伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

コロナ禍も落ち着き、久しぶりに両親の眠る蒲郡にある墓参りに、今話題の頼朝の御家人安達藤九郎盛長墓所を訪れる。

2023年04月20日 | 歴史の考察

なんとコロナ禍の影響もあり4〜5年ぶりに両親の墓参りに愛知県に車で出かける、此の車での遠乗り(往復約六百キロ)は初めてである。5月は皐月晴れと良い天気は良いのですが、地球の環境の変化あで、生憎の雨模様で富士山は見えそうにない。道路はすこぶる順調で早新東名に差し掛かる、しばらく走ると新沼津を抜け途中富士山の頭が見えた。

此の後またたく間に雲の中に消え姿は見えなくなった。途中新静岡で飲料補給とトイレ休憩を挟み無事音羽蒲郡インターを下り360キロを走破したガソリン補給は約20リットルとリットルあたり18キロ強とノーマル車(トヨタスペード1.5l)としては随分燃費がよい車である。現在化石燃料は廃止され全てEVにと言われてますが、正しい選択であろうか知識人は化石燃料の効率を高めたエンジン車が地球環境にも良いとされているようでEUは間違った方式を選んでいる。

この燃費問題は基本的には化石燃料使用のもたらす仕業で周りに海で囲まれている日本ではCO2は海水に溶け込み酸素を作りプランクトンを生み出し自然環境には良いと思うが。其々の国により自然環境の違いであるので、日本独自の環境問題の数値を提出するべきであろう、この国の政治屋は何時の間にか間違った政治を行う様になったのであろうか・・・?一番の悪は気候温暖化の嘘を信じている政府が最悪である、流石政治は三流国家である。
先の大東亜戦争での敗戦で、奴らアメリカの属国に成り下がった日本は一刻も早い真の意味での独立をしなければならない、それには取り敢えず日清戦争以降の正しい歴史認識を学ぶことが必要である、



この写真は新東名の新沼津付近である、今回の旅は両親並びに世話になった親戚等の三ヶ所の墓参りである。

順調に無事蒲郡到着、妹宅にてコーヒーを淹れていただく、そこに合った中日新聞に竹島の写真が掲載されている、生憎の曇り空で撮影には最低な条件だが、一度撮影してみようと翌日早起きして覗いてみた。
現在でも蒲郡の最強のパワースポットと言われる、「竹島」長さ387メートルの橋で陸地と結ばれた、蒲郡のシンボル・竹島。島の中央部には、開運・安産・縁結びの神々を祀る実に日本人らしい「八百富神社」があります。 



因みに、竹島に鎮座する八百富神社は、平安時代の養和元年(1181)の創建で、蒲郡開発の祖・藤原俊成が竹生島から勧請したという言い伝えがあります。
また蒲郡とは、蒲形(かまがた)と、西郡(にしのこうり)が合わさり蒲郡となったと聞いた事がある。
約300年前の宝永4年(1707)の序をもつ『三河雀(みかわすずめ)』という地誌には、「日本七天女」として、江の島(神奈川県)、宮島(広島県)、天河(奈良県)、竹生島(滋賀県)、布施(千葉県)、野尻(長野県)と並べて「三州竹島」が挙げられています。いわゆる弁天様の事である。

他の地誌にも「風景佳也」と記されており、竹島は古くから観光名所として近隣に知られていたようで、享保20年(1735)に「八百富神」の御神号を賜っています。



また学生時代の友人は週末に現在ボランテアにて竹島付近の案内をしているそうである、意外と同級生は地元で過ごしている人が多いようである。

島の中央に島まで渡る橋が続いている、島はいろいろの神様がお祀りしてあります。詳細は下図をご覧ください。



対岸から約400mしか離れていないのに、本土とは異なる独自の植物体系を持ち、その特異性から島全体が国の天然記念物に指定されています。この先にも大島、小島とあり、昔は夏時期は遊覧船が蒲郡港、三谷港を往来し海水浴客が賑わっていたが現在は筆者には不明であった。ただ記憶に残るは幼少の頃大島で海に潜って採ったアサリは大きく、凄く美味かった記憶が残る。

此の地域は益々過疎化し人口も増えない情態であり兎に角活性化が必要である。環境良い下地は沢山ありほんの少しの調味料で大化けする可能性は大きいかも知れない。この辺りは昔は東三河と言われ岡崎の西三河とも若干違った環境化にも地学的歴史的にも興味深いのかも知れない。
筆者が思うことは昔から三河の糞塊(クソカタマリ)と言われ外部との交流は苦手意識もあり他県で生活すると温暖な環境三河湾特有の穏やかな海後は山で囲まれ神奈川の鎌倉より生活は住み易いのかも知れない、ただ三河気質は馴染めないかも知れない。最近のは古くから親しまれている竹島水族館はスタッフが色々のイベントを実行し最近は客足増員しているそうだが喜ばしい事である。



下の写真は昔有名な常盤館跡地だある、料理旅館「常磐館」は、1912年に滝信四郎氏により竹島海岸に建てられました。滝信四郎氏は「常磐館」「竹島橋」「蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)」「弘法大師像」など、蒲郡観光の礎を築いた名古屋の実業家です。昔は観光の街として賑わいを見せ、鉄道唱歌にも「海のきれいな蒲郡」と歌われたようである。

現在は「海辺の文学記念館」は、100年を過ぎた今も常磐館と文豪たちを忘れないよう、1997年に建てられました。
館内には、常磐館で実際に使われていた照明器具や100年前から使われている置時計などが飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。


但し筆者が意外と不思議に思うは親鸞聖人が矢作川でのお言葉もあり、西三河には一向宗が多く勿論尾張、東三河とも一向宗の進行は多くない、また本山に於いても一向一揆の支持はなく、単なる偶然での一向一揆の危機が迫ったのであろうか不思議でありお寺側は不入兼の取り消しだけであった。

現在日本中世史、特に戦国時代史小和田 哲男先生並びに岡崎を中心とした地域の歴史研究をしています市橋章男先生も加わって制作中のどうする家康ですが蒲郡の古き時代を西三河と東三河の違いがあるという題材も描かれています。



この写真は妹が撮影した画像を後日添付したものです。今も残る上ノ郷城跡に残る石で作った案内の日が残る、鵜殿どのは裏手の地方名で鵜殿坂と言われる道路で見つかったと言われている。今も残る土塁が残っています。
同じ三河でも全く違う軍団であり、西三河は矢作川と平野しか無く、東三河には温暖で静かな三河湾の隣接と大きな河川豊川もあり、食料、交通網も実に利便性が高く、一種生活環境の違いが伺える事であろう。

鵜殿長照は「西の郡の民話」より引用 蒲郡市立北部小学校 の西のダラグラ坂を「鵜殿坂」と呼んでいる。 永禄5年(1561年)の上ノ郷合戦の時、城主の鵜殿長照が城を逃れて長沢街道を落ちようとした。安楽寺東の坂であとを追って来た敵の松平金十郎が長照に追いつき一騎討ち、刀を抜いて戦った。 運とでもいうか、長照は木の根につまづいてころぴ、起き上るところを飛び込んで来た金十郎の一刀で斬られ、無念の最後をとげてしまった。「無念、もしころばなかったら……。」と長照が言い残したので、この坂を「鵜殿坂」と呼び、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だと今だに伝説が残っている。そうですのでこの坂では転ばないように注意していると言われる。



後日調べて解った事はこの付近の山の上にある一見城の様な「蒲郡クラシックホテル」創立は昭和 9年だそうでが、以前この辺り東三河は「府相城」として今川支配下になっていた様で、最も有名な城は上ノ郷城があります。思うに昔は海上輸送が発達していた為この辺りは港も多く交通の便も良かった様です。
この様な小さな町なのだが、後は竹谷城、形原城、水竹城、丹野城、中島城の城があったと言われる。



さすが三河湾内と思われる並静かな穏やかな海が広がってます。そして反対から見た竹島を撮ってみました、一般的にはこの方角から撮ることが一番のポイントと言われるようです。早朝は朝凪で風情がある写真が撮れるのですが生憎の曇り空で大変残念であった。
紹介したが隣には昔は有名な旅館で常盤館の跡地が今も残っている撮った場所は常盤館跡地前です。
その後、勿論新鮮な魚を見に西浦漁港の朝市にも立ち寄る、お土産にと「シャコ」を探すが・・・・市場の人に今年のシャコ情報も聞くと、残念なことに天候不順も影響され全く採れないそうです、茹でたてのシャコは絶品で、しかも採って直ぐに船上で蒸した物は最高です。

妹も昨年初めて日展に入選受賞し今年も「書」で日展のテーマが決まり今から準備するそうですが、その前の名古屋開催の朝日展の出品と重なり忙しいと言ってました。日展中心に頑張れと言ってきました。



蒲郡を地政学的に思えば、前方は海でそして小さな街が開けその後方の三方は山で囲まれ、三ヶ根山、五井山、弘法大師像の建立された弘法山等で囲まれ自然な要害でもあり、鎌倉と近い地形が広がる東三河の要所にもなった事は理解できる。現在はその三方の山裾にはみかんの栽培が広がり味の良い「蒲郡みかん」は特に有名です。上ノ郷城址跡地も現在みかん畑になっている。

無事に墓参りも終わり親父の兄弟共に祀られる真宗 大谷派 常円寺にも立ち寄る。無事お参りも済ませ。常円寺のすぐ近く(丁度裏手にあり徒歩5分ほど)にある、今話題の有名な寺、鎌倉時代の歴史の世界に立ち寄る。
大変お恥ずかしい話ではあるが、筆者は歴史好きだが最近までこの曹洞宗 長泉寺(ちょうせんじ)が此のような歴史を抱えた寺とは知らなかった。今年のNHK大河ドラマにより知った話題でもあり、是非訪れて見たかった場所でもある。特に入り口の門は五井城から持ってきた赤門が有名である、たたき部分は未だ赤色に染まり風情を残しているようです。

曹洞宗 龍田山 長泉寺(蒲郡市五井町)に今年の十三人の鎌倉殿に出ている安達藤九郎盛長墓所がある、安達藤九郎盛長は建久5年(1194年)、三河国に守護が置かれた際、初代守護となった鎌倉幕府の重臣。源 頼朝の命により三河国各地の社寺の再興や造営に努め、この地には長泉寺を建立。長泉寺は後に「三河七御堂」と呼ばれるほど栄えました。五輪塔は5つの石を組み合わせて建てられたもの。蒲郡市指定文化財です。



ドラマではお人好しで憎めない役を演じて好感度も誠によろしい様である。
長泉寺の墓場には別の所に安達家の墓があり27代の墓まであった。この三河、尾張はこの様な歴史的名所、人物等は非常に多く点在する、蒲郡の近くに吉良家、岡崎には徳川家と多い様である。頼朝の実母方の実家熱田で、生まれ愛知県尾張熱田の出身者でもある。
丁度関東と京都の真ん中に位置する三河、尾張は何かと歴史的背景の多い地方でもある、日本史の好きな方は長く滞在して、今一度日本史を紐解くも面白そうである。此の様に歴史を考えれば自ずと地形も一緒に考える事が良い方法でもある。
歴史と同時に地形も含めた全般的には地政学を学ぶ事が一番良い方法かも知れない。特に現在問題になっているウイグル地区などは地学と共に学ぶと理解しやすい様です。歴史の変わり目は必ず前の歴史があり無からは生まれないのが歴史である。



寺の近くには今は無き、五井城があった様です、上記の八幡宮境内となっている辺り一帯に築かれていた。さすが鎌倉時代の関係者で八幡様も近くにある、隣の長泉寺境内も含めて高台となって城館を築くのに相応しい地形となっていた。神社の南側にあるフェンスに囲まれた池が堀の名残と伝わっています。

戦国時代、松平(徳川)一族は、三河国内の各地に分家がありました。 その後、蒲郡市五井町を本拠地とした領主が五井松平家です。現在は滅失してしまいましたが、古城山真清寺が建っているところに、 かつて五井城がありました。 
徳川家康が、江戸へ国替えになると、五井松平家も関東へ移り住 みました。
江戸時代には五千五百石の上級旗本として存続し、歴代当主は、「常備火消けし」(江戸城や市中を火災 から守る役目)などを歴任しました。開催中の企画展「松平家ゆかりの文化財」では、五井松平家の子孫の 方にお借りした、系図・過去帳・ 書画・工芸品など貴重な文化財を 展示しています。



安達盛長(あだちもりなが)/野添義弘さんが演じています。安達 盛長は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏・大曽根氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。 『尊卑分脈』では小野田三郎兼広の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。兄は藤原遠兼でその子が足立遠元とされている。

安達盛長は「愛すべき従者」だとキャスト発表のときに紹介していただきましたが、頼朝のために淡々と動き回って仕事をすることから、とても真面目な人だと思うんです。のちのち13人の中に入るときには強硬派になったりとか、ちょっと怖い部分が見えてきたりもしますけどね。実は三谷さんから、安達盛長という役についてメールをいただいたんです。
「草燃える」(1979年)で盛長を演じられた武田鉄矢さんを例に出して、「当時は若い盛長で書かれていたけど、最近の研究ではもう少し歳を取っていたらしいので、今回は老練な安達盛長を演じてほしい。野添さんがやるのだから、荒々しい坂東武者の中でも異彩を放つ、寡黙ながらもすっとぼけたユーモアのある盛長を演じてもらいたい」と。そうなれるように、一生懸命やっております。三谷さんのイメージは、“かしこまった場が苦手な現場主任”らしいです(笑)。


ひっそりよした佇まいの長泉寺入り口付近。駐車場は左側道路を進み左側に以外と広い駐車場があります。


五輪塔の説明文


入り口山門、赤く塗られた門は五井山の麓にあった五井城より持ってきた門と言われてます。


山門より本堂を覗く、下の土の部分が門の朱色が雨等により塗料が落ち朱に染まってます。
東三河あたりは戦国時代から江戸幕府が登場するまでの時代の中心地に近い為か構築された砦に近い城が多く点在する。また中世から戦国時代までの事を書かれた書物、小林 林之助 著「三州上郷城物語」の本には蒲郡のことは詳しく書かれている様ですので、探して一度読んで見たいですね。


長泉寺本堂


鐘撞堂


稲荷神社


筆者は此処の出身なのにこの寺の見学は初めてでもある、実際蒲郡に住んでいたのは28歳の頃までで、その後は東京住まいで現在千葉県在住で、同級生等はほとんど三河在住者が多い様である。

鎌倉時代の安達盛長の墓何故か?27代の墓まであった。


中央は安達盛長の墓の様です。


特徴は、本堂から鐘撞堂まで来られる便利な創りになっていた。


これを見て今回の歴史巡りの旅は終わる。

お割れが若干小腹が減る、実家近くの地元のうどん屋「清田庵」にて名物のうどんを頂く、最近有名になったうどんである。ご当地うどんの新定番「ガマゴリうどん」

そして最近の食べ物は「ガマゴリうどん」濃厚なアサリのダシとワカメの潮の香りで旨味の効いたご当地うどんのことです。
2013年、滋賀県東近江市で行われた「第3回全国ご当地うどんサミット2013」にて、初出場で初優勝を飾り一躍話題に。 翌年、秋田県湯沢市で行われた「全国まるごとうどんエキスポ2014 in 秋田・湯沢」に於いても、蒲郡うどんは初出場初優勝を飾り、その実力を不動のものとしました。 現在市内17ヶ所(2021年3月現在)のうどん店・飲食店にて、蒲郡市シティセールス推進協議会お墨付きの蒲郡うどんを頂くことができます。

特に春のあさりの旬の頃、身の一杯詰まった味の強い特徴の三河湾のアサリ拾いは特に有名で、大塚、竹島、形原等近くの浜辺で旬の季節に採れる大きなアサリの酒蒸しは実に美味しい。
時期になれば観光バスが押し寄せ特別な賑わいを見せた。筆者は20代後半から江戸で暮らすが江戸湾で取れる魚介類より三河湾のが味が濃く感じる。

良く釣りに出撃していた頃、一度尺近い内房で釣ったキスを両親に送ったことがあるが、型は立派だが味は三河湾のキスが味が濃く上手いと言われた、実際アサリの味を比べ江戸産(船橋浅瀬である三番瀬・木更津当たり)より三河産がはるかに上手いのは不思議である。特にガザミ(ワタリガニ)については味の差が違いは大きい、蒸し蟹が実に上手い。

蒲郡うどんは最近復活したと言われる地元で採れる三河湾のアサリの濃厚なスープは別格である、ブラボー!

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