地域を元気に! 安田こうせい

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2012年07月03日 | Weblog
 
 6月に宮城県亘理郡山元町、岩手県陸前高田市、気仙沼市、南三陸町、石巻市に震災被災状況及び復興状況について、これからの防災計画、防災全般について被災地調査を行いましたのでその経過と結果についてご報告いたします。
東日本大震災から1年がすぎ、今もなお34万3935が全国に散り、うち11万6787人が仮設住宅暮らし、という避難生活を送っています。死者は1万5854人。いまも行方の分からない人が3155人。復興庁の統計であります。被災地の復興も遅々の状態にあるようです。まず初めに岩手県陸前高田市を視察いたしました。陸前高田市では死者、行方不明者数1,764人、家屋倒壊数3,341棟であり、岩手県の震災津波による農林水産関係の被害総額は6,633億2千3百万円であります。岩手県陸前高田市は東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けました。視察では市役所等が被災した現状で残されていていました。津波は全職員の113人の命を奪い、今はプレハブ庁舎で、失われた同僚を思い、復興に向け力を尽くしています。ボランティアセンターには今も多くのボランティアの方々が参加し、側溝の土あげや瓦礫を分別する姿を拝見いたしました。陸前高田市では地盤沈下により地形も変わり、7万本の松並木が美しかった高田松原は津波が陸地もろともはぎ取られました。そんな中、一本だけ残った松は震災で傷ついた人々の心の希望となっています。希望の一本松も海水をかぶり枯れはじめています。被災したすべての方の希望となっていくことを願わずにはいられませんでした。













次に宮城県を視察いたしました。震源地に最も近かった宮城県は、いまだに膨大な瓦礫の山が随所に残っている状況であります。死者、行方不明者数14,396人、家屋倒壊数61,678であり、農林水産関係の被害総額は9,372億円であります。
日本有数の漁港も大きな被害を受け¬た。鹿折地区には大型の漁船やタンカー等が打ち上げられ今も残っていました。石油コンビナートなどがあり、震災時に火災が発生し甚大な被害が出したところであります。街全体が炎に包まれる気仙沼の衝撃的な映像を今でも思い出されます。また、震災には魚の冷凍倉庫が多く壊滅し、被災後の冷凍した魚が腐り周り一帯が魚の腐敗した悪臭が今でも残る町でありました。





南三陸町では、防災対策庁舎を視察しました。天使の声と称された遠藤未希が津波襲来する最後まで避難を呼び掛けました。遠藤さんに多くの町民も助けられました。あの冷静な声を聞いて、彼女がどんな心境で津波に立ち向かったのか考えただけでも胸が苦しくなる心境であります。彼女は一人でも多くの人を避難させるという、使命感が恐怖心に勝っていたのだろうと思いました。




 宮城県石巻市の大川小を視察しました。この小学校は北上川河口から約4㌔の川沿いに位置し、震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となりました。北上川をさかのぼった津波が避難の列を襲いました。学校裏に高さ20メートルの山があるにもかかわらず、避難先を探して校庭に40分も滞在。近くの堤防を目指した直後、襲われました。助かったのはとっさに裏山に上ったり、保護者に引き渡した後だったりした児童だけだったそうです。東日本大震災から1年3カ月たった今も献花台には多くの花で彩られ、児童を悼む弔問客は絶えないようであります。本町にとっても各小中学校による避難所、避難誘導など巨大津波対策は今後の大きな課題だと考えさせられました。



宮城県山元町を視察いたしました。山元町は宮城県の東南端に位置し、人口は14,226人、世帯数4,862、太平洋に面し、黒松林を抱えた海岸地帯とイチゴ・ホッキ貝が特産品の町であります。震災での死者・行方不明者数633人、家屋の被害は全壊2,217棟であり、特産品のイチゴ農家149戸のうち145戸が全壊いたしました。山元町では地震発生から大津波襲来まで一時間ほどかかりました。この地は平地であることや避難場所等がないことから被害が大きくなりました。地域で防災訓練等は行われていましたが、津波を想定した訓練は行われていませんでした。地元小学校は沿岸部に位置していますが、全校生徒が屋上に避難し、後日ヘリコップターにて救助し難を逃れました。山元町の震災復興計画と震災関連事業の取り組みについては、H23~30年度の8年間で2,400億円であり、防潮堤復旧事業、災害廃棄物処理事業、復興土地区画整備事業等であります。災害廃棄物処理事業については、処理プラントを建設し24時間体制で中間・最終処理を行い、1日300トン処理し、あと2年半で終了する予定である。特産のイチゴ畑の復興にイチゴ団地化整備事業、新駅周辺整備計画にコンパクトシティ等を取り入れ、本格的な復興に向けて動き始めていると感じました。
ある本の中に宮城県知事 村井嘉浩氏は復興に懸ける思いについて、二十年後、三十年後の宮城、東北のあるべき姿を思い描きながら復興を果たし、復興計画を作成する際には、同じような被害が二度と起きないような町づくりを考えた五つの基本理念、一、「災害に強く安心暮らせるまちづくり」二、「県民一人ひとりが復興の主体・総力を結集した復興」三、「復旧にとどまらない抜本的な再構築」四、現代社会の課題を解決する先進的な地域づくり」五、壊滅的な被害からの復興モデルの構築」に基づいて、災害に強い町づくりなど復興のポイントを十項目あげ、県民一丸となって復興に取り組むという姿勢を早急に示す必要があるとの思いから,復興に向けた基本的な考えを示しています。宮城県が復興を成し遂げることで、日本全体に元気を取り戻したいと熱い思いを語っていました。
 今回の視察研修で当初、震災から一年が経ち、いくらなんでもここまで復興が遅れるとは思っていませんでした。国民が瓦礫の受け入れの拒否し、ようやく復興、再生に向けた予算措置等が挙げられ、経済最優先の消費税関連法案など、とりわけ強く憤りを感じました。近い将来、必ず起こるといわれている首都直下型地震と、東海、東南海地震等で壊滅的な破壊を受けたら、日本は本当に滅亡してしまうと思いました。いつまでもコンクリートから人へなどと言って、公共投資を拒んでいては大変なことになります。二度と東日本大震災の悲劇を繰り返してはならない。自然災害の被害はしかたないが、一年も放置されるようなことがあってはならない。そうならない為にも、震災からの復興と並行して、防災に強靭な町づくりが今後の課題となると感じました。
 以上であります。

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