おはようございます。
今日から1300形(1300・1600)の写真になります。
1300形1301~1310(M3)(両運転台)S23.川崎車輌)1311・1312(M1・2)(片運転台)S24.ナニワ工機)
1600形1601~1608(Tc)(片運転台全車京都向き)(S24.25.ナニワ工機)の20両です。
1303.1304はS27.特急車用として片運転台化1311-1608-1312 1303-1304 特急色になりS33.に通勤車色に戻った。
1601~1606が付随車化1351~1356に改番 1607・1608はS42中間電動車化された。
S42.~43.に3扉化・された。
(1) 1301 急行淀屋橋 寝屋川6号踏切 S41.
(2) 1303 急行宇治(天ヶ瀬号) 寝屋川6号踏切 S41.4.
(3) 1309 急行京都三条(万国こども博副標識) 寝屋川6号踏切 S41.4. (H24.7.28.訂正)
(4) 1310 急行宇治(天ヶ瀬号) 寝屋川6号踏切 S41.4.
私は宇治線沿線で育ちました。当時私は5歳でしたが、休日の夕刻?に両親に連れられて六地蔵駅付近を散歩していたところ4両編成の臨時列車が乗入れていたのを今でもはっきりと覚えています。その時は2000系の4両編成だったのでさらに驚きでした。
当時の宇治線は500系、1000系、1300系、1700系の2~3両編成が主流でした。但し一時期だけ2000系の2両編成が運用されていたのを覚えています。
また懐かしい画像を見せて下さい。
コメントありがとうございます。
宇治行き急行(大阪発)は春・秋の行楽シーズンに昭和の時代は運転されていました。
昭和40年頃(?)までは幌付き車両は宇治線に入れなかったと思います。
中書島4番線(現3番線)から宇治からでの曲線がきつく入線できませんでした。
※3番線は現在のホームのうどん屋さん付近まで京都方に折り返し線がありました。
曲線を改良して幌付きでも入れるようになりおっしゃるとおり2000系も使われるようになりました。(詳しい時期は忘れてしまいました。)
私のブログでも京阪だけで700回を超える写真を出していますので古い写真を見てください。
確か2000系の2連の写真もあったと思います。
またコメントお願いします。
ありがとうございました。
コメントありがとうございました。
おっしゃるとおり急行京都三条行でひらかたパークの「万国こども博」の副標識がついていました。
私も小学校の時代(S22.~28.)から京阪電車で通学していましたのでいつも運転台の仕切り棒につかまって前方を見ていましたので
お客様で好きな方がおられたら嬉しかったです。
子供さんが前を見ておられたら車掌台のカウンターに置いた私物のカバン等を床に置いて視界を確保したりしていました。
今ではあまり乗務員は気にせず置いているのが気になります。
これからも気づいたことがありましたらコメントお願いします。
私も間違わないように気をつけますのでよろしくお願いします。
ありがとうございました。
数年鉄パパ写真ページを楽しみにしています。
1300の思い出をお送りします。
①昭和30年代樟葉で急行が脱線したこと。
②昭和40年初叔母が枚方公園近くに住んでおり、そこから朝実家の京都へ向かう時枚方公園初停車の急行800レに乗りましたが、いつも1300の6連でした。
③昭和40年代後半樟葉~三条を通学しましたが、帰路樟葉に帰るとき、本線急行に乗らず、三条一番線からの宇治行き急行に乗りました。
車は2000のときもありましたが1300もよく運用され特急直前のダイヤで丹波橋まで逃げるダイヤでした。藤ノ森からの下りも力行し、最前部にかじりつきで通学の帰路を楽しみました。
夏には、レジンシューの焦げる匂いが今でも昨日のように思い出します。
過去の旧1900や600・700、2000のところも投稿させていただきたく思います。
コメントありがとうございます。
よく覚えておられますねぇ!
(1)の樟葉での事故は昭和36年3月9日の深夜に起こりました。
現在の樟葉駅の京都側に当時の駅はありました。
最終列車後の工事のために準備していて犬釘を抜きすぎて列車脱線がありました。
。
(2)(3)についてはあまり記憶に残っていませんが、加速が遅かったので第2前進(レバースハンドル)手動にして一段づつ刻んだものです。
(注)当時のレバースハンドル(前進・後進ハンドル)には前進が2段になっていて1段は自動・2段は手動となっていました
(この方が自動進段(レバースハンドル1段)より進段が早かったので遅れた時にしました。
ありがとうございました。