世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

普通の体操とヨガの体操

2008-01-07 22:00:54 | 健康
普通と云う字をそのまま素直に解釈すれば「あまねく、つうじる」あるいは

「一般的に広まっている」と理解できる

ヨガとはバランス、総合的という意味である

一般的に広まっている体操と、バランスのいい体操ということになる

「普通」が「あまねくつうじる」の意味なら、ヨガと同義である。

しかし、一般的となると、「一般」が曲者である

一般とは「したたか庶民」のことだ!

したたか庶民の文化は「庶民の生きるに都合の良い文化」である。それなりに

正しいということになるのであるが、庶民でない者にとって正しい、都合がいい

ということになるとは限らない。

となると、「あまねくつうじない」ので

あまねく正しいと云うことにはならない。


ヨガはバランス、総合的であるから、あまねく通じるものである。

ところで、ヨガの体操の「一般的イメージ」はアクロバット的、曲芸的な

軟体動物の真似事のように思われているが、一言でいえば「錯覚」である。

100%の間違いではないが、総合的ヨガの定義からは外れた部分的認識に
過ぎない。

次に「体操」であるが、

文字通りに訳せば「体を操る」ことである。

体操そのものに、善悪、正しい、間違いという概念はいらない。

体操に何か目的を持たせたり、効能・効果を期待しようとしたときに

正しい、間違い、安全、危険の価値観が生じる。

俗心の塊の一般庶民が効果を期待する「特殊な体操」は、部分的であり、普遍的体

操とは云えなくなってしまう。それだけでなく危険でさえある。

健康法としての体操をイメージするなら、「普通の体操」という認識は危険である

「~体操」というのは体操であっても、健康法とはなり得ないということを論理的に理解しないで体操を行うなら、それは不健康法体操というべきである。

ヨガの体操、あるいはポーズをやって、怪我をしたり、腰を痛めたりするひとがい

るが、これはヨガをやらなかったから怪我をしたのであって、ヨガもどきの実践では怪我は当然である。

ヨガの体操は体操のみに非ず、①運動②体操③姿勢の総合で成り立つ。

①運動とは、動き主体で同じ動作を繰り返す、骨格筋の鍛錬主体
②体操とは、動静混在で、形を整え、内臓筋を整える
③姿勢とは、静主体で、形を整え、精神性の安定と心身の調和の効果

普通の体操の効果は「自分自身」の個人的効果の範疇でとどまりやすい。
ヨガの体操の場合は、生活環境に適応する自然な心身の健康維持が目的であり、必ずしも特殊能力ばかりを増強するものではない。









































2008-01-07 03:31:03 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
ヨガ風体操か

体操風ヨガか

どちらが真のヨガか?

・・・・

どちらも間違い、どちらも正しい

・・・・?

ヨガにどっち、という質問はナンセンスです。

ヨガは全てという意味の「ユニ 結び」が語源でした


実証的科学では、解明できない
「見えない世界・無限宇宙の果てのなぞ」「生命現象」等について、
論理的に回答を与えられるのが「哲学 フィロソヒ」です。

宗教は独善的すぎて、論理的解明は無理です。
宗教的感覚は「独善 主張 固定絶対」ですから、
科学的証明は不要ですし、そもそもできません。
独善が宗教の命、本質ですから、それでいいのです。

世なおし倶楽部ブログでは、
哲学の欠点であるプレゼンテーションの部分を、
「芸術」の力を借りて補い、

既に先人が成し遂げているにも関わらず、
無理解、錯覚に陥っている「宇宙 生命無限 時空 人生等」の
哲学的命題について、「明解」に解明しています。

不充分な点もまだありますが、基本、大筋では「なぞ」の
解明は済んでいます。

哲学人の大先輩「ゴータマ・シンダッタ 通称釈迦」が
既に解明済みのことなのですが、
「伝達ミス」があって、正確に伝わっていません。
例えば、「仏教」を開いたのは釈迦自身ではなく
「釈迦没後200年以上後世」の金持の檀家たちでした。
自分たちの想像たくましく「釈迦がこういった、ああいった」と
書き留めて創作したものが「仏の教え」でした。

いずれにしても、真理の生なまは「人伝て」では伝わりません!
ひとり一人が自分の命を削って体得するものです。
先人の言葉は「参考意見」です。
その意見が本物かどうかを感じ取るのは
今生きている「自分の命の感性」意外にありません。

ヨガ教室を見学して、ヨガの良さ、本質を理解できる人は、
ヨガ教室に通う必要は無いでしょう。
見学だけで、ものごとを理解できるひとは、
すでに「マスター」です。通い習う必要などない道理です。

釈迦、ゴータマ・シンダルッタは「仙道・術=ヨガ」を実践して、悟られた。
ならば釈迦の伝えたかったことは「ヨガ」の本質であったはずだ。
釈迦が仏教の創始者ではない道理が理解できる
仏教で「仏教の本質がヨガであることを正確に伝えていない」ようでは
仏教の教えは釈迦のものでは無いと言えよう。

大乗仏教とか、小乗仏教とか分裂しているのは、
仏教がヨガではないことの証明である。

江田派ではなく、枝葉の教えはいくらでも作られるし、
それはそれで良い

しかし、基本の教えは単純明快なはずで、実際そうである
ヨガとは「むすぶ 総合」であった。

釈迦が絶対的に妥協せず伝えたことは
「神=命=健康=総合=宇宙=ヨガ」であったはず
後世の人たちは、それだけでは間が持たなかったのか
儲けに結びつかなかったのか
色々俗な枝葉を飾ってしまった

そのうちに、本家のヨガの重要性の伝達を忘れてしまったのだろう

見聞きしただけでは、何事も深い理解は出来ないものだ
実践を通してのみ、本質の理解体得ができる

ヨガの体得は、簡単すぎるために
見過ごしてしまうのかも知れない!

瞬間に体得して、瞬間に忘れてしまうのだろう
現実の生活上でも、ヨガの原理は、「裏存在」である
忘れられてしまうのも無理の無いことかも知れない

であればこそ

ヨガの基本を体得した者は、基本を念仏のように
繰り返し「ぶつぶつ」云い続ける義務がある

釈迦も当時「ヨガ ユイ 結い むすび ヨガ・・・」と
仏、仏云っていたのだろう

ブツブツ云うところが、耳障りで「仏教」となった?

お後がよろしいようで・・・


youtube

今風活動写真