関西大震災の13回忌の2008/1/17の今日のニュースで気になった言葉があります。
「震災で6千数百人の人の命が奪われた」
奪われたという表現は、当事者に対して慰めになるのだろうか。
奪われた、と云うより「失った」の方が、原因解明に偏向を来たさないで済む。
自然は、生物の命を「奪う」ようなケチなことはしない。
奪われた、の表現のうらには「損得勘定か、被害妄想」が混入する。
あえて、奪われ表現を使うなら「人間の文化に奪われた」のニュアンスでしょう。
ニュース番組の解説者は、婉曲的にそのことを指摘している。
建物が脆弱で、地盤の弱いところに建築している、山の斜面を切り開いて新興住宅地を開発しすぎた、と。
野生生物は、自然の異常を事前に感知して危険を避ける能力を備えているようですが、文化人は、野暮を卑下し、自然感知力を放棄することをステイタスにする愚かな生物である。
よしとしよう
自然は寛容である。自分の命は自分の責任で管理していい。
管理に失敗すれば、最悪の場合に命を失う。奪われるのではないと思う。
活かされている感覚を忘れたとき、
自然現象は「災害」に見えてしまう。
自由とは、
活かされているルールを知って、自律して生きること、とは
自由生活の方程式の回答です。
自由と、生活の言葉の深い意味を一度に解ってしまう、ありがたい方程式です。
追悼の式典で「千の風になって」が合唱されていた。