ヨガには実体が無い、といってもよい
いわゆるポーズはポーズでヨガの本質ではない
ポーズはアサナ、あるいはアーサナ、アサーナとかいう
訛りと考えれば、間違いない
ヨガをヨーガともいうが
これも訛りと考えればよい
訛りは、体質の現われだ
耳の感性は、体液のミネラル成分とよく対応している、という研究がある
発音、発声は、「聴こえ方」で決まる
耳の不自由な人は、一般に言葉を失っているが、
声を失っているのでなければ、訓練しだいで
言葉の発声は可能である
話がそれた。もとに戻そう
ポーズはポーズであり、ヨガではなかった
ヨガは「ユガ ユイ 結い」で「結ぶ」「協力」「調和」「バランス」の意味
実体ではなく、裏で支えている「仕組み」のようなものと考えるほうがよい
ヨガのトレーニングを部分的にとらえると、雑多なテクニックが必要になる
ストレッチ、アレキサンダーテクニック、操体法、テラミス?ピラテス?
自彊術、ボディポテンシャル、整体体操、健美体操、気功、ゾーンセラピー、マクロビオティック、瞑想、~ヨガ・・・浅学で全てを列挙できないが、もちろんこれらすべてがヨガではない
ヨガはこれら全てを合理的に活用する「哲学・知恵・センス」だ
当然「センス」だけでは、活用できない
体験の裏づけが伴っていないと、機能しない
ヨガ本来の実用的知恵を身に着ける方法は、簡単である
「知り、実行することの継続」これが基本であり、究極である
何を知り、何を実行するのか
人生の全てである
人間は、あらゆる生物の「頂点」的生き物でした
ということは、あらゆる生物の「遺伝情報」を持っているということだ
実際、ヒトの腸内細菌は生物中、もっとも複雑多種である
つまり、色々な環境への適応が大きく広いということだ
色々な人生体験、年齢相応の体験経験、特殊なトレーニングなど
全身全霊・命がけで学習することで、ヨガの真のセンスと技が身につく
ヨガもどきの雑多なトレーニングは、不要なのではない
大いに活用したらよい
活用するために必要な「プログラム・ソフト」が「ヨガの実行哲学」であった
ヨガのバランス哲学を根にもって、体験すると、その体験が生きた体験になるのだ
邪魔になるような「先入観」はいらないが
役に立つ先入観は必須条件だ
役に立つ先入観の修得法は
それこそがヨガなのだが
後先がいたちごっこになってしまう
どこかを「糸口」にする必要がある
それがヨガの基本である
それは、
心構えとして、宇宙生命は「バランス=循環=矛盾」であることの理解
あるいは、生き、生かされているバランスの理解、認識
身構えとして、重心・姿勢(形と動き)の制御と呼吸の同調
食事法として、穀物・でんぷん食を主体に、環境に負荷をかけず、
これをスタートとして、毎日の生活を積み重ねることで
役に立つ「先入観」が培われる
自分個人と、環境全体を結んでいるハタラキが、命であり、ヨガであることの理解認識を実感として深め確実のものにするためのトレーニングがヨガであろうと思う今日この頃