12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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火牛の計

2008年09月17日 05時58分29秒 | Weblog

 ナポリのあるカンパアーニア地方から長靴のかかとの部分であるプーリア地方に抜けるには、イタリア半島の背骨であるアペニン山脈を越えなければならない。

BC217年、連戦連勝でイタリア全土を荒らしまわっているアルプス越えで攻め入ってきたハンニバルを、ローマ軍は一網打尽にしようと、山脈越えの谷間で待ち伏せしていた。

しかし、僅か三十歳のハンニバルは、優れた情報収集能力でこの待ち伏せを察知し、枯れ木を多量に集め荷車を引かせていた牛二千頭の角に枯れ木の束を結び付けさせた。

夜の暗闇になると、枯れ木の束に点火させ待ち伏せのローマ軍が陣地を築いているのとは反対側の丘に牛を追い立てた。

 夜間の戦闘を避けたかったローマ軍は、反対側の丘を奪われても、谷間での待ち伏せには一向に差し支えないと、暗闇のなか反対の丘に攻め上って行くたいまつの火をただ見送ったのであった。

このスキに、ハンニバルは全軍を一兵も失うことなしに通り過ぎてしまった。

これ以降、ローマ人の間では、どんなに妨害されてもやり遂げる事を「何であろうと、ハンニバルは通過する」という言葉で表現するのだと言う。(塩野七生著 ローマ人の物語)

おまけ;火牛の戦法、或いは、火牛の計について

その1:火牛の戦法は、中国の春秋時代BC284年、角に短剣をくくりつけ、尻尾にたいまつをつけた多くの牛を夜の敵陣に放って大混乱に陥れ(火牛の計)、その上で強襲をかけて敵将を討ち取った、田単将軍が採った戦法である。

 (ハンニバルと近い時代のことであるが、洋の東西交易はそれほど頻繁だったとも思われないので、それぞれの独創と考えてよいようである)

その2:源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。通称・木曾 義仲の名でも知られる。「朝日将軍(旭将軍)」と呼ばれた。

1183年5月にいよいよ倶利伽羅峠の戦いが始まった。平家は砺波山西麓に布陣し、義仲軍は東麓一帯に布陣した。義仲軍は地元の石黒・宮崎などの協力を得て夜襲をかけた。

 平家軍はこの夜襲に狼狽し谷底に転落するものも多く、平知度・為盛も戦死し、平維盛は都へ逃げ帰った。この戦いを機に義仲軍は都へと兵を進めた。この時の採られた戦法が世に有名な『火牛の計』である。  

この倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲の戦法『火牛の計』は、500頭にのぼる牛を集め、その牛の角に火をつけた松明を結びつけ、夜中に敵軍のいる方向に追い立てるというやり方である。驚いた平家は敗走したという話である。この話は「源平盛衰記」に登場する。

 500頭もの牛はこの時代この地方には存在した可能性は無い。ましてや短期間にそれだけ多くの牛を集めることは不可能である。また、牛の角に松明を縛りつけ火をつけると、むしろ牛は怖がって前には進まないとの事である。  

おそらく、後の世に諸国行脚の琵琶法師の語り部たちが倶利伽羅峠の戦いを、義仲軍の武勇として誇大表現して伝えたことは当然である。

そして、聞く人に楽しんでもらうため、中国の田単将軍の話を添えて伝説化したものが源平盛衰記に記されたものであろうと推測されている。