前回書き込んだ、近所の店でのセッションについての続き。
その晩は、ひたすら即興演奏に専念。
フリーの即興系セッションの特徴は、いかに音を合わせるか?ではなく、いかに音を重ねるか?という点にあるように思える。
同時に、いかに「フリー」を標榜しているとはいえ、それを「音楽」とするためには何らかの決まりごとが必要だろうとも思う。
全員が好き勝手にやったら、単なる騒音。
そこで、ボトムを務める私としては、ギター、管等のリード楽器の自由度を高めるべく、根気よく、一定の指標となるようなビートパターンを繰り返す、というアプローチに落ち着くのだ。
周囲はどんどん解放(解体?)の様相を呈するのに対し、ボトムラインはさながら修行僧のように、ストイックな演奏を継続することになる。
その結果、私的にはカテゴライズ不能の音楽、強いて言うならフリージャズと呼べるかもしれない音楽、を演奏し続けた。
で、冒頭の設問が脳裏に浮かんだ。
Free Jazzって、何?
「何」に対して「自由」なのか?
カテゴライズされることに対する「自由」?
オンガクのフォーミュラに対する「自由」?
はたまた、さまざまな理論に対する「自由」?
誰が自由なのか?誰を自由にするのか?
演奏者?とりわけリード楽器奏者?
そんなどうでもいい、ともすればいやらしい議論に思いを巡らせながら、それでも全力でドラムと格闘していたその時、妙なことに気づいた。
なんか妙に気持ちがいい。
多分、私のドラミングは、いわゆるフリージャズのドラマーの演奏とは違う。
ひたすらシンプルに叩くしかできない。
ともすれば肉体的には非常に窮屈な作業であり、スタイル的には既存のドラミングから離れることができず、一般的に連想されるところのフリージャズ的ドラミングには程遠い。
ところが、構築と解体を繰り返す音の洪水の中で一種ストイックなスタイルを押し通すことが、非常にメンタルな高揚感をもたらしてくれていることに気付いた。
無論、それは他のセッションメンバー、特に稀代のインプロヴァイザー、庄田氏の存在が大きいのだろう。
彼がどんどん内面をさらけ出すように音を解き放つにつれ、引きづられるようにこちらもさらけ出していくその過程が、まさに「Free!」であると感じられた。
言い換えれば、純粋に「音を出すことが楽しい」という、ただそれだけの地平を感じることができたと言うか。
その意味では、「全ての音楽は、すなわちフリージャズなのだ」というテーゼは、けだし明言である。
また、庄田氏の持つ、誰と競演してもそこまで感じさせてしまう圧倒的なパワー、闇雲なテンションこそ、まさにFree Jazzの精神性なのだろう。
とするならば、Free Jazzの究極の目的は、聴衆の解放なのかも知れぬ。
そのために、一見音楽の様相を呈していないかのごとき演奏を、音の爆弾として聴衆に投げつける。
言わば、音楽のアナーキズム。
強引な結論だけれど。
ひたすらブロウし続ける庄田氏の背中を見ながら、ふと、そんなことを思った。
その晩は、ひたすら即興演奏に専念。
フリーの即興系セッションの特徴は、いかに音を合わせるか?ではなく、いかに音を重ねるか?という点にあるように思える。
同時に、いかに「フリー」を標榜しているとはいえ、それを「音楽」とするためには何らかの決まりごとが必要だろうとも思う。
全員が好き勝手にやったら、単なる騒音。
そこで、ボトムを務める私としては、ギター、管等のリード楽器の自由度を高めるべく、根気よく、一定の指標となるようなビートパターンを繰り返す、というアプローチに落ち着くのだ。
周囲はどんどん解放(解体?)の様相を呈するのに対し、ボトムラインはさながら修行僧のように、ストイックな演奏を継続することになる。
その結果、私的にはカテゴライズ不能の音楽、強いて言うならフリージャズと呼べるかもしれない音楽、を演奏し続けた。
で、冒頭の設問が脳裏に浮かんだ。
Free Jazzって、何?
「何」に対して「自由」なのか?
カテゴライズされることに対する「自由」?
オンガクのフォーミュラに対する「自由」?
はたまた、さまざまな理論に対する「自由」?
誰が自由なのか?誰を自由にするのか?
演奏者?とりわけリード楽器奏者?
そんなどうでもいい、ともすればいやらしい議論に思いを巡らせながら、それでも全力でドラムと格闘していたその時、妙なことに気づいた。
なんか妙に気持ちがいい。
多分、私のドラミングは、いわゆるフリージャズのドラマーの演奏とは違う。
ひたすらシンプルに叩くしかできない。
ともすれば肉体的には非常に窮屈な作業であり、スタイル的には既存のドラミングから離れることができず、一般的に連想されるところのフリージャズ的ドラミングには程遠い。
ところが、構築と解体を繰り返す音の洪水の中で一種ストイックなスタイルを押し通すことが、非常にメンタルな高揚感をもたらしてくれていることに気付いた。
無論、それは他のセッションメンバー、特に稀代のインプロヴァイザー、庄田氏の存在が大きいのだろう。
彼がどんどん内面をさらけ出すように音を解き放つにつれ、引きづられるようにこちらもさらけ出していくその過程が、まさに「Free!」であると感じられた。
言い換えれば、純粋に「音を出すことが楽しい」という、ただそれだけの地平を感じることができたと言うか。
その意味では、「全ての音楽は、すなわちフリージャズなのだ」というテーゼは、けだし明言である。
また、庄田氏の持つ、誰と競演してもそこまで感じさせてしまう圧倒的なパワー、闇雲なテンションこそ、まさにFree Jazzの精神性なのだろう。
とするならば、Free Jazzの究極の目的は、聴衆の解放なのかも知れぬ。
そのために、一見音楽の様相を呈していないかのごとき演奏を、音の爆弾として聴衆に投げつける。
言わば、音楽のアナーキズム。
強引な結論だけれど。
ひたすらブロウし続ける庄田氏の背中を見ながら、ふと、そんなことを思った。
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