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「老いのかたち」 黒井千次著・・・年のとり方

2011年05月05日 02時11分07秒 | Weblog

先日、この作家の小説「高く手を振る日」について、朴念仁の無粋な思いを書いてしまい、少々反省しているところである。

どうも気が咎めたので、氏の著作を調べてみたら「老いのかたち」という本の書評にたどりついた。そこに小生の波長に一致する一文があった。

一言で言えば、「年のとり方」である。

” 本書は、読売新聞夕刊に連載中の随筆「時のかくれん坊」を5年分纏めたもの。テーマは「現代における老いであり、かつてのようには歳を取りにくくなった昨今の老人はどのように日を過ごし、何を考えたり感じたりしてどう生きているかを確かめよう」とするもの。

著者が日々の生活で感じる「老い」の現象は、その年齢になってみて初めて経験することへの戸惑いと諦めがあり、それに対して諦めきれない思いというのもある。”


著者はちょうど10年先輩なので、小生がこれから経験するであろう10年後までのことを予め教えてくれるだろうと期待した。(80歳への心の準備とでも言えるものだろう)小生が、さすがと最も共感できた事を以下にご紹介する。


"最近年齢のわりに幼いと感じがするひとが多いように思う。昔の50歳ならもう隠居の身となって、それなりの貫禄や威厳があった。年齢相応の姿というのがわからなくなってきているようだ。

としたら、我々は節目も輪郭もない時間をただ生きていくしかない。どうしてそうなってしまったのか。年齢を数字で捉えることに忙しく、そこにひそむ歳月の意味、生き続けて来た命の谺(こだま)とでもいったものに、注意を払わなくなったからではなかろうか。


還暦であるとか、古稀、喜寿、傘寿などといった年齢の節目は、ただ言葉として残るのみである。

もし節目にそれなりの力が宿っていれば、そこに指をかけ爪を立てて年齢相応の老いのイメージを掘り出すことが叶うのかもしれない。老人とはこういうものだ、といった共通の認識が生まれるのかもしれない。

威厳にせよ貫禄にせよ、温容にせよ枯淡にせよ、老人にふさわしい生の佇まいはそのような認識を基礎にして保たれて来たのだろう。

ただ年齢不詳の元気な老人がふえただけでは、老いが豊かになるとはとても思えない。”

ただの年齢不詳の元気な老人で終わりそうな小生に、厳しく問いかけられた言葉であった。老人の威厳とか貫禄を身につけることを意識しようと思い始めたのである。


付記;

1.自分はまだ大丈夫だと思っても、周りからはそうではなく見られてしまう。初めて、赤の他人から「オジイチャン」と呼ばれたときに感じる寂しさ。一生懸命歩いても、さほど急いでいるわけでもない若者に抜かれてしまい、無理をして追いつこうとして疲れ果てる。

2.立食パーティでジュースをこぼした後、今度はそば汁の椀を落としてしまう。食べ物を服にこぼすのは、老人には避けがたい失敗と覚悟するしかないと著者は述べている。

3.ちょっとした段差で躓いたり、ものぶつかったりすることがある。電車の中で本を読んでいて、居眠りをしているわけでもないのに本を落とすことがある。

4.ここ数年の記憶より、若い頃の記憶のほうがよく憶えていることがある。

5.本書にマルコム・カウリーの著書にある「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」が紹介されており、思い当たるのが「骨に痛みを感じるとき」、「誤って歯ブラシを取り落としたとき」、「去年より足先が手から遠ざかったように感じられるとき」、「美しい女性と街ですれちがっても振り返らなくなったとき」。

・・・マルコム・カウリーの著書にある「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」に興味を抱いた。これにについて調べる必要がありそうだ。