真理を追い詰めてみませんか。般若心経の最後に、ギャーティギャーティパラギャーティパラサンギャーティ ボディスヴァハ というサンスクリット語の呪文がありますが、一つの解釈では「ゴウゴウイケイケドンドン、突き抜けると真理に至る」となるそうです。ギャーはGO、行く、ギョウと同義なだそうです。なるほどとおもえます。心経の前文は「0 空 循環」をといていますから、そのだめ押しでしょうか。


dasoku:
「瞬間」の長さの時間的単位と、一番小さな空間の大きさの単位とを同じにしてしまえば、
時間=空間となり、時間が空間に移行変換する場面になります。宇宙は一次元でも二次元でも三次元でも成立出来ません。つまり始めも終わりも無く常に、最低限四次元以上が必要でした。巨大宇宙も極微宇宙も最低存在を成立するための必要条件は「一回転」です。一回転しない時間は時間として捉えられない。空間も閉じてていないとカウントできない道理です。時間も空間も一回転する事で有限を確保出来、その回転を繰り返すのに、この宇宙には制限が内容です。その制限のないことを「無限」というのです。空間的果ての限りのないことを無限と想像するのは、論理的に破綻しています。空間と認識した時点で「限界 境界」を想定してしまって入る訳ですから、有限としてしまっているのです。それを無限と思おうとするのは「分裂 矛盾思考です」

                   

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